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第四話 龍の吟、初めて天を衝く



その夜、外はしんしんと雪が降っていた。


隆中の草廬は、降り積もる雪に音を吸われ、外界から完全に切り離されたかのような静寂に包まれている。


だが、その一室だけは、若者たちの熱気がまるで真夏のように渦巻いていた。




議題は、いつもと同じ「今、仕えるべき英雄は誰か」。




「やはり、荊州の主・劉表様こそ、我らが仕えるべき仁君だ。だが、あまりに守りに入りすぎている。天下を望む気概が、あの方には見えぬ」




孟建が、もどかしそうに腕を組む。




「ならば、いっそ江東の孫権殿はどうか。若いが、その地は父兄が三代にわたって築いた鉄壁の基盤。我らの才を存分に振るえるやもしれん」




石韜が、冷静に分析する。


それに、最も熱を帯びた声で反論したのは、徐庶だった。




「いや、俺は北の曹操を推す。彼の覇道は苛烈だが、偽りの仁政を掲げる者よりよほど信用できる。この乱世を終わらせる力と覚悟が、あの男にはある。綺麗事だけでは、民は救えんのだ!」




それぞれの正義が、それぞれの理想が、火花を散らす。誰もが、己の信じる道こそが天下を救うのだと、疑っていなかった。




その熱気の中で、ただ一人。


諸葛孔明は、先ほどから一言も発さず、静かに揺れる炎を見つめている。


まるで、この部屋にいないかのように。




議論が行き詰まり、ふと皆の視線が、その沈黙の主に注がれた。


最初に沈黙を破ったのは、やはり徐庶だった。


彼は、苛立ちを隠そうともしない声で、孔明に切り込んだ。




「孔明。いつまで黙っているつもりだ。我らの議論が、お前の高尚な耳には、子供の戯言にでも聞こえるか?」




空気が、一瞬で張り詰める。




石韜が「元直、言い過ぎだ」と慌てて諌めるが、徐庶の真っ直ぐな瞳は、孔明から逸らされない。


彼はただ、知りたかったのだ。


この静かな友が、その深い瞳の奥に、一体どんな世界を映しているのかを。




責めるような視線を一身に浴びても、孔明は動じなかった。


彼はゆっくりと茶器を置き、すっと立ち上がる。


その静かな所作が、場の空気を支配した。




「皆の言うこと、それぞれに理がある。だが、木を見ているだけでは、森の姿は捉えられぬ」




孔明の声は大きくない。


しかし、雪明かりに照らされた冬の湖面のように、凛としてよく通った。


若者たちは、皆、言葉を失って彼を見つめる。




彼は燃えさしの木の枝を手に取ると、火鉢の白い灰の上に、おぼろげな地図を描き始めた。




「まず視るべきは、個々の英雄ではない。天下という巨大な盤の上に流れる、三つの大きな『流れ』だ」




彼は灰の上の一点、北方を指し示す。




「一つは、『天の時』。北の曹操は、天子をその手に戴き、中原を平定した。百万の兵を擁し、その威は天下を覆う。これと正面から争うのは、天に逆らうに等しい愚策だ」




次に、東の一帯をなぞる。




「二つ目は、『地の利』。江東の孫氏は、父・兄から三代にわたり、かの地を深く治めている。長江の守りは天険そのもの。民心も彼らにあり、この地を攻めるは、岩に卵をぶつけるがごとし」




そして、孔明の声に、初めて熱がこもった。




「天の時、地の利、そのいずれも持たぬ者に残された道は一つ。それは、『人の和』だ」




彼は、まだ誰のものでもない中央の空白地帯――荊州と、さらに西の益州を、大きく円で囲んだ。




「だが、今の天下に真に民の心を集める器を持つ英雄は、まだ己の国を持っていない。もし……もし、漢室の血を引くという大義名分を持ち、仁義を失わぬ英雄がいるならば。その者がこの荊州と西の益州を得て、民の心という『人の和』を以て国を建て、曹操・孫氏とかなえの足の如く対峙する」




彼の瞳が、燃える炎を映して、強く輝いた。




「そうなれば、天下は三つに分かれ、互いに牽制しあう形が生まれる。その均衡の上で初めて、我らが目指す『王者』の道が開けるやもしれぬのだ」




語り終えた孔明が静かに座ると、草廬は再び、深い静寂に包まれた。





だが、それは先ほどまでの苛立ちを含んだ静寂とは、全く質の違う、畏怖と驚愕に満ちた静寂だった。


孟建も、石韜も、そして問いを発した徐庶も、言葉を失っていた。




自分たちが目の前の仕官先を探すように英雄を論じていたのに対し、孔明は一人、十年、二十年先の天下の形勢そのものを設計していた。


彼らは初めて理解した。


孔明の沈黙は、臆病や傲慢からではなかった。


彼が見ていた世界の広さ、その視座の高さが、自分たちとはあまりにも違っていたのだ。




徐庶は、自らの問いかけの小ささを恥じるように、ただ灰の上に描かれた壮大な地図を、呆然と見つめることしかできなかった。




しんしんと降り積もる雪の音だけが、若者たちの衝撃を優しく、そして厳かに包み込んでいた。

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