第四十八話 虚実の軍議
広間の熱狂は、夜の帳が降りる頃には嘘のように静まっていた。
日中の激論で火照った空気は冷え、今はただ、これから始まる未曽有の大戦を前にした、張り詰めた沈黙だけが満ちている。
場所は、呉侯・孫権の私室にほど近い一室。
昼間の広間とは違い、華美な装飾は一切なく、ただ中央に置かれた大きな卓と、壁に掛けられた長江流域の広大な地図だけが、この部屋の目的を雄弁に物語っていた。灯された燭台の炎が、集まった者たちの顔に深い陰影を落とす。
呉侯・孫権を中心に、若き大都督・周瑜公瑾、忠臣・魯粛子敬、そして孫家三代に仕えた歴戦の将、程普。江東の中枢を担う顔ぶれの中に、ただ一人、涼やかな佇まいの客将、諸葛孔明が座していた。
改めて、孫権の手により同盟の誓いが交わされ、一同は静かに杯を挙げる。酒の味も、今はまるで感じられない。
孫権は、その若さに見合わぬ威厳を声に込め、宣言した。
「此度の戦、一切の采配は公瑾に一任する。江東の命運は、そなたの双肩にかかっておる」
そして、その視線を孔明へと移す。
「孔明殿には、その大いなる知恵を以て公瑾を助け、江東を勝利に導いていただきたい」
事実上の総司令官と客将軍師。
その立場が明確にされた瞬間であった。
程普をはじめとする江東の将臣たちは、安堵したように、あるいは当然とばかりに深く頷く。
周瑜は、席を立つと優雅に一礼した。
その所作には一点の隙もない。
彼は、礼を終えたその顔を上げ、孔明を一瞥した。
その涼やかな瞳の奥に宿るのは、氷のような光。
それは獲物を品定めする猛禽の目であり、「お前の出る幕はない」という無言の圧力が、鋭い刃となって孔明に突き刺さった。
軍議が始まった。
周瑜はすっくと立ち上がり、壁の地図を細く美しい指で差し示した。
その声は、静かだが部屋の隅々にまで染み渡るように響く。
「曹操、兵力八十万と号しておりますが、その内実は見るに堪えませぬ。多くは荊州からの降兵。忠誠心も練度も、我らが江東の士とは比べようもない。真に警戒すべきは、北から率いてきた精鋭二十万のみ」
淀みない言葉が、聞く者の心を掴んでいく。
「我らには、この長江という天然の要害がある。奴らは陸の覇者なれど、水の上では赤子同然。三江口に堅固な防衛線を築き、奴らが不慣れな水上戦に誘い込む。そして、我が水軍の機動力を以て、分断し、各個撃破する。これぞ必勝の策にございます」
それは誰の耳にも、非の打ち所のない、王道ともいえる作戦であった。
水の理を知り尽くした江東だからこそ成し得る、完璧な戦術。
老将・程普が、感嘆の声を漏らす。
「さすがは大都督。我ら水軍の力を最大限に活かせましょうぞ。これならば、曹操の百万の軍勢とて恐るるに足らず!」
一座の空気が、その策の正しさに安堵し、わずかに緩んだ、その時であった。
それまで静かに目を閉じていた孔明が、すっと瞼を上げ、静かに口を開いた。
「都督の策、確かに理に適っております。されど、あまりに『正しすぎる』」
その一言は、水面に投じられた一石のように、部屋の空気を震わせた。
全ての視線が孔明に注がれ、ぴんと張り詰めた糸のような緊張が走る。
周瑜は、眉一つ動かさなかった。
ただ、その瞳の温度がさらに数度下がったように見えた。
「ほう。孔明殿は、この策に何か不備があると仰せか」
「不備ではございませぬ」
孔明は穏やかに首を振る。
「ただ、あまりに正しすぎるゆえ、かの曹操も当然この手を読んでおりましょう。策を読まれながら、なお八十万の大軍で圧し潰そうというのが曹操の狙い。策で勝っていても、力で押し切られては意味がありませぬ。兵力の絶対差を覆すには、理の外…常道を逸した『奇策』を用いる必要がございます」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、程普がカッと目を見開き、卓を叩かんばかりに身を乗り出した。
「若輩者が!大都督の完璧な策にケチをつけるか!無礼であろう!」
その声には、古参の将としての誇りと、新参者への露骨な敵意が燃え盛っていた。魯粛が慌ててその腕を掴み、制する。
だが、周瑜は面白そうに口の端を上げた。
怒りではない。
それは、ようやく手応えのある玩具を見つけた子供のような、あるいは、待ち望んだ好敵手の登場を予感したかのような、不遜で、それでいてどこか楽しげな笑みであった。
「では、お聞かせ願おうか。孔明殿の言う『奇策』とやらを」
試すような周瑜の視線を、孔明は泰然と受け止めた。
「戦とは、兵の数だけで決まるものにあらず。士気、すなわち兵の心の強さが勝敗を分けます。まず我らが為すべきは、曹操軍の士気を内から挫き、我が江東の兵の怒りに火を点けること」
孔明はそこで言葉を切り、卓上の茶器を静かに手に取った。
そして、ゆっくりと一口、茶を含む。
じらされた一座の視線が、孔明の一挙手一投足に突き刺さる。
やがて彼は、その茶器をことりと置くと、恐るべき一言を、静かに、しかしはっきりと放った。
「曹操は今、鄴に壮麗な『銅雀台』を築きました。そして、かねてより江東の二人の美女、『二喬』を我がものとし、その銅雀台に住まわせることを夢見ていると公言しております。この話を、江東の隅々にまで広めるのです」
瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
音のない爆発が起きたかのような、絶対的な沈黙。
二喬。それは、亡き英雄・孫策の妻である大喬と、今この場にいる大都督・周瑜が愛してやまぬ妻・小喬のことである。
それは、江東の最も神聖にして不可侵なる誇りを、汚れた土足で踏みにじるに等しい言葉であった。
「き、貴様…!」
程普の顔が怒りで朱に染まり、腰に佩いた剣の柄に、その指が白くなるほど強くかけられた。魯粛の顔からは血の気が失せ、ただ唇をわななかせるばかりだ。
周瑜の顔から、すっと表情が消えた。
喜怒哀楽の全てが削ぎ落とされた能面のような無表情。
しかし、その静かな瞳の奥では、抑えきれぬ激情がマグマのように燃え盛っているのが、誰の目にも見て取れた。
「孔明殿」
地を這うような、低く、冷たい声が響いた。
「それは、我が君と、この私を侮辱する戯言か」
しかし、孔明は全く動じない。
それどころか、静かに席を立ち、一歩、また一歩と、周瑜の正面へと歩み寄った。その足取りには、微塵の揺らぎもなかった。
「侮辱ではございませぬ。これこそが、人の心を動かす『奇策』にございます」
二人の天才の間に、もはや物理的な隔たりはほとんどない。
見えない火花が、その間で激しく散っていた。
「この噂は、二つの刃となりましょう。一つは、曹操に向けた刃。好色な老人の私欲のために命を懸けるのかと、荊州の降兵たちの心を揺さぶります。そしてもう一つは、我らに向けた刃。主君と大都督が受けたこの屈辱は、兵たちの怒りを爆発させ、心を一つにする最強の起爆剤となりましょう。私的なる怒りを、天下のための公憤へと昇華させるのです」
孔明は、そこで周瑜の瞳をまっすぐに見据えた。
その視線は、相手の魂の深淵までも見透かすかのようだった。
「…都督。まさかとは思いますが、ご自身の妻君を策の具にされるのが、お気に召さぬと。そう仰せられるのではありますまいな?」
それは、あまりにも危険な挑発。
お前は、私情に流される小人物か、それとも天下のための屈辱を甘んじて受け入れられる大人物か。
孔明は、周瑜の器そのものを、白日の下に晒そうとしていた。
息を飲むような沈黙が、部屋を支配した。
やがて、周瑜の能面のような顔に、ゆっくりと亀裂が入った。
その唇が、三日月のように吊り上がる。
「…面白い」
彼は低く呟くと、次の瞬間、天を仰いで大音声で笑い始めた。
「はっ、はははは!見事だ、孔明殿!よかろう、その手、乗ってやろう!」
彼は、己の燃え盛る怒りを、一瞬にして覇者の笑みに変えてみせたのだ。
その器の大きさは、常人には計り知れない。
「だが、覚えておかれるがよい」
笑みを収めた周瑜の目が、再び氷の鋭さを取り戻す。
「人の心を煽るだけでは、戦には勝てぬ。口先だけの貴殿に、我が江東の兵が命を預けると思うな。…貴殿には、まず『実』を示していただこう」
周瑜は、冷徹な挑戦状を突きつけた。
「この大軍を迎え撃つに、矢が百万本は必要となろう。これを十日の内に、調達していただきたい。無論、江東の倉庫に頼ることなく、な」
それは、常識では到底不可能な要求であった。
孔明の「虚」の策に対し、周瑜は冷徹極まる「実」を突きつけたのだ。
断れば臆病者と侮られ、受ければ不可能に潰される。
周瑜の反撃が、今、静かに始まった。
軍議が終わると、魯粛はいてもたってもいられず、孔明の宿舎へと駆け込んだ。
「孔明殿!なぜ、あのような挑発をなされた!そして百万本の矢など、十日でどうやって…!あれは公瑾の罠ですぞ、断るべきでした!」
その顔には、焦りと心配がありありと浮かんでいた。
孔明は、窓辺に立ち、月光を浴びて銀色に輝く長江の雄大な流れを、静かに眺めていた。
「子敬(魯粛の字)殿。ご心配には及びませぬ」
その声は、夜の川面のように穏やかだった。
「都督は、私が江東にとって益となる存在か、それとも害となる存在か、見極めようとしておられる。ならば、こちらも試さねばなりませぬ。周瑜都督が、私の常軌を逸した奇策を受け入れるだけの器量をお持ちかどうかを」
孔明は、ゆっくりと魯粛に向き直った。
その瞳には、星々のような強い光が宿っていた。
「虎の背に乗って戦うには、まずその虎が、己を振り落とさぬだけの賢さと力を持つことを見極めねばなりませぬ。…百万本の矢、ご心配なく。十日もかかりませぬ」
孔明は、静かに言い切った。
「三日で、全てお見せいたしましょう」
その絶対的な自信に満ちた言葉に、魯粛はもはや返す言葉もなかった。
龍と虎の腹の探り合い。
虚と実が入り混じる策略の応酬。
赤壁の野を焦がす炎が上がるより先に、二人の天才の間で、すでに激しい戦いの火蓋が切って落とされたのであった。




