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第四十七話  二つの太陽






広間の空気は、関羽の一瞥によって凍り付いていた。




張昭をはじめとする降伏を唱える文官たちは、言葉の刃も、武の威圧の前にはかくも無力であるかを思い知り、沈黙するしかなかった。




誰もが、これで議論は決したかと思った、その時であった。




広間の隅、柱の影になっていた場所から、一人の男がゆっくりと歩み出た。


すらりとした長身に、端正な顔立ち。


その涼やかな目元には、しかし燃えるような知性が宿っている。


江東の守護神にして、孫策の義兄弟。




赤壁の戦場をその一身に背負う若き大都督、周瑜公瑾。




彼の登場に、それまで意気消沈していた文官たちの顔に、ぱっと期待の色が浮かんだ。


主戦派の筆頭であるはずのこの男が、どう動くのか。




周瑜は、孔明の正面に立つと、優雅に一礼した。


その所作には、武人特有の荒々しさは微塵もない。




「諸葛孔明殿。あなたの弁舌、実に見事なものだ。大義名分、漢室への忠義、そして兵法の理。どれ一つとして非の打ち所がない」




穏やかな賞賛の言葉。


しかし、孔明はその言葉の裏にある、鋭利な刃のような真意を感じ取っていた。




周瑜は、居並ぶ一同を見渡すと、張昭とは全く質の異なる、静かで、しかし重い声で続けた。




「だが、孔明殿。物事には、理想や理屈だけでは測れぬ側面がある。…この周瑜も、張昭殿と同じく、今は曹操に降るのが上策かと思考しておる」




その一言は、広間にいる全ての者の耳を疑わせた。


「なっ…!?」


最も驚いたのは、魯粛であった。


「公瑾、お前、何を…!」と悲鳴のような声を上げる。




降伏派の文官たちですら、信じられないといった表情で顔を見合わせている。


主君である孫権も、眉間に深い皺を刻み、周瑜の真意を図りかねていた。


唯一、表情を変えなかったのは、孔明と、その背後に立つ関羽だけであった。




孔明は、面白そうに口の端を上げた。




「ほう。都督が、そのように考えられる理由をお聞かせ願えますかな」




「うむ」と周瑜は頷いた。




「理由は三つある」




彼は指を一本立てる。




「一つ。あなたが説く曹操軍の弱点、すなわち不慣れな水軍、遠征の疲弊、疫病の発生。これらは全て『可能性』に過ぎぬ。万一、これらの弱点が露呈せぬまま曹操軍が万全の態勢で攻め寄せてきた場合、我らに勝ち目はない。国運を、そのような不確かなものに賭けるのは、将帥の取るべき道ではない」




次に、二本目の指を立てる。




「二つ。仮に、万に一つの幸運に恵まれ我らが勝利したとしよう。だが、江東の兵もただでは済むまい。疲弊した我らの背後を、力を温存したあなたの主君、劉備殿が襲うやもしれぬ。そうなれば、我らは虎を退けて、代わりに狼を招き入れることになる。それは避けねばならぬ」




そして、周瑜は三本目の指を立て、その目をすっと細めた。


その視線は、孔明の心の臓腑ぞうふまで見透かすかのようだった。




「三つ。そしてこれが最も重要だ。…降伏は、必ずしも滅亡を意味しない。『力』を持つ者が降伏した場合、それは『戦略的後退』となり得る。我らは曹操の天下統一に協力し、その功績によって江東の安寧を保証させる。そして、来るべき日に備え、内側から力を蓄える。曹操とて人の子、いつまでも生きているわけではない。彼の死後、天下が再び乱れた時にこそ、真の好機が訪れる。…目先の小さな戦に勝ち、全てを失う危険を冒すより、未来の確実な勝利のために、今は頭を下げる。これこそが、真の処世術であり、覇者の戦略ではないかな?」




それは、張昭が述べた「民の命を守る」という感傷的な降伏論とは全く異質の、冷徹なまでに計算され尽くした『降伏による覇道』であった。




あまりに理路整然としたその戦略に、広間の者たちは息を飲む。


これこそが、江東の誇る美周郎の知略。


この男が言うのであれば、あるいは…。


降伏論へ、再び空気が大きく傾きかけた。




皆の視線が、再び孔明に注がれる。この完璧な論理の城を、どう攻め崩すのか。


孔明は、手にしていた羽扇を、ぱちり、と閉じた。


乾いた音が、静寂に響く。




「周瑜都督。あなたほどの御方が、なぜそのような子供騙しの戯言たわごとを仰せられるのか」




その言葉は、刃のように鋭かった。




「戯言、だと?」周瑜の眉が、ぴくりと動く。




「いかにも。一つずつ、お答えいたしましょう」と孔明は続けた。




「まず一つ目。『可能性』に賭けるのは将帥の道にあらず、と仰せられた。ならば、勝算が十割の戦でなければ、兵を動かされぬおつもりか?古来より、戦とは不確かな未来を手繰り寄せるためのもの。曹操軍の弱点は、机上の空論ではございませぬ。北の兵が南の水に慣れぬは理の当然。大軍が動けば兵站へいたんが伸びきり、疫病が流行るのもまた、理の当然。その『理』を積み重ね、勝利という『可能性』を『必然』に変えることこそ、真の将帥の務めではありますまいか」




「次に二つ目。我が主君が、疲弊した江東を背後から襲う、と。…ふふ、都督、あなたはご自身の心を以て、我が君の心を測っておられるようだ。我が君が荊州の南で旗を揚げたのは、天下万民を塗炭の苦しみから救わんがため。曹操という漢賊を討つという大義の前では、江東も荊州も同じ志を持つ同志。その同志の背を斬るような真似は、天地が裂けてもいたしませぬ。もし、そのような卑小な疑念を抱かれるのであれば、この同盟の話は、今すぐになかったことにしていただいて構いませぬ」




孔明は、敢えて突き放すように言った。


その瞳には、主君への絶対的な信頼と、周瑜の猜疑心を咎める強い光が宿っていた。


そして、孔明は一歩、周瑜に近づいた。




「最後に、三つ目。最も愚かしい『戦略的後退』論について。…虎の腹の中に一度入ってしまえば、もはやあなたはあなたではいられなくなる。曹操という男は、己より優れた才を持つ者を、決して生かしてはおきませぬ。都督、あなたのその類稀なる知略と人望は、降伏した瞬間から、あなた自身を殺す最大の要因となるでしょう。牙を抜かれ、爪を剥がれ、飼い殺しにされるのが関の山。内側から力を蓄えるなど、それこそ夢物語に過ぎぬことを、聡明なあなた様が気付かぬはずがない」




孔明は言葉を切り、広間を見渡した。




「そもそも、この降伏論は、初めから大きな前提が間違っている。それは、『曹操が天下を統一できる』という前提です。しかし、断言いたしましょう。天意は、漢室の復興を望む我が主君にあり、人の和もまた、仁徳を備えた者に集まる。曹操は、必ずや敗れる。その沈みゆく泥の船に、なぜ江東の皆様が、自ら乗り込もうとなさるのですか!」




言い終えると、孔明は再び羽扇を静かに開いた。


その泰然とした姿は、まるで全てを見通しているかのようであった。




周瑜は、孔明をじっと見つめていた。


その顔からは表情が消え、何を考えているのか誰にもうかがい知ることはできない。




長い、長い沈黙が流れた。




やがて、周瑜の唇が、ゆっくりと綻んだ。


そして、次の瞬間。




「はっ、はははは!あーっははははは!」




天を衝くような大音声の笑いが、広間に響き渡った。


彼は腹を抱え、涙を流さんばかりに笑い続けた。




呆気に取られる群臣たちを尻目に、周瑜は笑いながら孔明の肩をばしりと叩いた。




「見事だ!孔明殿、実に見事だ!我が仕掛けた問いに、これほど完璧な答えを返してくれる者が、天下に貴殿の他にいようか!」




彼はくるりと群臣たちに向き直り、声を張り上げた。




「諸君、聞いたか!この男の言葉を!臆病風に吹かれておった者どもは、目を覚まさんか!曹操、恐るるに足らず!この周瑜、そして江東の全ての兵は、今この時より、諸葛孔明殿と共に、逆賊・曹操を討ち滅ぼすことを誓う!」




周瑜の劇的な宣言に、広間は熱狂の渦に包まれた。


それまで降伏を唱えていた者たちさえ、周瑜の気迫と孔明の言葉に心を動かされ、「おおーっ!」という雄叫びを上げていた。




孔明は、静かにその様子を見つめていた。




(やはり、試されていたか…)




この男、周瑜公瑾。その器、噂以上に大きい。


そして、その誇りの高さもまた、天を衝くほどであろう。


味方となればこれほど頼もしい男はいない。だが、敵に回せば…。




周瑜は、興奮冷めやらぬ孫権の前に進み出て、深く拝礼した。




「我が君!これで、戦の準備は整いました。あとは、この孔明殿と共に、勝利への道筋を描くのみにございます!」




二つの太陽が、今、並び立った。




龍と獅子は手を携え、北から迫る巨大な闇に立ち向かうことを決意した。


だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。




二人の天才のこの出会いは、輝かしい勝利をもたらすのか、それとも新たな悲劇の始まりとなるのか。




それはまだ、誰にも分からなかった。



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