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第四十三話  江東の双璧、相見える






鄱陽はようへの道は、魯粛の心そのものを映すかのように険しかった。




馬を駆りながらも、彼の思考は絶え間なく揺れ動く。


主君・孫権の苦悩に満ちた顔、柴桑に漂う敗北の空気、そして何よりも、新野で出会ったあの『臥龍』の静かな瞳が、脳裏から離れなかった。




(孔明殿は言った。『事を成すは人にあり』と。ならば、この江東で我が頼むべき『人』は、公瑾、お前をおいて他にいない…)




友の名を心で呼びかけると、不思議と力が湧いてくる。




周瑜公瑾。


共に学び、共に孫策様を助け、江東の未来を語り合った無二の親友。


彼の才は輝く太陽のようであり、その誇りは鋼のように堅い。




だが、それゆえの不安も魯粛にはあった。あの誰よりも誇り高い友が、いまだ無名の諸葛孔明という男の壮大な計略を、素直に受け入れるだろうか。




考え込む魯粛の視界に、やがて鄱陽湖の広大な水面と、湖畔に設けられた雄大な練兵場が広がってきた。


柴桑の沈んだ空気とはまるで違う。




天を衝くような武官たちのときの声、規則正しく打ち鳴らされる太鼓の響き、そしてきらめくやいばの森。




そこには、一人の男の意志によって統率された、揺るぎない力が満ち溢れていた。


練兵場の中央、将軍台の上に見慣れた人影があった。




美しい妻・小喬のために建てたという銅雀台を曹操が狙っているとの噂にも眉一つ動かさず、ただ眼光鋭く兵の動きを見つめている。


白銀の鎧を陽光に輝かせ、全軍の魂をその一身に束ねるかのような圧倒的な存在感。




周瑜、その人であった。




魯粛の姿を認めると、周瑜は兵に一言指示を与え、自ら将軍台を降りてきた。その歩みには迷いがなく、表情は硬い。




「子敬か。息せき切って、何事だ。柴桑の重臣どもが、とうとう白旗でも揚げると言い出したか」




開口一番、投げかけられたのは皮肉と苛立ちの混じった言葉だった。


だが、魯粛は友の真意を読み取る。それは、降伏論に流される者たちへの怒りであり、この江東を愛するがゆえの焦りであった。




「公瑾、その話をしに来た。…主君が、お前の言葉を待っておられる」




魯粛は、周瑜を陣屋へと促し、二人きりになると、新野での出来事を語り始めた。


劉備の人徳、民との絆、そして、諸葛孔明との出会い。


息を詰めて聞き入る周瑜に、魯粛は核心である『天下三分の計』を、一言一句違えぬよう、魂を込めて説いた。




「…曹操は丞相の名を借りた国賊。我らが劉備殿と手を結び、長江を挟んでこれと対峙し、天下を三分する。それこそが、江東が生き延び、ひいては漢室を再興する唯一の道であると…孔明殿はそう申された」




全てを語り終えた時、陣屋は静寂に包まれた。


周瑜は腕を組み、目を閉じ、微動だにしない。


魯粛は固唾を飲んで、友の言葉を待った。拒絶か、嘲笑か、あるいは怒りか。




長い沈黙の後、周瑜はゆっくりと目を開いた。


その瞳には、先程までの苛立ちはなく、深く、澄みきった光が宿っていた。




「…子敬。お前が柴桑を発つ前から、俺も同じことを考えていた」




「なんと…!」




「曹操の百万の軍、その実態を調べさせた。青州兵を中核とするが、その多くは袁紹からの降兵。さらに荊州から無理やり徴兵した者たちも多く、士気は乱雑。加えて、北の兵は水上戦に慣れておらぬ。土地の気候にも馴染めず、必ずや疫病が蔓延するだろう。勝機は、我らにこそある」




周瑜は、すらすらと、淀みなく語る。


その内容は、奇しくも孔明が語った分析と寸分違わぬものであった。




「そして、劉備だ。彼の存在は厄介だが、利用できぬこともない。曹操の憎しみはまず第一に劉備へ向かう。彼を表に立てて曹操軍の矢面とさせ、我らはその後ろから敵の弱点を突く。なるほど、理に適っている」




周瑜は立ち上がると、壁に掛けられた江東一帯の地図の前に立った。


その目はもはや魯粛ではなく、遥か北、長江の対岸にいるであろう巨大な敵を見据えていた。




「面白い。俺と全く同じ結論に達した男が、荊州の田舎にいたとはな。…その諸葛孔明という男、会ってみたくなった」




その声には、嫉妬も侮りもない。


ただ、好敵手を見出したかのような、武人としての純粋な喜びと闘志が満ちていた。




「公瑾…!では…!」




魯粛が喜びに声を上ずらせると、周瑜は振り返り、悪戯っぽく口の端を上げた。それは、彼らがまだ若かった頃に見せた、親友だけの顔だった。




「決まっておるだろう、子敬。この周公瑾、主君と、そして亡き孫策殿に誓ったのだ。この江東の地は、俺の命に代えても守り抜く、と。降伏などという言葉は、俺の辞書にはない」




二人の視線が、固く結ばれる。


臥龍と鳳雛ほうすうと並び称された英才たちの魂が、今、完全に一つとなった瞬間であった。




「行こう、子敬。柴桑へ戻るぞ。臆病者たちの寝言を叩き起こし、若き主君の迷いを断ち切る。…そして、曹操に教えてやるのだ。この江東が、眠れる龍だけでなく、目覚めた虎の住処でもあるということをな!」




周瑜の声は、練兵場に響き渡る鬨の声よりも力強く、魯粛の心を震わせた。




江東の双璧、並び立つ。


もはや、彼らの行く手を阻むものは何もなかった。

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