第四十二話 龍の言葉、獅子の巣へ
新野を後にしてからの数日、魯粛の眼に映る長江の流れは、行きとは全く違う、畏怖すべき意味を帯びていた。
彼の脳裏には、あの静かな庵で諸葛孔明が指し示した一枚の白地図が、今も鮮やかに焼き付いている。
もはや天下は、漠然とした土地の広がりではない。
曹操がその手に握る「天の時」、我が江東が守る「地の利」、そしていまだ寄る辺なき劉備がその身に宿す「人の和」。天と地と人が、三つの巨大な意志となってせめぎ合う、壮絶な盤上であった。
(臥龍…『眠れる龍』と称されるあの男は、戦の勝ち負けなどという些事を見ているのではない。天下の形そのもの、百年先の世の行く末までを見据えているのだ…)
その計り知れない視野の広さを思うたびに、魯粛の背筋には畏敬にも似た武者震いが走った。
しかし、それは同時に、魂が軋むほどの重圧となって彼の双肩にのしかかる。この壮大すぎる計を、いかにして血気盛んな若き獅子、我が主君・孫権に説けばよいのか。
父祖伝来の土地を守ることに誇りを懸ける、歴戦の重臣たちをどうすれば納得させられるのか。
魯粛が柴桑の港に降り立った時、彼の胸騒ぎは冷たい現実のものとなった。
街に満ちているのは、戦を前にした高揚感などでは断じてない。
百万と号する北の大軍を前にした、息苦しいほどの緊張と、先の見えぬ不安の澱であった。
すれ違う役人たちの顔は石のように硬く、ひそひそと交わされる言葉の端々には「降伏」や「百万」という不吉な響きが、まるで冷たい霧のようにまとわりついていた。
旅装を解くのももどかしく、魯粛は主君・孫権の元へと駆けつけた。
謁見の間で待っていた孫権は、若き獅子の精悍さを宿す顔に、その若さには不釣り合いな深い苦悩の色を浮かべていた。
玉座に腰を下ろしてはいるが、その指は肘掛けを苛立たしげに掻いている。
「子敬よ、戻ったか。…して、新野の様子はどうであった」
その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
魯粛はまず、劉備の人徳がいかに深く、関羽の武勇がいかに凄まじく、そして新野の民が心の底から劉備を慕い、彼のためなら死をも厭わぬ様子を、見たまま、感じたままに伝えた。
孫権は静かに頷き、その報告にはわずかに満足したようだった。
そして、魯粛は覚悟を決め、慎重に言葉を選びながら本題に入った。
「道中、劉備殿の軍師、諸葛孔明という男に会いました。齢は私より遥かに若く、しかしその見識は、この長江よりも深く、海よりも広い。彼が申すには、曹操の南征を阻む術はただ一つ。我ら江東と劉備殿が、決して揺らぐことのない同盟を結ぶことにある、と」
その言葉が響き終わった瞬間、謁見の間の空気が凍った。
孫権の顔から、わずかにあった安堵の色が消え失せ、険しい影が差した。
「同盟、か…。子敬、お前も耳にしたであろう。今、この柴桑で、我が家臣たちが何を囁いているかを」
孫権は、吐き捨てるように言った。
その声には、抑えきれない怒りと、誰にも打ち明けられない無念が渦巻いていた。
「文官筆頭の張昭をはじめ、重臣の多くが、曹操への降伏を日夜説いておる。『曹操は後漢王朝の丞相という大義名分を持つ。これに逆らうは朝廷への反逆、すなわち朝敵となる』『勝ち目のない戦で、江東の民を無駄死にさせるべきではない』とな!…父上が命を賭し、兄上が血を流して築き上げたこの江東を、戦いもせず、曹操にくれてやれと言うのだ!」
若き君主の慟哭にも似た叫びが、魯粛の胸を強く打った。
魯粛は、今こそ孔明の「天下三分の計」という壮大な夢を語るべきか、一瞬、唇を噛んだ。
だが、今はその時ではないと直感で悟る。
降伏という熱病に浮かされた者たちに、あまりに壮大すぎる話は、ただの絵空事、現実逃避の戯言としか聞こえまい。
まず、目の前で燃え盛る降伏論という「病」の火を消さねばならない。
そのためには、江東で最も強く、最も硬い意志を持つ男の力が必要だった。
魯粛は、苦悩する主君に向かい、深く、深く頭を下げた。
「御意。降伏論は、敵の策に自ら首を差し出すに等しい愚策にございます。ですが、主君の御心の痛み、この魯粛、身を切られる思いでお察しいたします。…つきましては、一つ、願いがございます」
「申してみよ」
「江東の軍事を一手に担う、周公瑾殿のご意見を伺いとう存じます。あの男が、曹操に膝を屈するような言葉を口にするはずがございません。彼が『戦うべし』と一声あげれば、臆病者たちの声など、たちまちかき消されるはず!」
周瑜。字は公瑾。
孫権の義兄弟にして、江東が誇る若き大都督。
そして、魯粛にとっては何物にも代えがたい無二の親友。
その名を聞いた瞬間、苦悩に沈んでいた孫権の瞳に、確かな光が戻った。
そうだ、周瑜がいる。
あの友が、あの誰よりも江東を愛する男が、降伏などという屈辱を許すはずがない。
「…分かった。子敬、お前の使命はまだ終わってはおらぬ。今すぐ鄱陽の練兵場へ飛べ。そして公瑾に会い、新野で見たもの、聞いたもの、お前が感じた全てを伝え、奴の真意を確かめて参れ。お前と公瑾、二人の意見が一致するならば…この俺も、腹を決めよう」
それは、孫権が魯粛に与えた、最後の試練であり、最大の信頼の証であった。
「はっ!」
魯粛は、主君の信頼をその身に熱く感じながら、静かに退出した。 謁見の間を出た魯粛は、鄱陽のある西の空を見据えた。
彼の心には、柴桑の不安を焼き尽くすほどの、新たな闘志が燃え上がっていた。
(公瑾…我が友よ。お前ほどの才人が、あの臥龍の言葉をどう聞くか。江東の命運は、もはや我ら二人の一念にかかっている…!)
友であり、江東最大の切り札でもある男との再会へ。
魯粛は、休む間もなく、再び旅路へとその身を投じたのであった。




