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第四十一話  龍からの問い




劉備に案内され、魯粛が向かったのは、政務を執るための壮麗な屋敷ではなかった。




城壁のざわめきが遠のき、土の匂いが濃くなるにつれ、魯粛の胸には期待と、それ以上のいぶかしい思いが渦巻き始める。


当代随一の学者たちが「臥龍」と称賛する天才に会うのだ。物々しい門や、幾重にも連なる回廊を想像していた。




だが、劉備が足を止めたのは、城のはずれにひっそりと佇む、一軒の質素な草廬の前だった。


聞こえてくるのは、兵馬の喧騒ではない。


風が竹林を抜け、笹の葉を擦り合わせる音。


そして、その風音に寄り添うように流れる、どこまでも澄み切った琴の音色だけだった。


その一音一音が、まるで乱れた人の心を洗い清めるかのように、魯粛の胸に染み渡っていく。




戸口で劉備が、親しみを込めた穏やかな声で呼びかけた。




「孔明、お客様がお見えだ」




その声に応じるように、琴の音が、ぴたりと糸を切ったように止んだ。


訪れた深い静寂が、草廬の内側にいる主の、並外れた集中力を物語っているかのようだった。




やがて、きしみも立てず、静かに戸が開かれる。


中から現れた一人の青年の姿に、魯粛は我が目を疑い、思わず息を呑んだ。




そこに立っていたのは、百戦錬磨の老軍師でも、眼光鋭い策士でもない。


年の頃は二十代半ば。鳥の羽で織ったという、ゆったりとした鶴氅かくしょうをまとい、その顔には穏やかな笑みさえ浮かべている。


まるで、世俗の権力や富など何一つ知らぬ、仙境に遊ぶ隠者のような青年。




だが、その両の眼が魯粛を捉えた瞬間、魯粛は背筋を氷が滑り落ちるような戦慄を感じた。


深く、どこまでも澄み切った瞳。


それは、人の心の表面をなぞるのではない。


魂の根源を、遥か時の流れの先までをも見通しているかのような、人間離れした光を宿していた。




この瞳の前では、いかなる嘘も駆け引きも意味をなさないと、魯粛は直感した。




「江東よりお越しの魯粛子敬殿。ようこそ、この寂しい草廬へ。お待ちしておりました」




諸葛孔明は、まるで幾年も前からこの日のこの刻を知っていたかのように、旧知の友を迎えるがごとく、深く頭を下げた。




(待っていた…だと? 私がここへ来ることさえも、この男の計の内だったというのか…?)




魯粛の驚愕をよそに、孔明は静かに室内に招き入れ、流れるような所作で茶を淹れる。


その指先には一切の迷いも淀みもなく、彼の思考そのものが形になったかのようだった。




席に着くと、かぐわしい茶の香りが、魯粛の緊張をわずかに解きほぐした。意を決し、彼は切り出した。




「臥龍殿。単刀直入に申し上げます。北の曹操は、天下を覆う巨悪。あの男を討つため、我が江東と手を結ぶお考えは…」




「ございません」




孔明は、魯粛の言葉を遮るように、しかし声色はあくまで穏やかに、即答した。




その一言が、魯粛の頭を真っ白な虚無で満たした。




江東を発って以来、劉備の人徳に触れ、関羽、張飛の武勇に感嘆し、ここまで積み上げてきた同盟への確信が、音もなく崩れ去る。


あまりに容易く、あまりに静かに。




魯粛が言葉を失っていると、孔明は茶器を置き、静かに続けた。




「魯粛殿。貴殿の懸念は、『曹操をどう討つか』。ですが、それは目先の戦術の話。我らが今語らうべきは、その先…荒れ果てたこの天下を、いかにして再び泰平の世に戻すか、という揺るぎなき『戦略』です」




孔明は、すっと立ち上がると、壁に掛かっていた一枚の白地図を指し示した。


その指先がまるで、天下そのものを意のままに動かす神の采配のように見えた。




「北方は、すでに曹操が天の時を得て、百万の兵を擁しております。これと正面から事を構えるのは、愚のきわみ」




孔明の指が、次に江東を差す。




「そして、南の江東は、地の利を得ております。長江という天然の要害と、孫家三代にわたる民の信託がある。これと争うのもまた、得策ではありませぬ」




魯粛は、息を詰めて孔明の言葉を聞いていた。


それは、彼自身が江東の国是として、主君・孫権に説いてきた考えと、寸分違わなかったからだ。




だが、孔明の目は、さらにその先を見据えていた。




「では、どこに活路が? 劉備公の道はどこに…」




絞り出すような魯粛の問いに、孔明の指が、荊州、そしてその西の益州えきしゅうを、力強く円を描くように囲んだ。




「ここに、人の和を得る道がございます。荊州は名君を求め、益州は豊かなれど君主は愚か。我が主・劉備玄徳は、漢室の正統なる末裔にして、その仁徳を慕う民の心を掴んでおられる。まず、この荊・益の地を根拠地とし、民を安んじ、国を富ませるのです」




その瞬間、魯粛の脳裏に、天を裂く稲妻が落ちた。


点と点でしかなかった思考が、一つの壮大な絵図へと繋がっていく。




劉備が荊州を得る意味。


江東と同盟を結ぶ真の価値。


その全てが、あるべき場所へと収まっていく。




孔明は続けた。


その声は静かでありながら、一つの新しい時代を告げる鐘の音のように響いた。




「そして、北の曹操、南の孫権とかなえの足のように鼎立ていりつし、三国が互いに牽制しあう形を作る。力弱き者が、絶対的な強者と渡り合うための唯一の道。これこそが『天下三分の計』にございます」




天下三分。




その言葉の持つ、途方もない響きと、宇宙的なまでの均衡の美しさに、魯粛はもはや言葉を発することができなかった。




自分は、曹操という巨岩を動かすため、劉備との「同盟」という一つの石を拾いに来たに過ぎない。


だが、目の前の青年は、天下の全てを盤上に見据え、その未来図を寸分の狂いもなく描ききっていたのだ。




「魯粛殿」




孔明が、魯粛の目を真っ直ぐに見据える。




「貴殿が真に我が主と手を結ぶべき理由は、目先の曹操を討つため、ではありませぬ。この天下三分の計を成し、新たな世の均衡を創り出すため。そのための、決して揺らぐことのない『柱』として、孫権公のお力が必要なのです」




魯粛は、ゆっくりと立ち上がった。


体中の血が沸騰するような熱を帯びている。




そして、目の前の若き天才軍師に向かい、これ以上ないほど深く、深く、頭を垂れた。


もはや、彼我ひがの立場などどうでもよかった。


江東の使者として値踏みに来たことなど、あまりに愚かな行為だった。




「…完敗です、臥龍殿。この魯粛、今日この時まで、己が見ていた天下がいかに小さかったか……。井の中の蛙であったと、今、恥じ入るばかりです」




孔明は、静かに微笑んだ。


それは全てを包み込むような、慈愛に満ちた笑みだった。




「いいえ。貴殿のような大局を見通せる方が江東におられるからこそ、この計は初めて成り立ちます。魯粛殿、共に、この永き乱世を終わらせるための、長き戦いを始めてはいただけませぬか」




その言葉は、もはや問いかけではなかった。




同じ未来を見据える者同士の、魂で交わす誓いであった。




魯粛は、顔を上げた。


彼の旅は、終わった。


そして、ここから、彼の真の使命が始まる。




(もはやこれは、一つの同盟ではない。天下の未来そのものを、この両肩に託されたのだ…!)




草廬を辞去する魯粛の瞳には、来た時とは比べものにならないほど強く、そして熱い光が宿っていた。




江東へ。主君・孫権の元へ。




この恐るべき、そして希望に満ちた「天下の設計図」を携えて。

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