第三話 襄陽の風、知の交わり
叔父・諸葛玄に連れられてたどり着いた荊州・襄陽の地は、まるで乱世が嘘であるかのような穏やかな空気に満ちていた。
現在の湖北省に位置し、長江中流域の豊かな恵みを受けるこの一帯は、戦乱の中原から逃れた多くの学者や文化人が集う、最後の安息の地となっていた。
流浪の旅で乾ききっていた孔明の心は、その穏やかな風に、少しずつ潤いを取り戻していった。
叔父が用意してくれた隆中のささやかな家で、孔明は弟の均と共に、静かながらも満たされた日々を送り始めた。
昼は、土の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、鍬を手に畑を耕す。流れる汗の心地よさ、種が芽吹き、実りとなる生命の営み。それは、書物の中にはない、確かな「生」の感触を彼に与えた。
弟の均が、畑の脇で楽しそうに虫を追う姿を見る時、孔明の口元には自然と笑みがこぼれた。
このささやかな平穏こそ、父が守ろうとしたものであり、今や天下のほとんどの民が失ってしまった宝なのだと、彼は土に触れるたびに実感していた。
そして、夜。
月光が書斎の窓を白く照らす頃、そこは孔明だけの城となった。
彼は、父が遺した書物だけでなく、この文化の中心地で手に入れた様々な分野の文献を、飢えた獣のように読み漁った。
法、兵法、天文、地理、そして何より、人の世の興亡を刻んだ歴史書。
旅で目にした民の涙と、書物の中にある治世の理想。
その二つの間にある、あまりにも深い溝をどうすれば埋められるのか。
彼の思索は、夜ごと深淵を覗き込むように、静かに、そして鋭く深まっていった。
やがて、「隆中に、類い稀な才気を持つ若者がいる」という噂は、彼の意図とは関わりなく、襄陽の俊英たちの耳に届き始める。
ある日、彼の草廬を、三人の若者が訪れた。
一人は、快活な笑顔の中に、剣客らしい鋭い眼光を宿す男。名を、徐庶(元直)。
一人は、朴訥ぼくとつとしながらも、その佇まいから実直さと誠実さがにじみ出る男。名を、石韜(石広元)。
そしてもう一人は、少し年上で、自信に満ちた大きな声で自らの望みを語る男。名を、孟建(孟公威)。
彼らは皆、孔明と同じように乱世を憂い、己の才をもって天下に名を挙げ、民を救いたいという熱い志を抱いていた。
「孔明殿、君の評判は聞いている。我らと共に、この乱世をいかに生きるべきか、語り合わないか」
徐庶の真っ直ぐな誘いに、孔明は静かに頷いた。
こうして、孔明の日常に「知の交わり」という新たな風が吹き始めた。
知の交わり
若き俊英たちは、ことあるごとに孔明の草廬に集まり、夜が更けるのも忘れて議論を交わした。
彼らの言葉は熱を帯び、希望に燃えていた。
誰もが、一日も早く己の力を試したいと願い、仕えるべき主を求め、焦燥にも似た感情を隠さずにいた。
だが、孔明だけは違った。
彼は議論の輪の中心にありながら、ほとんど口を開くことはない。
ただ、穏やかな表情で皆の言葉に耳を傾け、時折、茶を勧めるだけだった。その湖のように静かな瞳は、まるで友たちの熱い言葉のさらに奥にある、本人たちすら気づいていない心の源流を見つめているかのようだった。
その沈黙を、ある者は歯がゆく思い、ある者は不気味に感じた。
この静かな青年は、一体何を考えているのか。
我々の志を、理想を、彼はどう捉えているのか。
やがて、その静寂は、避けられぬ一つの問いによって破られることになる。熱を帯びた友情と対抗心が交錯する中で、眠れる龍は、まだ誰も聴いたことのない、その第一声を上げようとしていた。