第三十七話 空席の城(後編)
床に額をこすりつけ、救いを求める劉琦。
その悲痛な姿を、諸葛孔明は静かに見下ろしていた。
彼はゆっくりと歩み寄り、若者の痩せた肩に手を置くと、穏やかな、しかし凛とした声で言った。
「若君、お立ちください。そしてお聞きください。古より『壁に耳あり、障子に目あり』と申します。真に貴方様の命を救うためのご相談であれば、それにふさわしい場所が必要かと存じます」
その言葉に含まれた深い意図を、劉琦は即座に汲み取った。
彼は侍医に目配せすると、孔明を離れに隣接する書庫の、さらにその上にある高楼へと案内させた。
そこは、かつて劉琦が星を眺め、心を慰めた場所であったが、今は誰も近づかない、忘れられた空間となっていた。
軋む音を立てる狭く暗い螺旋階段を、劉琦は自らの運命を確かめるように一歩一歩上り、孔明は影のように静かにそれに続いた。
楼の最上階にたどり着くと、窓の外には静まり返った城下の夜景が広がっていた。劉琦は、孔明に向き直ると、階下へ向かって決然と叫んだ。
「おい、梯子を外してしまえ!」
供の者たちが戸惑う中、やがて梯子が壁から引き離される重い音が響き渡る。もはや、この楼閣から下りる術はない。
退路を断つことで、己の覚悟を示したのだ。
劉琦は、決死の表情で孔明に再び向き合った。
「先生。これで、天に口はなく、地に耳はございません。もはや私には後がないのです。この楼閣は、私の棺桶となるか、再生の揺りかごとなるか…。全ては先生のお言葉次第。どうか、この袋小路の私に、活路をお示しください!」
世に言う「上屋抽梯」(屋に上げて梯子を外す)の計である。相手を逃げられない状況に追い込み、真意を引き出すための究極の問いかけ。
孔明は、劉琦の瞳に宿る並々ならぬ覚悟を認め、初めて深く、そして満足げに頷いた。
「…若君。貴方様は、かの申生の故事をご存知ですかな?」
「申生…? 確か、春秋時代の晋の献公の太子であったが、継母の讒言により、内に留まっては身が危うく、外に出ても不孝の罪を被せられ、板挟みとなり自ら命を絶ったという…」
「左様。今の若君の状況は、まさにその申生と同じ。この襄陽に留まれば、いずれ蔡氏の毒牙にかかる。かといって、父君の許しなく勝手に城を出ていけば、不孝の子として家臣の信望を失う。まさに、進むも退くも地獄」
孔明の言葉に、劉琦の顔が再び絶望に曇る。
その昏い闇の底へ、孔明は一条の光を差しいれた。
「しかし、若君。道は一つだけございます。今、江夏は主を失い、空いております。あの地は、荊州の東門たる要害の地。若君自ら、父君である劉表様のもとへ赴き、『江夏の守りにつきたい』と涙ながらに願い出るのです」
「私、が…江夏へ…?」
「はい。都の暮らしに倦み、辺境の守りについて父君のお役に立ちたいと健気に申し出る嗣子を、父たる方が断るわけがございません。そして、蔡瑁とて、目障りな若君がみずから危険な前線へ去るというのです。反対するどころか、むしろ喜んで送り出すでしょう。江夏へ赴き、兵権をその手に握るのです。それこそが、若君が生き延び、力を蓄える唯一の道にございます!」
内に留まる危険から逃れ、外に出ることで、身を守る力を手に入れる。
絶体絶命の盤面を、鮮やかに覆す起死回生の一手。
劉琦の虚ろだった目に、まず驚きが走り、やがてそれが理解に変わると、確かな生命の光が宿った。
彼はその場に崩れ落ち、硬い床に額を何度もこすりつけ、震える声で感謝の言葉を繰り返すのだった。
翌日、劉琦は父・劉表のもとを訪れ、孔明の教え通り、涙ながらに江夏の太守を志願した。
老いて情に脆くなった父は、子の身を案じる気持ちと、目の前の厄介な跡目争いから逃れたい本心とがないまぜになり、これを許可した。
その背後で、蔡瑁が満足げにほくそ笑んでいるのを、劉琦は見逃さなかった。すべては、あの若き軍師の読み通りであった。
劉琦が江夏への旅立ちの準備を進める喧騒の中、劉備は宿舎で孔明に深く問いかけた。
「孔明よ。劉琦殿は活路を得た。だが、我らはどう動くべきか。このまま新野に留まっていては、いずれ蔡瑁の圧力が強まるばかりであろう」
すると孔明は、穏やかな笑みをたたえて答えた。
「殿、ご安心ください。劉琦様を江夏へ送るという一手は、同時に我らのための布石でもあります。今こそ、我らも動くべき時です」
孔明は地図を広げ、襄陽の対岸にある樊城を指し示した。
「劉琦様が東の江夏へ赴くことで、蔡瑁の注意はそちらに向きます。彼は目障りな甥と、江東の孫権という二つの憂慮で手一杯になりましょう。この好機を逃さず、殿自ら劉表様にお目通りし、『北方の曹操の脅威に備えるため、襄陽の喉元たる樊城の守りを固めたい』と堂々と申し出るのです」
劉備は目を見開いた。
「樊城を…我らが!?蔡瑁が許すだろうか」
「許すでしょう。いや、むしろ歓迎するはずです。蔡瑁にとって、我らは目の上のこぶ。危険な最前線である樊城に我らを押しやり、曹操への盾とすることで、彼は一石二鳥と考えるに相違ありません。彼は我らを自身の駒として使うつもりでしょうが、我らはその盤上で、自らの城を築くのです」
孔明の策に従い、劉備は直ちに劉表を訪ね、樊城への駐屯を願い出た。
案の定、蔡瑁は内心で劉備を厄介払いできると喜び、表向きは劉備の忠義を褒めそやして劉表に許可させた。
数日後、東へ向かう劉琦の軍列と時を同じくして、劉備の軍もまた、新野の民に惜しまれつつ北の樊城へと向かった。
漢水のほとりに築かれた堅牢な城郭を前に、劉備は感嘆したように孔明に語りかけた。
「孔明よ。そなたは劉琦殿の命を救ったばかりか、その混乱の渦中から、我らのための城をも手に入れた。まさに神業よ」
孔明は、遠く江夏の方角と、これから入る樊城とを交互に見やり、静かに答えた。
「劉琦様が得た江夏は、我らが荊州に打つ東の『楔』そして、我らがこれから入るこの樊城は、北の『砦』にございます。この二つの礎を得て、我らは初めてこの地に深く根を張り、天下を望むことができるのです。天下三分の計、その戦は今、この地から始まったのでございます」
天の時がもたらした一条の光は、孔明の知略によって、今や荊州の東西南北を睨む二つの確かな拠点へと姿を変えた。
劉備の目に、天下取りへの確かな道筋が、初めてはっきりと映るのであった。




