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第三十六話  空席の城(前編)




乾いた土を焦がすような戦の匂いが、風に乗って長江を渡り、荊州の中心・襄陽へと届いた。




江東の若き獅子、孫権。




その鋭い牙が、長年の宿敵であった江夏太守・黄祖を遂に引き裂いたのだ。


父ばかりではない。その息子、黄射もまた乱戦の渦に呑まれ、命を散らしたという報せは、熱病のように瞬く間に城下を駆け巡った。






日が落ちかけた頃の酒楼は、行き交う人々の熱気でむせ返っていた。


旅の商人、土地の職人、仕官を夢見る書生たち。




誰もが酌み交わす杯を片手に、今一番の肴さかなである江夏の噂を、大きな声と潜めた声でないまぜに語り合っている。




「聞いたか。黄祖様ばかりか、息子の黄射様まで討ち死になされたそうだ。江東の孫家の執念、恐ろしいものよな」


「ああ…。これで荊州の東門はもぬけの殻だ。あの要害の地、次は一体誰が治めるというのだ?」


「決まっておろう。荊州の兵権を握る蔡瑁様が、己の意のままになる者を送り込むに相違あるまい。我らの暮らしは、また息苦しくなるのか…」


「いや、声が大きいぞ。だが…民が本当に望んでいるのは、新野におわす劉備様だ。あの方こそ、仁徳の人。荊州をお守りくださるにふさわしいお方だというのに…」




人々の期待と不安が、濁った酒のように渦を巻く。




その喧騒から隔絶された宿舎の一室で、噂の中心にいる劉備は、静かに碁盤を挟んでいた。


向かいに座すは、臥龍と謳われた若き軍師、諸葛孔明。




盤上では、黒石と白石が複雑に絡み合い、さながら今の荊州の勢力図を映しているかのようであった。


パチリ、と静寂を破って孔明が白石を置く。 その一手は、盤上のぽっかりと空いた大きな空白地帯ーーまさしく江夏を制するかのような、鋭く、そして決定的な一手であった。




「…孔明よ」 劉備は、盤面から顔を上げ、憂いを帯びた目で呟いた。




「江夏という大きな城が、主を失った。あの蔡瑁のこと、必ずや動くであろうな」




孔明は盤上から目を離さぬまま、静かに、しかし確信に満ちた声で答えた。




「動くでしょう。しかし、殿。焦って動いた駒は、必ず隙を見せるもの。我らが狙うべきは、その一瞬の隙。そして…」




孔明はそこで言葉を切り、すっと顔を上げた。


その涼やかな瞳は、劉備を、そして盤面をも通り越し、遥か彼方を見つめている。




「我らが狙うべきは、城そのものではございません。城を、そして己が明日を求める、人の心にございます」




その言葉は、盤上の勝敗とはまるで違う次元のことわりを語っていた。


彼が見つめる先にあるのは、権勢を振るう蔡瑁ではない。




父に疎まれ、継母に虐げられ、この凶報を病床で聞き、絶望と僅かな希望の狭間で喘いでいるであろう、一人の若者の孤独な姿であった。




その時であった。


控えめに、しかし切迫したように戸を叩く音が響いた。


供も連れず、粗末な衣で顔を深く隠した男が、劉備の前に通される。




人払いを終え、二人きりになると、男は床に額がつくほど深々と頭を下げた。震える声には、悲痛な響きが滲んでいた。




「劉皇叔におかれましては、ご健勝のこと、心よりお慶び申し上げます。私は、若君・劉琦様にお仕えする侍医にございます」




劉備は、思わず身を乗り出した。 劉表の長子、劉琦からの使者。


やはり、すべてはこの若き軍師の読み通りであったか。


劉備は傍らの孔明に目配せをし、静かに、しかし力強く頷いた。




月も星も姿を隠し、闇だけが世界を支配する夜。


劉備と孔明は、侍医の先導で息を殺しながら城内を進んでいた。


蔡瑁の兵が松明を掲げ、物々しく警備する目を縫い、まるで影そのものになったかのように、彼らは劉琦の寝所がある離れへとたどり着いた。




扉を開けた瞬間、薬の匂いに混じって、澱んだ死の気配が鼻をついた。


調度品にはうっすらと埃が積もり、灯された燭台の光もか細く揺れている。この部屋全体が、主である若者の孤独と絶望を映す鏡となっているかのようであった。




天蓋付きの寝台の上で、劉琦はやつれ果てた姿でゆっくりと身を起こした。かつて馬を駆って野を巡った快活な若者の面影はなく、その頬はこけ、顔は土気色に沈んでいた。




「叔父上…!よくぞ、よくぞお越しくださいました…!」




劉備の姿を認めた瞬間、劉琦の目に微かな光が宿る。


病も忘れ駆け寄ろうとするが、弱り切った足はもつれ、力なくよろめいた。劉備は数歩で駆け寄り、骨ばかりに痩せたその体を、力強く、そして優しく支えた。




叔父の腕の温もりが、張り詰めていた心の糸を断ち切ったのだろう。


劉琦の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。




「叔父上、叔父上…っ!」




もはや言葉にならない嗚咽が、静まり返った部屋に響き渡る。


劉備は甥の背を何度もさすりながら、そのあまりの変わりように、胸が張り裂けるような痛みを覚えていた。




やがて劉琦は、溜め込んでいた膿を全て吐き出すかのように、自らの苦境を語り始めた。


父・劉表が後妻である蔡氏の言いなりとなり、実の子である自分を日に日に疎んじていること。


継母の弟である蔡瑁と、その腹心である張允が昼夜を問わず城を支配し、自分をないがしろにしていること。


そして、この侍医が心を込めて調合する薬にさえ、蔡瑁の手の者が僅かずつ毒を盛っている疑いがあること…。




「私は、このままでは殺されます。叔父上、私はまだ死にたくない!父上が心血を注いで築かれたこの荊州を、豺狼さいろうのごときやからの好きにはさせたくないのです!」




劉琦は劉備の腕にすがりつき、まるで子供のように泣きじゃくった。


その悲痛な叫びを、劉備は真正面から受け止める。


甥の背を強く抱きしめ、静かに、しかし絶対的な確信を込めて告げた。




「若君。そなたの苦しみ、この劉備、痛いほどわかる。私個人の力では、この荊州にはびこる根深いしがらみを断ち切ることはできぬかもしれぬ。…しかし、案ずることはない。今の私の傍らには、天下の奇才がおる。彼ならば、必ずや若君を救う、天に通じる道を示してくれようぞ」




劉備の視線の先で、今まで壁の影のように気配を消していた孔明が、静かに胸の前で両手を組み、深く礼をした。


劉琦は、はっとしたように孔明を見た。


この若者が、あの大軍の曹操の攻撃を防ぎ、退却させた軍師…。




最後の望みを託すように、劉琦は劉備の腕から離れると、孔明の前に崩れ落ち、震える両膝をついた。




「先生!どうか、この劉琦に生き延びるすべを、お授けください!」




薄暗い部屋に響く、魂からの叫び。


それは、死の淵に立つ者が見つけた、唯一の光への祈りであった。

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