第三十五話 見えない蜘蛛の糸
深夜、静まり返った宿舎の一室。
卓上の灯火が、孔明と劉備、そして報告を終えた三人の将の顔を揺らめかせていた。
「――以上が、我らが三日間で掴んだ江夏の病巣にございます」
孔明は静かに締めくくると、地図に記された「王氏の屋敷」を指先でなぞった。
その仕草は、まるで外科医が患部を特定するかのように、冷徹で寸分の狂いもないものであった。
「うむ…」
劉備は腕を組み、深く頷いた。
民の苦しみ、兵の不満、そしてそれを肥やしに私腹を肥やす者たち。
その構図は、彼がこれまで見てきた乱世の縮図そのものであった。
「して、孔明よ。その王氏をどうする? 悪の根源とあらば、子龍(趙雲)に命じ、闇に葬ることもできようが…」
張飛が、抑えきれぬ怒りを込めて低い声で言う。
しかし、孔明は静かに首を横に振った。
「翼徳殿、それではただの暗殺。蜥蜴の尻尾切りで終わってしまいます。我らがなすべきことは、王氏という一本の木を伐ることではなく、蔡瑁という大樹を支える根を、民自身の力で引き抜かせること」
「民の力、だと…?」
関羽が訝しげに問う。
孔明は穏やかな笑みを浮かべ、一同を見渡した。
その瞳には、すでに蜘蛛の巣のように張り巡らされた計略の全体像が映っている。
「はい。この江夏という淀んだ水に投じる第一の石は、『噂』という目に見えぬ波紋にございます」
孔明は糜芳に向き直った。
「糜芳殿。明日より、貴方が集めた情報…すなわち、王氏による米の買い占め、それによる物価の高騰、そして民の粥さえ事欠く暮らしぶりを、商人や物乞いたちの口を使い、城下に流してください。ただし、一つだけ特に重要なことを付け加えて…『王氏の蔵には、三年は戦ができるほどの米が眠っている』と」
「なるほど。事実を少し誇張することで、民の怒りを煽るのですな」
糜芳は、孔明の意図を即座に理解し、深く頷いた。
商取引における噂の恐ろしさを、彼は誰よりも知っている。
次に、孔明は張飛を見た。
「翼徳殿には、今宵も酒場へ。そして、兵たちの不満が最高潮に達した頃合いを見計らい、『王氏の蔵の米があれば、俺たちの滞っている給金などすぐに出るのになあ』と、あくまで酔ったふりをして嘆いていただきたい」
「がはは! そいつはお安い御用だ! 奴らの不満に油を注いでやるまでよ!」
張飛は巨大な拳を握りしめた。
最後に、孔明は趙雲に視線を移す。
「子龍殿。最も危険な役目をお願いいたします。深夜、王氏の屋敷に忍び込み、穀物倉の錠前を一つ、壊していただきたい。ただし、決して中には入らず、扉を半開きにしておくだけで結構です。あたかも、誰かが押し入ろうとして失敗したかのように…」
「…承知した。騒ぎを起こさぬよう、慎重に」
趙雲は短く応え、その瞳に静かな決意を宿した。
三人がそれぞれの役目を確認し、部屋をあとにする。
後に残った劉備は、感嘆のため息をついた。
「孔明よ。お主の策は、まるで蜘蛛の糸だな。一本一本はか弱く、目に見えぬほどだが、それらが絡み合えば、巨大な獲物さえも絡め取ってしまう」
「恐れ入ります」孔明は静かに頭を下げた。
「民の怒りという風さえ吹けば、蜘蛛の糸は風に乗り、千里をも届きましょう。我らは、ただ風の吹きやすい道筋を、少しだけ作ってあげるに過ぎません」
灯火が揺れ、盤上の石を置くかのように、孔明の計略が静かに動き始めた。
翌日の江夏は、朝から異様な空気に包まれていた。
市場の隅で、井戸端で、そして兵士たちの詰め所で、ひそひそと囁かれる噂。
「聞いたかい? あの王様の屋敷の蔵には、俺たちが一生かかっても食えねえほどの米が積んであるらしいぜ」
「本当かよ! 俺たちは粥をすするのもやっとなのによ!」
「なんでも、蔡瑁様への上納金を作るために、俺たちから買い上げた米をわざと出し渋ってるんだとさ」
糜芳が放った噂は、乾いた薪に投げ込まれた火の粉のように、瞬く間に城中に燃え広がった。
昼を過ぎる頃には、王氏の屋敷の前を、人々が憎悪と好奇の入り混じった目で見ながら通り過ぎるようになった。
そして、その夜。
張飛のいる酒場は、兵士たちの怒声で煮えくり返っていた。
「ちくしょう! 給金は遅れるわ、飯はまずいわ、やってられるか!」
「それに比べて蔡瑁様のご親戚方は、毎晩宴会騒ぎだ!」
その怒りの渦の中心で、張飛がわざとらしく大きなため息をついてみせた。
「ああ、嘆かわしい! 聞くところによれば、王氏の蔵にある米を少し売るだけで、俺たちの給金なんぞ、すぐに出るそうだぞ! なのになあ!」
その一言が、決定的な引き金となった。
「なにぃ!?」
「本当か、張飛様!」
酔いと怒りで理性を失った兵士の一人が、杯を床に叩きつけた。
「よし、こうなったら確かめに行こうじゃねえか! 本当に米があるのかどうか、この目で見てやろうぜ!」
「おお!」という雄叫びが上がる。
一人、また一人と立ち上がり、誰が言うともなく、彼らの足は王氏の屋敷へと向かい始めた。
その流れに、噂を聞きつけた飢えた民衆が次々と合流し、群衆はみるみるうちに膨れ上がっていった。
張飛は「おいおい、俺は知らねえぞ」ととぼけながら、その大きな体の陰で、満足げな笑みを浮かべていた。
王氏の屋敷は、突如として現れた群衆の怒号に包まれた。
警備の兵たちは慌てふためくが、相手は同じ城の兵士と、武器を持たない民衆である。
簡単には刃を向けるわけにもいかない。
押し問答が続く中、一人の男が叫んだ。
「見ろ! 蔵の扉が開いてるぞ!」
群衆の視線が、一斉に巨大な穀物倉へ注がれる。
そこには、趙雲が昨夜仕掛けた通り、錠前が壊され、わずかに開いた扉があった。
その隙間から、月明かりに照らされた米俵の山が、確かに見えている。
「やはり噂は本当だったんだ!」
「俺たちの米を返しやがれ!」
民衆の怒りが爆発した。
堰を切ったように人々が屋敷になだれ込み、警備兵の貧弱な抵抗は、たちまち飲み込まれてしまった。
騒ぎの報せは、すぐに蔡瑁と張允の元にもたらされた。
「な、なんだと! 民衆が暴動だと!?」
張允がひどくうろたえる。
蔡瑁は苦虫を噛み潰したような顔で、拳を卓に叩きつけた。
「…劉備め! 奴らの仕業に相違あるまい! しかし、奴らは宿舎から一歩も出ておらぬという。張飛はただ酒を飲んでいただけ…。証拠が、ない!」
兵を出して鎮圧すれば、火に油を注ぐことになる。
かといって放置すれば、自らの権威が失墜する。
蔡瑁は、目に見えぬ蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のように、身動きが取れなくなっていた。
結局、蔡瑁は張允に命じ、蔵の米の一部を民衆に分け与えることで、その場を収めるしかなかった。
自らの非を認め、民に屈したも同然のこの処置は、彼の権威を大きく傷つけることとなる。
深夜、騒動がようやく静まった城の奥深く。
重い病に伏せる劉琦の寝所にも、侍女によって城下の出来事がそっと伝えられていた。
「…民が、王氏の屋敷を…? 叔父上(劉備)が、江夏に…?」
これまで虚ろだった劉琦の瞳に、久しぶりに確かな光が宿った。
父が信を置いた叔父、劉備の到来。
そして、淀みきっていた江夏の水面に起きた、確かな波紋。
それは、死を待つだけだった若者の心に、一筋の希望の光を灯すには十分すぎる出来事であった。
孔明が放った最初の石は、狙い通りに、最も届かせたかった場所の、最も深い水底を静かに揺り動かしたのである。




