第三十三話 軍師の眼と耳
三日後の夜。
月は雲に隠れ、風が木々を揺らす音だけが、息を殺す劉備軍の兵たちの耳に届いていた。
道を見下ろす丘陵の茂みに、趙雲率いる精兵が、まるで大地に溶け込むかのように潜んでいる。
その目は、闇に慣れ、遠く微かな松明の光を捉えようと研ぎ澄まされていた。
街道の正面には、張飛が手勢と共に待ち構える。
その巨躯は微動だにせず、ただ一点、敵が現れるであろう道の先を見据えていた。
かつての猪武者の面影はなく、その姿は、獲物を待つ猛虎の静けさと獰猛さを同時に湛えている。
そして、作戦の要である陽動を担う糜芳は、彼らとは別の、少し離れた森の中にいた。
彼の心臓は、今にも張り裂けんばかりに高鳴っている。
(本当に、私に務まるのか……)
脳裏をよぎるのは、軍師の言葉。『その「慎重さ」こそが、この作戦の成功には不可欠なのです』。
それは慰めか、それとも真実か。
震える手で、糜芳は腰の剣の柄を握りしめた。
その時、彼のすぐそばの闇から、小さな鳥の鳴き声が二度、響いた。
はっと顔を上げる。
それは、孔明が定めた合図。
孔明の密偵網『隆中雀』が、敵の接近を知らせる警告であった。
隆中雀からの合図は、敵が寸分違わず孔明の予測通りに進軍していることを意味していた。
(軍師殿は、すべてお見通しなのだ……)
糜芳の心に、恐怖とは質の違う、ある種の畏敬の念が芽生え始めていた。
彼は大きく息を吸い込み、決意を固める。
己の役割は、派手に戦うことではない。
慎重に、確実に、敵の注意を惹きつけることだ。
やがて、地響きと共に、数百の松明が道を埋め尽くす光景が見えてきた。
曹操軍の輸送部隊である。
その先頭が、決められた地点に差し掛かった瞬間、糜芳は天に向かって力一杯に剣を突き上げ、喉を張り裂かんばかりに叫んだ。
「かかれぇぇぇーーーっ!!」
呼応して、彼の周囲に隠れていた兵たちが、一斉に鬨の声を上げ、銅鑼や太鼓を打ち鳴らす。
森の闇の中から、突如として数千の伏兵がいるかのような雄叫びと物音が轟いた。
「敵襲! 敵襲だ!」
「南だ! 森の中からだぞ!」
輸送部隊は完全に混乱に陥った。
護衛の兵たちは、音のする方角へ慌てて陣形を組もうとする。
「止めるな! 銅鑼を打ち続けろ! 鬨の声は波のように、森の端から端まで響かせるのだ!」
糜芳は声を枯らしながらも、的確に指示を飛ばす。
彼の命令一下、物音は一つの巨大な生き物のようにうねり、敵兵の耳と心を打ち続けた。
矢を放ち、敵がこちらへ向かってくれば絶妙な距離を保ちながら後退し、また別の場所から鬨の声を上げさせる。
その執拗かつ巧みな音の攻撃は、見えない大軍の存在を敵に確信させ、彼らを森の入り口に完全に膠着させていた。
その瞬間を、張飛が見逃すはずはなかった。
「野郎ども、飯の時間だぜぇっ!」
咆哮と共に、街道の正面から張飛の部隊が躍り出る。
完全に意表を突かれた輸送部隊の前衛は、なす術もなく猛将の蛇矛の餌食となった。
張飛の蛇矛が唸りを上げるたび、呼応するかのように森から鬨の声が轟く。
正面の脅威と側面の喧騒に挟まれ、輸送部隊の兵士たちはどちらに対処すべきかも判断できずにいた。
「うわあああっ!」
「正面からも来たぞ! 側面の大軍はどうなっているんだ!」
さらに混乱が広がる中、今度は退路を断つように趙雲の部隊が静かに、しかし素早く襲いかかった。
趙雲の槍は、闇夜に閃く銀の流星の如く、的確に敵兵の喉を貫いていく。
決定打となったのもまた、森から響き渡る鬨の声であった。
「退路からも敵が! やはり完全に包囲されているのだ!」
その声は、敵兵の最後の戦意を打ち砕く、死の宣告のように響いた。
前は張飛、後ろは趙雲、そして側面からは絶え間なく聞こえる数千の雄叫び。
完全に包囲されたと錯覚した敵兵は、武器を捨てて逃げ惑うしかなかった。
戦いは、驚くほど短時間で決着がついた。
夜が白み始める頃、劉備の本陣には、奪取した米や干し肉の袋が山のように積まれていた。
兵たちは、数日ぶりに手にする温かい粥をすすり、その顔には生気が戻っている。
彼らが称賛の言葉を口にするのは、張飛や趙雲の武勇だけではなかった。
「糜芳様のおかげだ。あの鬨の声がなければ、こうはいくまい」
「ああ、まるで森全体が敵になったかのようだった。敵もあれでは戦いようがなかったろう」
仲間からの労いの言葉に、糜芳は顔を赤らめ、ただ黙って頭を下げるばかりだった。
だが、その胸中は、これまでに感じたことのない熱い誇りで満たされていた。
劉備は、そんな彼の肩を強く叩いた。
「見事であったぞ、糜芳。そなたの働きなくして、この勝利はなかった」
「もったいないお言葉にございます……」
糜芳は、深く頭を垂れた。
その視線の先に、涼やかな表情で佇む諸葛孔明の姿があった。
(人の弱さすらも強さに変える…あれこそが、真の軍師の器か)
不満も、疑念も、今はもうない。
ただ、絶対的な信頼だけがそこにあった。
軍の結束を新たにした一行は、再び江夏への道を進み始めた。
兵糧を得て、士気も高い。しかし、孔明の表情は晴れなかった。
数日後、先触れとして放たれていた隆中雀の一羽が、矢文を携えて彼の元へ舞い戻った。
孔明は静かにその文を開き、目を通す。そこに記されていたのは、江夏の現状であった。
『劉琦様は病が重く、意識がはっきりしないことが多い状況です。蔡瑁、張允らは襄陽で兵を掌握しており、江夏城内にも彼らに味方する者が多数潜んでいます。
太守・黄祖亡き後の江夏は人心定まらず。
殿を歓迎する声ある一方、曹操への降伏を唱える者、荊州の主権を主張する者らが入り乱れ、一触即発の様相』
文を読み終えた孔明は、そっと目を閉じた。
兵糧を奪う戦は終わった。
だが、それは力と力とがぶつかり合う、いわば単純な戦であった。
これから始まるのは、人の心を読む戦い。
誰を信じ、誰を切り、誰を味方につけるか。
武力だけでは決して断ち切れぬ、複雑に絡み合った思惑の糸を解きほぐす、本当の戦いが待っている。
孔明は、馬上で遠く江夏の方角を見つめる劉備の背中に静かに声をかけた。
「殿、江夏は間近にございます。しかし、我らが真に戦うべき相手は、城門の向こうではなく、むしろ城壁の内にこそ潜んでおりましょう」
その言葉に、劉備はゆっくりと振り返る。
その目は、新たな戦場の到来を覚悟した、仁君の目であった。
劉備軍の前に、荊州という巨大な盤が、静かにその全貌を現そうとしていた。




