表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/83

第二十九話   一騎当千、橋を断つ




地平の彼方から、地鳴りが来た。




それは最初、腹の底に響く微かな震えだったが、やがて無数の馬蹄が大地を叩く轟音となり、鋼と鋼が擦れ合うおぞましい軋みとなって、長坂橋を渡る風を震わせた。




やがて見えてきたのは、人の群れではなかった。


それはこの世の終わりを告げるかのように押し寄せる、黒鉄と殺意の津波。




掲げられた無数の旗が、夕暮れの空を絶望の色に染め上げていた。


その津波が、長坂橋の目前で、まるで巨大な見えざる壁に阻まれたかのように、ぴたりと動きを止めた。




先鋒を率いる猛将たちの誰もが、馬上で息を呑んでいた。




橋の中央に、ただ一騎。




夕陽を浴びて鈍く輝く黒鉄の鎧、その手に握られた丈八蛇矛は、まるで巨大な毒蛇が鎌首をもたげたように、静かに敵を見据えている。


そして、その鞍上にいる男。




兜から覗く双眸は、燃え盛る溶岩のように赤く、微動だにしないその姿は、人というより、この地を守護するためにいにしえより鎮座する、巨大な岩神いわがみのようであった。




あまりに異様な、あまりに現実離れした光景。


先頭にいた兵士の一人が、乾いた喉で呟いた。




「……化け物か」


「待て、下手に動くな」




百戦錬磨の将、夏侯惇がその鋭い眼光を細める。




「橋の向こうを見ろ。森が、不気味なほど静まり返っている……」




彼の指さす先、橋の東に広がる森が静まり返っている。


その木々の間から、まるで大地の呼吸のように、もくもくと土煙が上がっていた。


風もないのに、なぜ土煙が……? それは数千、いや数万の兵が、弓を番え、槍を揃え、ただ一瞬の号令を待って息を潜めていることを、雄弁に物語っていた。




曹操軍の兵士たちの脳裏に、数刻前の悪夢が蘇る。


ただ一騎、白馬の若武者に陣の中心を蹂躙され、赤子を抱いたまま駆け抜けられた、あの屈辱と恐怖。


劉備軍には、人の理を超えた「鬼神」が潜んでいる。




この光景もまた、あの神出鬼没の軍師、諸葛亮が仕掛けた、底知れぬ罠に違いなかった。


猜疑心という名の毒が、天下最強を誇る大軍の進撃を、完全に麻痺させていた。




やがて、兵の波が割れ、豪奢な日傘に守られた一団と共に、曹操本人が悠然と前線に現れた。




彼は、その怜悧な瞳で橋上の男を値踏みするように一瞥し、次いで森の土煙へと視線を移した。そして、その口元に、愉悦とも嘲笑ともつかぬ、歪んだ笑みを浮かべた。




「ふむ…面白い。死の匂いがせぬわ。あの男、死ぬことを微塵も考えておらぬ。あれが劉備の義弟、燕人張飛か」




曹操は、その男が放つ尋常ならざる気迫と、背後にちらつく策の匂いを、まるで美酒を味わうかのように感じ取っていた。




(逃げるだけの劉備が、なぜこれほどの駒を捨て石にできる? 森の伏兵は本物か、偽物か。攻めれば、趙雲の二の舞か。退けば、天下の笑いものよ)




危険と好機。


侮辱と栄光。




曹操の頭脳の中で、いくつもの計算が火花を散らす。その絶対王者の逡巡が、全軍の動きを金縛りのように縫い付けていた。




その、張り詰めた沈黙の弦を、橋上の男が、ただ一声で断ち切った。


張飛は、その虎のごとき眼をカッと見開き、大地と平行に矛を構えた。




馬上のたくましい体躯がさらに膨れ上がるほど深く、大きく息を吸い込んだ。天と地の全ての気が、その肺腑に流れ込んでいくようであった。


そして、解き放った。




「我こそは燕人えんじん、張飛なり! 死を望む者は、前へ出よ!!」




それは、人の声ではなかった。


空間そのものを叩き割る、雷神の怒号であった。


音の塊が衝撃波となって最前列の兵士たちを打ち、彼らの耳から脳へ、そして心臓へと突き刺さる。




それは魂を直接握り潰されるような、抗いようのない根源的な恐怖だった。




曹操の傍にいた将の一人、夏侯傑が、馬上でのけぞったまま目と口を大きく見開いた。


その全身から力が抜け、魂が肉体から弾け飛んだかのように、どう、と地に落ちて絶命した。


その体には、一つの傷もなかった。




兵士たちは恐怖に顔を蒼白にさせ、手綱を取り落とし、馬という馬が狂ったように嘶き、前足を上げて暴れだす。


鉄の規律で縛られたはずの曹操軍の戦列が、ただ一声によって、無秩序な獣の群れへと変わっていく。




張飛は、さらに矛を振りかざし、二度目の咆哮を浴びせんと、再び大きく息を吸った。


その様を見て、曹操が、まるで呪いを吐き出すかのように、静かに呟いた。




「……退け」


「全軍、一旦退却せよ!」




その命令は、恐怖に狂った兵士たちにとっては、天からの赦しであった。


将たちは命令に戸惑うよりも早く、その恐怖から逃れるために我先にと馬首を返す。黒い津波は、あっけなく引いていった。




あれほどの大軍が、ただ一人の男の、たった一声の前に、赤子のように怯え、算を乱して逃げ出したのである。


敵の姿が地平線の向こうに完全に消えるまで、張飛は仁王立ちを解かなかった。




やがて、彼は静かに馬を動かすと、橋桁に松明を投げ入れ、乾いた木材に次々と火を放ち始めた。




(軍師殿…これで、時は稼げたぜ)




橋は轟々と音を立てて燃え盛り、やがて黒い煙と共に川面へと崩れ落ちていく。




それは、自らの退路と、この死闘の記憶を共に葬り去る、荘厳な儀式のようであった。




張飛は、燃え盛る炎を背に、初めて深く、長い息をついた。極度の緊張から解き放たれ、鎧に包まれた巨体がかすかに震えている。




そして主君たちの後を追い、闇の中へと静かに馬を駆った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ