第二十九話 一騎当千、橋を断つ
地平の彼方から、地鳴りが来た。
それは最初、腹の底に響く微かな震えだったが、やがて無数の馬蹄が大地を叩く轟音となり、鋼と鋼が擦れ合うおぞましい軋みとなって、長坂橋を渡る風を震わせた。
やがて見えてきたのは、人の群れではなかった。
それはこの世の終わりを告げるかのように押し寄せる、黒鉄と殺意の津波。
掲げられた無数の旗が、夕暮れの空を絶望の色に染め上げていた。
その津波が、長坂橋の目前で、まるで巨大な見えざる壁に阻まれたかのように、ぴたりと動きを止めた。
先鋒を率いる猛将たちの誰もが、馬上で息を呑んでいた。
橋の中央に、ただ一騎。
夕陽を浴びて鈍く輝く黒鉄の鎧、その手に握られた丈八蛇矛は、まるで巨大な毒蛇が鎌首をもたげたように、静かに敵を見据えている。
そして、その鞍上にいる男。
兜から覗く双眸は、燃え盛る溶岩のように赤く、微動だにしないその姿は、人というより、この地を守護するために古より鎮座する、巨大な岩神のようであった。
あまりに異様な、あまりに現実離れした光景。
先頭にいた兵士の一人が、乾いた喉で呟いた。
「……化け物か」
「待て、下手に動くな」
百戦錬磨の将、夏侯惇がその鋭い眼光を細める。
「橋の向こうを見ろ。森が、不気味なほど静まり返っている……」
彼の指さす先、橋の東に広がる森が静まり返っている。
その木々の間から、まるで大地の呼吸のように、もくもくと土煙が上がっていた。
風もないのに、なぜ土煙が……? それは数千、いや数万の兵が、弓を番え、槍を揃え、ただ一瞬の号令を待って息を潜めていることを、雄弁に物語っていた。
曹操軍の兵士たちの脳裏に、数刻前の悪夢が蘇る。
ただ一騎、白馬の若武者に陣の中心を蹂躙され、赤子を抱いたまま駆け抜けられた、あの屈辱と恐怖。
劉備軍には、人の理を超えた「鬼神」が潜んでいる。
この光景もまた、あの神出鬼没の軍師、諸葛亮が仕掛けた、底知れぬ罠に違いなかった。
猜疑心という名の毒が、天下最強を誇る大軍の進撃を、完全に麻痺させていた。
やがて、兵の波が割れ、豪奢な日傘に守られた一団と共に、曹操本人が悠然と前線に現れた。
彼は、その怜悧な瞳で橋上の男を値踏みするように一瞥し、次いで森の土煙へと視線を移した。そして、その口元に、愉悦とも嘲笑ともつかぬ、歪んだ笑みを浮かべた。
「ふむ…面白い。死の匂いがせぬわ。あの男、死ぬことを微塵も考えておらぬ。あれが劉備の義弟、燕人張飛か」
曹操は、その男が放つ尋常ならざる気迫と、背後にちらつく策の匂いを、まるで美酒を味わうかのように感じ取っていた。
(逃げるだけの劉備が、なぜこれほどの駒を捨て石にできる? 森の伏兵は本物か、偽物か。攻めれば、趙雲の二の舞か。退けば、天下の笑いものよ)
危険と好機。
侮辱と栄光。
曹操の頭脳の中で、いくつもの計算が火花を散らす。その絶対王者の逡巡が、全軍の動きを金縛りのように縫い付けていた。
その、張り詰めた沈黙の弦を、橋上の男が、ただ一声で断ち切った。
張飛は、その虎のごとき眼をカッと見開き、大地と平行に矛を構えた。
馬上のたくましい体躯がさらに膨れ上がるほど深く、大きく息を吸い込んだ。天と地の全ての気が、その肺腑に流れ込んでいくようであった。
そして、解き放った。
「我こそは燕人、張飛なり! 死を望む者は、前へ出よ!!」
それは、人の声ではなかった。
空間そのものを叩き割る、雷神の怒号であった。
音の塊が衝撃波となって最前列の兵士たちを打ち、彼らの耳から脳へ、そして心臓へと突き刺さる。
それは魂を直接握り潰されるような、抗いようのない根源的な恐怖だった。
曹操の傍にいた将の一人、夏侯傑が、馬上でのけぞったまま目と口を大きく見開いた。
その全身から力が抜け、魂が肉体から弾け飛んだかのように、どう、と地に落ちて絶命した。
その体には、一つの傷もなかった。
兵士たちは恐怖に顔を蒼白にさせ、手綱を取り落とし、馬という馬が狂ったように嘶き、前足を上げて暴れだす。
鉄の規律で縛られたはずの曹操軍の戦列が、ただ一声によって、無秩序な獣の群れへと変わっていく。
張飛は、さらに矛を振りかざし、二度目の咆哮を浴びせんと、再び大きく息を吸った。
その様を見て、曹操が、まるで呪いを吐き出すかのように、静かに呟いた。
「……退け」
「全軍、一旦退却せよ!」
その命令は、恐怖に狂った兵士たちにとっては、天からの赦しであった。
将たちは命令に戸惑うよりも早く、その恐怖から逃れるために我先にと馬首を返す。黒い津波は、あっけなく引いていった。
あれほどの大軍が、ただ一人の男の、たった一声の前に、赤子のように怯え、算を乱して逃げ出したのである。
敵の姿が地平線の向こうに完全に消えるまで、張飛は仁王立ちを解かなかった。
やがて、彼は静かに馬を動かすと、橋桁に松明を投げ入れ、乾いた木材に次々と火を放ち始めた。
(軍師殿…これで、時は稼げたぜ)
橋は轟々と音を立てて燃え盛り、やがて黒い煙と共に川面へと崩れ落ちていく。
それは、自らの退路と、この死闘の記憶を共に葬り去る、荘厳な儀式のようであった。
張飛は、燃え盛る炎を背に、初めて深く、長い息をついた。極度の緊張から解き放たれ、鎧に包まれた巨体がかすかに震えている。
そして主君たちの後を追い、闇の中へと静かに馬を駆った。




