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第二話  流浪の空、静かなる志




父のいない書斎は、ただがらんとして冷たかった。

墨の香りも、竹簡に宿る古の賢人たちの息遣いも、主を失ったことで色褪せてしまったかのようだった。




父·諸葛珪の死は、孔明から太陽を奪い、弟の均から温かな日だまりを奪った。




初平四年(193年)、孔明は叔父·諸葛玄に引き取られ、生まれ故郷の琅邪ろうやを離れることになった。琅邪ろうや郡陽都――それは泰山の麓に広がる文教の地であり、代々学問を尊ぶ風が根づいていた。

静かな丘陵、豊かな水田、そして長い年月をかけて築かれた士人たちの気風。

だが、その穏やかさにも、戦乱の足音が迫っていた。




目指すは、南の荊州·襄陽。


長江の中流域に広がるこの地は、南北の要衝にありながらも、政治の中心からやや外れていたため、多くの士人たちが避難先として流れ着く、知と志の交差点となりつつあった。




叔父の玄は、袁術に仕える身であり、その顔には兄を亡くした悲しみと、二人の甥を守り抜かねばならぬという悲壮な覚悟が刻まれていた。




荷馬車に揺られて故郷の門をくぐる時、孔明は一度だけ振り返った。


父と語らった書斎の屋根が、徐々に小さくなっていく。

そして、屋根の輪郭が、やがて霧の中に溶けていった




守られた世界が終わり、未知の世界が始まる。

それは、一人の少年が否応なく現実へと踏み出す、長い旅の始まりだった。




旅は、孔明が書物で知っていた「天下」という言葉の意味を、根底から覆すものだった。


最初に通りかかった村は、すでに村ではなかった。


家々の戸は破られ、畑は見る影もなく荒れ果てている。

道端にうずくまる人々は、生気のない虚ろな目で、ただ空を見上げていた。




孔明は、荷物の中から無けなしの乾飯を取り出し、痩せ細った子供に差し出そうとした。

だが、その手は叔父の玄によって強く制された。




「孔明、よせ。一人を救っても、すべては救えん。今は、我々が生き延びることを考えよ」




叔父の言葉は正しく、そしてあまりにも哀しかった。

孔明は、子供の絶望に満ちた瞳から目を逸らすことしかできなかった。


次に目にしたのは、役人の姿をした盗賊だった。彼らは官の印綬を盾に、民から最後の食べ物まで取り立てていた。


父が語った『王者』の徳は、この大地のどこにも存在しないかのようだった。




孔明は馬車の中で、見えないように強く拳を握りしめた。

その爪が、幼い掌に深く食い込む。

その甥の姿に気づいた玄は、一瞬だけ孔明に視線を向け、何かを言いかけたが、ただ静かに首を振って前方を見据えた。


その目には、怒りとも悔しさともつかぬ影が、深く沈んでいた。




ある日の昼下がり、吹きさらしの峠を越える時だった。


一陣の強い風が叔父の帽子をさらい、乾いた大地を転がっていく。

思わず「あっ」と声を上げた孔明は、考えるより先に駆け出し、埃まみれになって帽子を拾い上げた。


それを手渡した時、彼の顔には、旅に出てから初めて見せる、年相応の少年らしい笑みが浮かんだ――ほんの一瞬、ではあったが。

叔父もまた、その一瞬の微笑みに、今は亡き兄の面影を見た気がした。




だが、夜になれば、現実は再びその冷たい牙を剥く。

枯れ木を集めてささやかな焚火を囲んでいると、叔父がぽつりと呟いた。




「……これが、世だ。孔明。賢い者、力のない者はな、大きな嵐が通り過ぎるのを、息を潜めて待つしかないのだ」




静寂が落ちる。


パチリ、と薪がはぜる音だけが響いた。

孔明は、燃える炎を見つめたまま、静かに口を開いた。




「……叔父上。それでも、私はこの眼で見ていなければならないと思うのです。どんなにむごくとも。そうでなければ、何も変えることはできないから」




玄は薪をくべる手を止め、甥の顔をじっと見つめた。


その瞳に宿る、年の頃にはそぐわない強い光に、彼は一瞬息をのむ。

そして、ふっと息を漏らすように笑った。




「ふ……。頑固なところは、兄上そっくりになってきたな」




その言葉に、孔明は答えなかった。

父が語った「天の時を待つ」という言葉と、叔父の言う「ただ待つ」という言葉の、決定的な違いを噛みしめていた。




数ヶ月に及ぶ過酷な旅路の果て、ようやく遠くに荊州の地が見えてきた。


長江と漢水が交わるこの地は、乱世の中で、わずかな安寧を保ちつつあった。


多くの知識人たちが、北の混乱を避けて南へと流れ、ここに身を寄せていた。

孔明にとって、それは風の止む場所ではなく、次の風を待つ“根”を下ろすための大地だった。


旅の間、ずっと渦巻いていた問いが、一つの明確な形を結ぶ。




――意味がないのではない。意味を、持たせなければならないのだ。




知識は、己の身を守るための盾ではない。

それは、乱世の闇を生きる人々を導き、凍える心を温めるための、灯火でなければならない。




荊州の穏やかな大地を前に、孔明は静かに天を仰いだ。

そして、初めて自分自身の言葉で、その志を魂に刻みつける。




「私は、ただ書を読むために生まれてきたのではない。道を探すために、視るために、耐えるために――生きるのだ」




流浪の空の下で手に入れたこの誓いこそ、父の死後、彼が自らの足で立って磨き上げた、最も大切な自身を形づくる礎として、彼の内に静かに根づいていった。




少年の瞳には、もはや故郷を離れた寂しさも、未来への不安もなかった。


ただ、静淵のごとき落ち着きと、その奥に揺らめく、決して消えることのない……志という名の、一条の光が宿っていた



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