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第二十八話   仁君の涙、猛将の覚悟




長坂橋のたもと。




血と泥に汚れ、鬼神の如き形相で戻った趙雲。


その胸で安らかに眠る赤子、阿斗。




疑念が氷解し、ただただ友の無双の働きに呆然とする張飛。


そこに、諸葛亮を伴った劉備が、よろめくように馬を寄せてきた。




「子龍! よくぞ…よくぞ戻ってくれた…!」




主君の姿を認めた趙雲は、馬から転がり落ちると、その場に片膝をついた。




「殿…! この趙雲、お顔を拝する栄誉、もはやこれまでかと…」




「何を言うか! そなたがいてこその私だ!」




劉備は趙雲の肩を抱きかかえる。


そこで初めて、趙雲の胸当ての中から現れた我が子、阿斗の姿をはっきりと認めた。




「おお…阿斗! 無事であったか…!」




劉備は我が子を抱きしめ、その頬に涙を落とした。


だが、すぐに趙雲に向き直り、問うた。




「…麋夫人は、どうした」




趙雲は顔を伏せ、唇を噛み締めた。




「…申し訳ございません。奥方様は深手を負われ…若君を私に託すと、古井戸に身を…」




言葉は、続かなかった。


趙雲の無念の吐露と、妻の死の報告。




劉備の瞳から、再び大粒の涙が溢れ落ちた。


民のため、仲間たちのために流してきた涙とは違う、夫として、父としての慟哭であった。




集まった将兵たちは、主君の悲しみに皆、うなだれた。


誰もが、この悲劇的な再会に言葉を失っていた。




その、静寂を破ったのは、劉備自身であった。


彼はやおら立ち上がると、腕に抱いていた阿斗を、おもむろに地面に投げ捨てたのである。




「!!」




誰もが息を呑んだ。


趙雲が、弾かれたようにその赤子を拾い上げる。


劉備は、涙に濡れた顔で、しかし燃えるような瞳で趙雲を見据え、叫んだ。




「この赤子のために、私は天下の宝である将を一人、失うところであったぞ! 子龍、そなたの命に比べれば、この子など…!」




その言葉は、悲しみと激情から発せられた、魂の叫びであった。


趙雲は、拾い上げた阿斗を抱きしめながら、その場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。




「殿…! この趙雲、今後この御恩義に報いるためならば、我が身がどうなろうとも、悔いはございません!」




主君の情、そして部下の忠義。




その二つが極限の形で交錯し、一つの揺るぎない絆が生まれる瞬間を、そこにいた誰もが目撃した。




ただ一人、諸葛亮だけが、その光景を冷静な瞳で見つめていた。




(これが、玄徳様が人を惹きつけてやまない『徳』の正体…)




彼は、劉備の行動が、単なる感情の発露ではないことを見抜いていた。


将を、人を、組織を、何よりも大切にするという究極の意思表示。




計算があっては決して人の心は動かせない。


心からの行動だからこそ、人の魂を揺さぶるのだ。




(このお方になら、天下を賭ける価値がある)




孔明は、改めて自らの選択が間違っていなかったことを確信した。


だが、感傷に浸っている時間はない。


背後からは、曹操軍の先鋒が巻き上げる土煙が迫っていた。




「翼徳!」




孔明の声が、鋭く飛ぶ。




「はっ」と我に返る張飛。




「この長坂橋は、敵の進軍を阻む唯一の要害。殿と民が江夏へ退く刻を稼ぐため、貴公一人に、この橋を死守していただきたい」




「おう、任せておけ! 百万の兵が来ようと、この俺が一人たりとも通しはせん!」




張飛は、その丈八蛇矛を握りしめる。


その姿は、まさしく憤怒の仁王であった。


孔明は、張飛の耳にそっと口を寄せた。




「橋の東にある森に兵を潜ませ、馬の尾に柴を結びつけて駆け回らせなさい。土煙を上げさせ、伏兵がいるように見せかけるのです。貴公はただ一人、橋の中央に仁王立ちし、決して動いてはなりませぬ。敵は必ずや、我らの策を疑い、足を止めることでしょう」




それは、張飛の「勇」を最大限に活かし、敵の心理を突く策であった。




「玄徳様、さあ、我らも先を急ぎましょう」




孔明に促され、劉備は趙雲に支えられながら再び馬上の人となった。


一行が東へ去っていく。




やがて、長坂橋には、張飛がただ一人、残された。




地平の彼方から、黒い鉄の津波が、怒号と共に押し寄せてくる。




張飛は矛を地に突き立て、その虎のような眼を、敵軍に向けて大きく見開いた。




彼の、生涯最大の戦いが、始まろうとしていた.....

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