第二十七話 ただ一騎、千里を征く
長坂の地にたどり着いた一行に、安息はなかった。
あるのは、死地を駆け抜けた者たちの深い疲労と、離れ離れになった家族の名を呼び、泣き叫ぶ人々の悲痛な声だけであった。
その無数の泣き叫ぶ声の中で、劉備は自らの声も失っていた。
妻である麋夫人と、腕の中にいるはずの幼子、阿斗の姿が、どこにも見当たらないのだ。
「麋夫人はどこだ! 阿斗は! 誰か、誰か知らぬか!」
血走った目で兵士たちに問いかけるが、誰もが力なく首を振るばかり。
ついに、劉備はその場に膝から崩れ落ちた。
「民を救わんとして、己の妻子を失うのか…! 天よ、これが私の選んだ『仁』の道の答えだというのか!」
大地を叩き、号泣する主君の姿に、誰もかける言葉を見つけられない。
その絶望の底へ、さらに追い打ちをかける凶報が舞い込んだ。
一人の兵士が、恐る恐る進言する。
「申し上げます…! 先ほど、趙雲様がただ一騎、北の曹操軍の方角へ馬を走らせていくのを見ました…。まるで、投降でもするように…」
「なんだと!」
最初に反応したのは、張飛であった。
その顔は、怒りと裏切られたという悲しみで真っ赤に染まっている。
「子龍(趙雲の字)のやつ、この期に及んで俺たちを見捨て、曹操に寝返りやがったか! この恩知らずめが! 俺が連れ戻してやる!」
今にも馬に飛び乗ろうとする張飛。
その肩を、しかし、立ち上がった劉備が力強く掴んだ。
その顔からは涙は消え、代わりに、何ものにも揺るがない強い光が宿っていた。
「待て、翼徳。子龍は、決して裏切るような男ではない」
声は静かだったが、絶対的な確信に満ちていた。
「彼には、彼にしかできぬ何かがあるはずだ。私は、彼を信じる」
極限の状況で示された主君の信頼が、崩壊寸前であった陣営を、かろうじて一つに繋ぎ止めていた。
その頃、趙雲は一人、数十万の曹操軍が渦巻く死地へと馬を駆っていた。
彼の目的はただ一つ。行方不明となった麋夫人と阿斗の救出。
(我が君の悲しみは、この趙雲の悲しみ。この命に代えても、奥方様と若君を救い出してみせる!)
白馬「白龍」は稲妻の如く駆け、銀の鎧は朝日を浴びて輝く。
その姿は、まるで一条の白い龍が、荒れ狂う黒い奔流へと敢然と逆らい、突き進んでいくかのようであった。
神がかった槍さばきで敵兵を蹴散らし、血路を開いていく趙雲に、曹操軍は度肝を抜かれた。
「何者だ、あの男は!」
「た、ただ一騎だと!?」
やがて我に返った猛者たちが、大手柄を立てんと四方八方から殺到するが、趙雲の勢いは止まらない。
敵陣を縦横無尽に駆け巡った趙雲は、ついに破壊された土塀の陰で、深手を負い、もはや歩くこともままならない麋夫人と、彼女に抱かれた阿斗を発見した。
「奥方様!」
駆け寄る趙雲に、しかし、麋夫人は静かに首を振った。
「子龍…よくぞ来てくださいました。ですが、私はもうここまでです」
彼女は、自分が足手まといになることを悟っていた。
趙雲に阿斗をそっと手渡すと、最後の力を振り絞って微笑んだ。
「どうか、この子を…我が君の元へ…!」
それが最後の言葉だった。
麋夫人は、近くの枯れ井戸へと、その身を投じた。
「奥方様ぁぁっ!」
趙雲は絶叫した。
だが、悲しみに暮れている時間はない。
彼は涙をこらえると、すやすやと眠る阿斗を自らの鎧の下にしっかりと抱き、胸当ての紐を固く結んだ。
「奥方様、御覚悟、お見事…。この趙雲、必ずや若君をお届けいたします!」
赤子を胸に抱いた超雲は、再び死地からの脱出を開始した。
その鬼神の如き戦いぶりは、小高い丘の上から戦況を見ていた曹操の目をも釘付けにした。
曹操の愛剣「青釭の剣」を帯びる将軍・夏侯恩が、趙雲の前に立ちふさがるも、一瞬でその槍に貫かれた。
趙雲はその名剣を奪い取ると、さらに猛威を振るった。
「素晴らしい…。あれこそ真の勇将よ」
曹操は、思わず感嘆の声を漏らした。
部下が「矢の雨を降らせて、射殺しましょう」と進言するのを、手で制する。
「待て。あれほどの勇将を殺すには惜しい。全軍に伝えよ、趙雲を生け捕りにせよ、とな」
この、敵将である曹操の命令が、皮肉にも趙雲の活路を開いた。
矢による遠距離攻撃が止んだことで、趙雲は包囲網を突破する僅かな隙を得たのだ。
どれほどの刻、戦い続けたか。
鎧は朱に染まり、愛馬も満身創痍。
だが、その瞳の光は少しも衰えてはいなかった。
ついに敵陣を駆け抜けた趙雲が、張飛の待つ長坂橋のたもとにたどり着いた時、疑念に燃えていたはずの張飛は、ただ目を見開いて言葉を失った。
「子龍…! その姿は…まさか…」
血と泥にまみれた趙雲は、馬上から静かに頷くと、鎧の胸当てを緩めた。
その中から現れたのは、
奇跡のように無傷のまま、すやすやと眠る赤子――阿斗の寝顔であった。




