第二十二話 龍の雨、渇きし心を潤す
二度の奇跡――。
それが、曹操軍の二度にわたる猛攻を退けた新野城で、民たちが囁き交わす言葉だった。
一度目は、北の空を焦がす炎の勝利。
二度目は、城門を開け放ち、琴の音だけで十万の大軍を退けたという、にわかには信じがたい無音の勝利。
夜通し続いた恐怖から解放された民は、帰還した兵士たちを神の使いのように迎え入れた。
恐怖の夜が明けた安堵と、絶望の淵から二度までも救われた感謝が、町全体を一つの巨大な祝祭へと変えていた。
子供たちは、英雄となった兵士たちの周りを走り回り、その煤けた鎧に誇らしげに触れる。
その熱狂の渦の中で、民衆は、劉備や関羽、張飛といった馴染みの英雄たちの後ろに、静かに佇む一人の若者の姿を改めて認識した。
鶴の毛衣をまとい、涼やかな顔立ちをした、あの城楼の上で琴を奏でていた人物。
「あの方が…臥龍先生…」 民衆の視線が、好奇心と、畏敬と、そして何よりも深い感謝の色を帯びて、孔明に注がれる。孔明は、その熱狂の只中にありながら、まるで湖面の月のように静かに、民の笑顔の一つ一つをその瞳に焼き付けていた。
***
その夜、勝利の宴が終わり、喧騒が遠のいた政庁で、劉備は孔明と二人きりで向き合っていた。 劉備は、改めて孔明の前に進み出ると、深く、深く、その頭を下げた。
「軍師殿。…言葉もない。あなたは、この劉備だけでなく、新野の全ての民の命を救ってくれた。炎に焼かれ、あるいは蹂躙されるしかなかった我らを…」
その声は、感謝と共に、自らの無力さを恥じる響きを帯びていた。
孔明は、穏やかに首を振った。
「玄徳様、お顔をお上げください。私の計が二度までも成功したのは、ひとえに、貴方様が民を見捨てぬという『仁』の心をお持ちだったからです」
「…どういう、ことかな」
「兵は、己が命を懸けるに値するもののために戦います。兵士たちが死をも恐れぬ兵と化して博望坡で戦えたのも、恐怖の中で息を殺し命令を守り抜けたのも、貴方様がこの新野の民を見捨てないと、心から信じていたからに他なりませぬ。民が貴方を信じ、兵が貴方のために命を懸けた。私の描いた絵図は、貴方様の『仁』という魂を吹き込まれ、初めて命を得たのです」
劉備は、孔明の瞳を見つめた。
この若き軍師は、自分の知恵を誇るのではなく、自分の「仁」こそが勝利の源泉であると言ってくれる。
主従を超えた、魂の伴侶を得たのだと、劉備は熱いものが込み上げるのをこらえきれなかった。
劉備が去った後、孔明の私室を訪れたのは、美髯の将・関羽であった。
彼は、愛用の青龍偃月刀を手入れしながら、静かに孔明に背を向けたまま、ぽつりと言った。
「…軍師殿。某それがしはこれまで、この青龍偃月刀こそが乱世を切り拓く唯一の道と信じてきた。だが、貴殿は示された。血を流さずして十万の兵を退ける道もあるのだと。…俺の武も、三弟の勇も、貴殿の智の前では、いまだ道半ばであったと思い知らされたわ」
そう言うと、関羽はゆっくりと振り返り、孔明に向かって深く揖礼した。
「我が青龍偃月刀、今より後は、軍師殿の指し示すがままに振るおう。一片の疑いも無く」
それは、誇り高き武人が、己の信じる道をも超える存在と出会った瞬間の、最大限の敬意であった。
そこへ、廊下をドスドスと揺るがすような足音と共に、招かれざる客がやってきた。
「ぐんしどのぉーっ! この張翼徳が、勝利の酒を持ってきてやったぞ!」
戸口に仁王立ちになっているのは、顔を真っ赤にし、巨大な酒瓶を抱えた張飛であった。
「ちぇっ、堅物め!」と悪態をつきながらも、意外にもおとなしく部屋に入り、どかりと胡座をかく。
しばらく、意味もなく部屋の中を見回していたが、やがて観念したように、ごしごしと頭を掻きながら、ぼそりと呟いた。
「……その、悪かったな」
「…何がでございましょうか」
「だからよぉ! 俺ぁこれまで、あんたを口先だけの書生だと、正直なめてたんだ! 悪かった! これでいいだろ!」
張飛は一気にそう言うと、ばつが悪そうに顔をそむける。そして、子供のように目を輝かせて、身を乗り出してきた。
「…で、だ! あの火の計略もすげえが、次のあれは一体何なんだ!? 城門を開け放って、櫓の上で呑気に琴なんぞ弾きやがって! 俺ぁ、あんたが気でも狂ったかと思って、本気で引っ捕らえようとしてたんだぞ! なのに、曹仁の奴ら、しっぽ巻いて逃げやがった! あれは一体、どういう妖術なんだよ! 教えろってんだ!」
孔明は、この猛将の子供のように純粋な問いに、穏やかな笑みで答えた。
「夏侯惇将軍は勇猛であられましたが、それゆえに火の道へと突き進んでしまわれた。曹仁将軍は慎重な方でしたが、それゆえに空の城を見て深読みをしすぎてしまわれた。ただ、将の気質を読んだまでのことにございます」
「ふーん…」
張飛は、分かったような、分からないような顔で腕を組んでいたが、やがて面倒くさくなったように、ガハハと笑った。
「ま、いいや! ややこしいことは分からん! とにかく、あんたはすげえ! これから、この俺の槍は、あんたのために存分に振るってやるぜ! 約束だ!」
そう一方的に宣言すると、張飛は満足したように立ち上がり、抱えてきた酒瓶をドンと床に置いて、嵐のように去っていった。
一人残された部屋で、孔明は、去っていく猛虎の背中を思い浮かべながら、隆中で膝を抱え、天下を論じていた日々以来、初めて心の底から可笑しさが込み上げてくるのを感じていた。
彼は、思わず、ふっと静かに笑みを漏らした。
劉備の仁、関羽の義、張飛の勇。そして趙雲の忠。
この不器用で、裏表のない猛将たちとの付き合いも、存外、悪くないのかもしれない。
新野城に、久しぶりに穏やかで、希望に満ちた夜が訪れていた。
勝利の熱狂、民の笑顔、そして新たに生まれた将たちの熱い絆。
龍が初めて呼んだ雨は、乾ききった大地だけでなく、疑念と不安に渇いていた人々の心をも、深く、温かく潤した。 だが、誰もが勝利に酔いしれるその夜も、龍だけは、晴れ渡った夜空の向こうを静かに見据えていた。
そこには、己の存在を脅威として、そして最高の獲物として明確に捉えた「北の覇王」という、さらに巨大な暗雲が、ゆっくりと形を成しつつあるのが、はっきりと見えていたからである。




