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第二十話  虚ろな城、龍の影




博望坡の勝利に沸く新野城の凱歌は、長くは続かなかった。


祝宴の酒が乾かぬうちに、血相を変えた伝令が駆け込んできたのだ。




「申し上げます! 曹操軍、第二陣来襲! 敵将は曹仁! 夏侯惇の軍勢を遥かに上回る十万を号する大軍が、すでに樊城を陥れ、この新野へ殺到しております!」




その報告は、勝利の熱狂を一瞬で凍てつかせた。


曹仁.....曹操の従弟にして、智勇を兼ね備えた歴戦の名将。


その彼が、復讐の炎に燃える大軍を率いて、息もつかせぬ速さで迫っている。




博望坡で勝利したとはいえ、劉備軍は疲弊し、兵の多くはまだ散開したまま。


今の新野城は、事実上の空城に等しかった。


軍議の席に集まった将たちの顔には、焦りと絶望の色が浮かぶ。




「もはやこれまでか…」


「兵も糧も足りぬ。籠城すら不可能だ」


「民を見捨てて、襄陽の劉表様を頼るしか…」




張飛が吼える。


「兄者! 兵が足りぬなら、俺一人でも敵の先鋒を食い止めてみせる!」


関羽もまた、重々しく口を開いた。


「張飛の言う通り。我らが時間を稼ぐ故、兄者は民と共に…」




だが、その悲壮な覚悟を、涼やかな声が遮った。




「その必要はありませぬ」




一同の視線が、末席に座す諸葛孔明に集まる。


彼は、まるで他人事のように静かに茶をすすっていた。




「軍師殿、何か策が?」 劉備が問うと、




孔明はゆっくりと立ち上がり、一同を見渡した。




「策は、一つ。『空城の計』にございます」




一瞬の沈黙の後、議場は騒然となった。




「空城だと? 正気か!」


「城を開け放ち、敵を招き入れると申すのか!」




孔明は、その喧騒を片手で制すると、信じがたい命令を次々と下し始めた。




「城に残る全兵士は、武具を隠し、民家に潜むこと。城壁の旗幟きしはすべて降ろし、人の気配を完全に消していただきたい」


「次に、城の四方の城門を、すべて大きく開け放ちます」




「そして…」孔明は続けた。




「城門の内側で、二十人ほどの老兵に、民百姓のなりをさせ、のんびりと道を掃き清めさせてください」




将たちは、もはや言葉もなかった。


それは策ではない。狂気の沙汰だ。


自ら城を明け渡し、敵の蹂躙を待つに等しい。


張飛が、ついに我慢ならず孔明に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。




「若造! 貴様、俺たちを皆殺しにする気か! 博望坡の勝利で天狗になったか!」




だが、その張飛の腕を、関羽が静かに、しかし鋼の力で制した。


彼の目は、孔明の真意を問うように、じっとその顔を見据えている。




孔明は、張飛の剣幕にも臆することなく、静かに言った。




「曹仁は名将。それ故に、猜疑心が強い。小細工の罠を仕掛けても、すぐに見破られましょう。ですが、この『ありのままの無防備』こそが、彼の心を乱すのです。あまりに不自然な光景は、彼の心に『計り知れない罠があるに違いない』という疑念を生む。彼の智が、彼自身の目を曇らせるのです」




そして、孔明は劉備に向き直り、深く一礼した。




「仕上げに、この孔明が、城の中央にそびえる物見櫓やぐらの上にて、琴を奏でてみせましょう。玄徳様、我が策、信じていただけますか」




その瞳には、博望坡の戦いを遥かに超える、凄絶な覚悟が宿っていた。


劉備は、ゴクリと唾を飲むと、迷いを振り払うように、力強く頷いた。




「…わかった。軍師殿に、すべてを託す」








やがて、地平線の彼方から、黒い津波のように曹仁軍が押し寄せてきた。


しかし、新野城に近づくにつれ、歴戦の兵士たちは不気味な光景に足を止めた。




城門は開け放たれ、城壁に人影はなく、旗一本ない。




ただ、門の内側で老人たちがのんびりと掃除をしているだけ。


そして、城楼の上では、鶴の毛衣をまとった一人の男が、二人の童子だけを脇に従え、優雅に琴を奏でている。




その穏やかな琴の音色は、まるで大軍の存在など意にも介さぬとでも言うように、不気味なほど静まり返った城下へと響き渡っていた。




先鋒の将が、曹仁に駆け寄り進言する。




「殿! 城は空です! 伏兵の気配もありません。好機です、一気に攻め込みましょう!」




だが、曹仁は馬上で眉をひそめ、動かなかった。


彼の目は、城楼の上で琴を奏でる孔明の姿に釘付けになっている。




(…おかしい。あまりに、おかしい)




彼の脳裏を、博望坡での夏侯惇の惨敗がよぎる。




(あの諸葛孔明という男、火計で十万の兵を屠ほふったと聞く。その男が、これほど無防備な姿を晒すはずがない。この静寂…この落ち着き払いよう…。城内のすべての民家に、精兵が潜んでいるに違いない。我らを誘い込み、城門を閉じて殲滅する罠だ…!)




琴の音色が、ふっと止んだ。


城楼の上の孔明が、こちらを見て、にこりと微笑んだように見えた。




その瞬間、曹仁の背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。




(…笑った。見透かされている! この男の掌の上で、私は踊らされているのか!)




名将であるが故の智と猜疑心が、恐怖へと変わる。


彼は、もはや目の前の「虚うつろな城」が、龍の口のように見えた。


一歩足を踏み入れれば、二度と生きては戻れぬと。




「…退くぞ」




曹仁は、歯ぎしりしながら、屈辱に満ちた声を絞り出した。




「全軍、退却! この城には近づくな! これは、我らの智の及ばぬ、恐るべき罠だ!」




その信じがたい命令に、兵士たちは戸惑いながらも、潮が引くように撤退を開始した。






巨大な軍勢が陽炎の彼方へ消えていくのを、城壁の陰から息を殺して見守っていた将兵たちは、やがて、夢から覚めたように歓声を上げた。




櫓から降りてきた孔明は、劉備に支えられ、その場に崩れ落ちそうになった。


彼の額には玉の汗が浮かび、袖で隠された手は、琴の弦をかき鳴らした指先から血が滲んでいた。




張飛が、呆然とした顔で駆け寄る。




「軍師殿…あんた、一体…。本当に、ただ城を開けていただけなのか…?」




孔明は、かすかに微笑んだ。




「ええ。ですが、これは博望坡の勝利があったからこそ成功した策。我らが一度『龍の爪』を見せたからこそ、曹仁は『龍の本体』を恐れたのです」




彼は空っぽの城を見渡し、そして遠ざかる敵軍の先に広がる中原を見据えた。




「しかし、この策は二度は通じませぬ。我らは、奇策で時間を稼いだに過ぎない。玄徳様、決断の時です。この城を、民と共に離れ、次なる龍の棲家を探すのです」




空城の計ーそれは、敵の心を操り、刃なくして敵を退ける、究極の心理戦。




諸葛孔明の名は、この日、伝説となった。


だが、彼の真の戦いは、まだ始まったばかりであった。

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