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第十八話  龍の深謀




孔明が新野の土を踏んでから、一月ひとつきが過ぎた。




その一月で、城は静かに、しかし劇的にその姿を変えつつあった。


城壁のひびは漆喰で丁寧に埋められ、兵糧庫には湿気を防ぐ通気口が設けられた。


しかし、それは目に見える変化に過ぎない。


本当の変革は、この城に生きる人々の「心」に起きていた。




「軍師殿は、俺の村の婆さんの名まで覚えていて、手紙に一言添えてくださったそうだ」


「俺の草鞋わらじがすり減っているのを見て、何も言わずに新しいものを支給してくれた」




兵卒たちの間で、そんな囁きが交わされるようになった。


彼らにとって、孔明はもはや雲の上の貴人ではない。




「我らの暮らしと命を、かけがえのない宝のように大切にしてくださる方」という、絶対的な信頼と親愛の対象へと変わりつつあったのだ。




だが、歴戦の将たち、特に張飛の不満はいまだ燻り続けていた。




「城が綺麗になったとて、腹の足しになるか! 兵士に優しくして、曹操の大軍が退くものか! 軍師殿のやることは、まるでままごとだ!」




その苛立ちは、ある意味で正しかった。


孔明の改革は、まだすべて「守り」のためのもの。


圧倒的な国力差を覆すには、あまりに地味で、遠回りに思えた。




関羽もまた、その長い髯を静かにしごきながら、この若き軍師の真意を測りかね、値踏みするような視線を送り続けていた。






その頃、孔明は、彼の「第二の戦」に着手していた。


それは、目に見える敵との戦いではない。


「天の時、地の利、人の和」という、目に見えぬ巨大な流れを自らの手で創り出すための、神の領域に踏み込むかのような戦いであった。




ある夜、孔明は自室に趙雲を密かに招いた。


部屋の中央には、床のほとんどを覆い尽くさんばかりの、巨大な白紙の地図が広げられている。




「子龍殿。そなたにしか頼めぬ務めがある」




孔明の声は、夜の静寂のように深く、澄んでいた。




「少数の精鋭を率い、この新野から樊城、そして襄陽に至るまでのすべての『水』の動きを、この紙に写し取ってきていただきたい」




「水、でございますか?」




趙雲の問いに、孔明は静かに頷いた。




「いかにも。河川や沼はもちろん、橋の強度、雨季に水が溢れる場所、水が溜まりやすい窪地、霧の発生しやすい谷、そして季節ごとの風が抜ける道筋。可能な限り詳細に。そなたのその足で確かめ、その肌で感じたものを、ここに描き込んでほしいのです」




常人が聞けば、正気を疑うだろう。


戦を前に、水遊びの地図でも作ろうというのか。




だが、趙雲は違った。


彼は、孔明の瞳の奥に、常人には到底見通せぬ、恐ろしく深い思慮の淵が広がっているのを感じ取っていた。


この命令の一つ一つが、やがて来るべき決戦の、重要な布石であると直感したのだ。




「御意!」




趙雲は、一切の疑問を挟まず、ただ深く一礼すると、その眼に絶対的な信頼の光を宿して部屋を出て行った。




次に孔明が着手したのは、「人の和」という、最も強固で、最も脆い城の構築であった。


彼が立案した「家族連絡制度」は、絶大な効果を発揮した。




「劉備様は、我らの命だけでなく、家族の心まで守ってくださる」。




その想いは、彼らを単なる兵士から、劉備という人格にすべてを捧げる「死を恐れぬ兵士」へと変えつつあった。




さらに孔明は、新野の民にも働きかけた。


倉からわずかな穀物を出し、公正に配給する。


しかし、彼の真の狙いは、単なる人気取りではない。




それは、来たるべき「敗戦」をも想定した、恐るべき深謀であった。


孔明の知恵は、単発の奇策ではない。


それは、地道な調査と準備という無数の「根」を張り巡らせ、そこから必然的に勝利という「果実」を実らせる、一つの巨大な生命体にも似ていた。




そして、運命の日は、唐突に、そして絶望的な姿で訪れた。


夕暮れ時、一騎の斥候が、血と泥にまみれ、半ば狂乱状態で城門に転がり込んできたのだ。




「て、敵襲! 曹操軍にございます!」




その報告を聞き、政庁に詰めていた将たちは色めき立った。


だが、斥候の次の言葉が、その場の空気を凍りつかせた。




「総大将は…『盲夏侯』…夏侯惇! 先鋒に猛将・曹仁、後詰めに李典! その数、およそ十万! 天を覆う砂塵のごとく、道沿いの村々は、すでに…すでに煙と化しております!」




夏侯惇――その名は、戦の鬼として中原に轟いていた。


片目を失ってなお勇猛さを増し、彼の通った後には草木一本残らぬとまで言われる猛将。


それが、曹操軍きっての精鋭を率いて、この新野に迫っている。


城壁の見張り台に登った将たちは、言葉を失った。




はるか北の地平線が、夕焼けではない、不気味な赤光に染まっている。


無数の村々が燃え盛る炎の色だ。




「夏侯惇だと…」


「終わった…」


「この城では半日も持つまい」




歴戦の勇士たちの顔から血の気が失せ、絶望的な囁きが交わされる。


若い兵士の中には、恐怖でその場にへたり込み、震えが止まらない者もいた。




張飛は、その不甲斐ない兵士たちに怒声を浴びせようと駆け寄った。




「貴様ら、腑抜けめ! 戦う前から死人のような顔をしおって!」




だが、彼が目にしたのは、予想外の光景だった。


恐怖に泣き崩れていた若い兵士の肩を、一人の年配の兵士が力強く叩いている。




「馬鹿野郎、泣いてる暇があるか! 軍師殿を信じろ! お前の母ちゃんには、先週『息子は元気にやってる』と軍師殿から文を届けたばかりだろうが。その軍師殿が、俺たちを見捨てると本気で思うのか!」




別の場所では、武具方の兵士が、恐怖に震える手を叱咤するように動かし、槍を磨いていた。




「震えるな、俺の手! この槍は、軍師殿が来てから一度も手入れを欠かさなかった、俺の命だ。いつでも戦えるようにしておくのが、軍師殿への恩返しだ…!」




張飛は、その光景に愕然とした。


絶望的な状況下で、兵士たちは確かに恐怖に震えている。


だが、その心は折れていない。




孔明がこの一月、地道に築き上げてきた、兵士一人ひとりへの細やかな配慮の一つ一つが、彼らの心を繋ぎとめる強固な鎖となり、奇跡的なほどの「結束」を生み出していたのだ。




張飛は、孔明の「ままごと」が、この極限状況で兵士たちの心を支える「最後の城壁」となっていることを、初めて肌で理解し、言葉を失った。




重く垂れ込めた絶望の闇。




若き軍師が仕掛けた無数の布石は、果たしてこの絶対的な武力の前に、いかなる意味を持つのだろうか。




運命の軍議は、刻一刻と迫っていた....

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