第十七話 「龍、淵を出でて波濤を知る」(後編)
数日後、新野の政庁で、孔明を正式に披露するための最初の軍議が開かれた。
歴戦の将たちが、それぞれの武骨な鎧を軋ませながら席に着く。
誰もが、主君がこれほどまでに心酔した若き軍師の口から、どのような奇策妙計が語られるのかと、期待と懐疑の入り混じった視線を上座に注いでいた。
やがて、孔明が静かに入場する。
その若さ、一筋の乱れもない衣、そして湖面のように穏やかな佇まいは、この武骨で殺伐とした空間において、あまりにも異質だった。
彼は上座に着くと、居並ぶ将たちをゆっくりと見渡し、静かに第一声を発した。
「皆様にお尋ねしたい。この新野の城内に、井戸はいくつあるか、ご存知か」
水を打ったように静まり返る議場。
将たちは、あまりに予想外の問いに、意味が分からないといった顔で互いを見合わせるばかりだ。
孔明は、構わず続けた。その声は静かだが、一言一言が、部屋の隅々にまで染み渡る。
「兵糧庫の西側の床板が、湿気で浮いている。あのままでは、梅雨を越せずに穀物が駄目になる。なぜ、誰も手を打たぬのですか」
「昨日、南門の歩哨に立っていた李三という兵の草鞋の紐が、切れかけていた。武具方の支給は、いつ行われているのですか」
次々と繰り出される、地を這うような現実的な質問。
その一つ一つが、将たちの意表を突き、彼らの築いてきた自負という名の城壁に、静かな、しかし確実な楔を打ち込んでいった。
議場を満たしていた期待の空気は急速に冷え、当惑と苛立ちの混じった重苦しい沈黙へと変わっていく。
井戸の数など、誰も正確に把握してはいない。
兵糧庫の床板の湿気など、気づいても後回しにしていた些事さじだ。
一兵卒の草鞋に至っては、問題にすらなっていなかった。
古参の将たちは、答えに窮し、互いに顔を見合わせては、気まずそうに視線を泳がせる。
ある者は額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭い、ある者は乾いた咳払いで取り繕った。
主君・劉備の前で、自らの職務怠慢を白日の下に晒されているかのような屈辱が、じりじりと彼らの肌を焼く。
その中で、張飛の堪忍袋は、すでにはち切れんばかりに膨れ上がっていた。彼はギリ、と奥歯を噛みしめ、太い指で机の縁を苛立たしげに叩き始める。
(下役人の仕事にケチをつけ、我らを辱めるために、兄者はこの若造を呼んだのか!)
その虎のような眼には、尊敬どころか、あからさまな敵意が燃え盛っていた。
隣に座す関羽は、動かない。
だが、その閉じられた口元と、眉間に刻まれた一本の深い皺が、雄弁な怒り以上に重い圧力を放っている。
彼の誇りは、華々しい軍略ではなく、日々の管理不行き届きを問われたことで、静かに、しかし深く傷つけられていたのだ。
もはや、孔明を見る将たちの視線に、最初の好奇心や期待の色はない。
それは、自分たちの聖域に土足で踏み込んできた異物を値踏みし、詰問するような、冷たく鋭い刃となって孔明に突き刺さっていた。
この凍りついた空気を最初に引き裂いたのは、やはり、猛虎の咆哮だった。
「軍師殿!」
張飛が、机を叩かんばかりの勢いで立ち上がった。
「あんたに聞きたいのは、そんなちまちましたことが戦の役に立つか!曹操の大軍が来たら、どう迎え撃つのか!その大計を語るのが、あんたの仕事だろうが!」
だが、孔明は動じなかった。
彼は、荒ぶる張飛の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、静かに、しかし、揺るぎない声で言った。
「張飛将軍。それこそが、私の戦の始まりです」
「……なんだと?」
「大河も、その源は岩間から染み出す一滴の雫。天を衝く大樹も、最初は土の中の一粒の種。百万の大軍を動かす大計も、兵士一人一人の草鞋の紐が切れ、腹を空かせていては、絵に描いた餅に過ぎません。まず、兵が安心して戦える『地盤』を築く。兵士一人一人の心を知り、その不安を取り除く。全ては、そこからです」
その夜。
孔明の部屋の灯りは、朝まで消えることがなかった。
偶然、夜の見回りをしていた趙雲が、その部屋の前を通りかかり、障子に映る影に足を止めた。
灯りの下で、若き軍師は一人、膨大な量の兵士の名簿や城の図面、物資の出納帳と向き合い、黙々と筆を走らせていた。
その姿は、まるで戦場の地図を睨む将軍のようであったが、彼が戦っている相手は、敵軍ではなかった。
(このお方は…戦場ではなく、この城そのものと、兵一人一人の人生と戦っておられるのだ…)
趙雲は、静かにその場を立ち去った。
翌朝、劉備のもとに、孔明から分厚い報告書が届けられた。
そこには、城壁の補修箇所と人員配置、土と石灰の最適な配合比率まで記した「城塞強化案」。
兵糧を古いものから消費し、有事の際は粥にして量を倍にするための調理法まで書かれた「兵糧運用効率化案」。
そして、全ての兵士の家族構成を把握し、週に一度、伝令を送って無事を知らせることで士気を維持する「家族連絡制度案」…。
あまりに緻密で、どこまでも人間的な配慮に満ちたその内容に、劉備は言葉を失い、ただ熱いものが込み上げてくるのをこらえていた。
報告書に目を通した関羽は、長い間「…むぅ」と深く唸り、やがて報告書から顔を上げると、初めて孔明の顔を真正面から見つめた。
その瞳から、値踏みするような色が消え、ただ目の前の男の底知れぬ深さを探るような、複雑な光が宿っていた。張飛は、まだ不満そうに顔をそむけているが、もはや反論の言葉は出てこない。
その時、趙雲がすっと進み出ると、孔明の前に立ち、深く頭を下げた。
「軍師殿…恐れ入りました。それがしは、戦とは槍働きと策略のみと思い込んでおりました。軍師殿の戦の深さ、この趙雲、初めて知りました」
それは、硬い岩盤に染み込んだ、まだほんの小さな一滴の雫だった。
だが、その一滴が、やがて劉備軍という乾いた大地を潤し、人の心を繋ぎ、巨大な流れを生み出す、始まりの一滴となることを、この時、まだ誰も知らなかった。
龍は、力で波濤をねじ伏せるのではない。
まず、自らが波の下に潜り、その流れを知り、内側から静かに、しかし確実に、潮の流れそのものを変えようとしていた。