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第十六話   「龍、淵を出でて波濤を知る」(前編)




三顧の礼より数日後、春の柔らかな日差しが、夜の間に降りた露をきらめかせ、隆中の丘を淡い黄金色に染め上げていた。



小鳥のさえずりが空高く響き、風は芽吹き始めた草の匂いと湿った土の香りを運んでくる。


世界の全てが生命の喜びに満ちているかのような、穏やかな朝。






その長閑な風景の中心に佇む草葺きのいおりの前で、諸葛亮(孔明)は、旅立ちの支度を終えていた。


隣には、ただ黙ってうつむく弟の均がいる。兄の麻の衣が、いつもよりずっと白く、そしてどこかよそよそしく感じられた。




「兄上…」




絞り出すような弟の声が、朝の静寂に震えた。


孔明は、その小さな肩にそっと手を置き、穏やかに微笑みかけた。




「心配せずともよい。私は、戦をしに行くのではない。戦を、終わらせに行くのだ」




その声は、いつもと変わらぬ優しさだったが、その奥には岩のような決意が秘められていた。


均は、兄がもう、この隆中の穏やかな風の中にだけ生きる人ではないことを、痛いほど感じていた。




「……」




言葉に詰まる弟の手を、孔明は両手で包み込むように握った。




「私がもし、帰らなければ、この畑を頼む。父上が愛したこの土を、守ってほしい。そして、時折でよい、私が語った古の物語を、村の子らに聞かせてやってくれ。人が希望を忘れないために、物語は必要なのだ」




「兄上…」




均は、こらえきれずに兄の袖を強く掴んだ。




「必ず、必ずお戻りください」




「ああ、約束だ」




孔明は頷くと、弟の頭を一度だけ優しく撫で、背を向けた。


劉備一行と共に、孔明はゆっくりと坂を下る。




劉備は孔明の心情を察し、何も言わずにただ歩みを合わせてくれている。


その背後から、関羽の重々しい気配と、張飛の隠そうともしない苛立ちが、ちりちりと肌を刺すようだった。




孔明は、一度だけ振り返った。




父の教えを胸に刻んだ書斎の窓。


友と夜が更けるのも忘れて語り明かした囲炉裏。


天下を論じ、己の無力さを噛み締めた縁側。そして、丘の上でいつまでも立ち尽くす、たった一人の弟の姿。




その全てが、彼の魂を形作った、かけがえのない宝物だった。




(さらばだ、我が伏龍の時よ)




孔明は心の中で深く別れを告げ、瞼を閉じた。


次にその瞳を開いた時、そこにはもう、故郷を懐かしむ青年の面影はなかった。




ただ、天下という巨大な盤面を見据える、軍師・諸葛孔明の顔があるだけだった。


龍は、自ら生きてきた淵を振り返ることはない。


その先にあるのが、いかなる荒波であろうとも、もう彼は独りではないのだから。




新野への道中、孔明はほとんど言葉を発しなかった。


ただ、馬上から静かに、全てを観察していた。


兵士たちの草鞋のすり減り方、馬の呼吸の荒さ、道端に佇む民の虚ろな目。




その一つ一つが、声なき情報となって、彼の脳内に蓄積されていく。




その沈黙が、張飛には傲慢に映った。




「ちぇっ、軍師殿とやらは、お口が重いようだ。俺たちみてえな武骨者とは、話が合わねえと見える」




馬上から吐き捨てるような言葉が飛ぶ。


関羽はそれを咎めもしなければ、同調もしない。


ただ、その長い髯を静かにしごきながら、値踏みするような視線を孔明に送り続けるだけだった。




そして、新野の城門をくぐった瞬間、孔明は、脳内に描いてきた理想の設計図と、目の前の現実という名の廃墟との間にある、あまりにも深い溝を全身で感じることになった。




城壁には無数のひびが走り、そこから伸びた雑草が風に揺れている。


雨だれの黒い筋が、まるで城の涙のように幾筋も流れていた。


城門を守る兵士たちの鎧はへこみ、槍の穂先は曇っている。




その瞳は、明日を信じる輝きではなく、今日一日をただやり過ごすだけの濁りを湛えていた。


町全体が、見えざる重圧に押し潰され、ゆっくりと死に向かっているかのようだった。




その夜、劉備が孔明のために開いた歓迎の宴は、彼の心を温めるどころか、むしろ冷え切った現実をさらに突きつける場となった。




「軍師殿」




関羽が、なみなみと酒が注がれた杯を差し出してきた。




「書物の中の戦はお得意と伺ったが、このような血の匂いが染みついた酒も、お口に合うかな?」




その言葉は丁寧だが、明らかに孔明を試している。


孔明は静かにそれを受け、一息に飲み干した。




「結構な酒です。ですが、民の血涙の味は、いたしませぬな」




その返しに、関羽の眉がわずかに動いた。




一方で張飛は、わざと聞こえるような大声で部下と話している。




「なあ、聞いたか。殿は、俺たちの槍働きよりも、お偉い先生の筆先きのほうが、お大事らしいぜ。これからは戦も楽になるだろうよ、なんせ先生がちょいと筆を動かせば、曹操の百万の兵も逃げ出すって話だからな!」




下品な笑い声が響く。


古参の将たちも、それに同調するように薄ら笑いを浮かべていた。


彼らにとって孔明は、主君が三度も頭を下げて連れてきた「客人」であり、共に死線を越えてきた「戦友」では断じてなかった。




この冷たく、そしてどこまでも粘りつくような現実こそ、龍が最初に乗り越えるべき、人の心が作る波濤はとうであった。

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