第十五話 三顧の礼 3 第三の来訪 「王者の魂を問う」
春の光が満ち、臥龍岡の草木がいよいよ深くその色を増したある日。
三度、運命の足音が、隆中の草廬へと近づいてきた。
この日、諸葛亮(孔明)は、早朝から沐浴をして身を清め、一筋の乱れもなく衣を整え、静かに客人を待っていた。
その佇まいは、もはや試す者のそれではない。
自らの魂を賭けるべき主君を迎える、覚悟を決めた者のそれであった。
弟の均も、兄のただならぬ気配を察し、言葉もなく、その傍らに控えている。
草廬に迎え入れられた劉備は、二人の義弟と共に、上座を固辞し、孔明の前に深く膝を折った。
そして彼は、これまでと同じように、しかしこれまで以上に切々と、戦乱に苦しむ民の窮状を、溢れる涙と共に語った。
その言葉、その涙に、一点の曇りも嘘もなかった。
関羽と張飛も、今は兄の背後で静かに頭を垂れている。
三度の来訪は、この兄弟たちの心からも、焦りや苛立ちを洗い流し、目の前の青年に対する純粋な敬意だけを残していた。
長い沈黙の後、孔明は、ついに口を開いた。
彼は、曹操の「天の時」、孫権の「地の利」を説き、そして劉備に残された唯一の道として、「人の和」を以て荊州·益州を取り、天下を三つに分ける計を、凛とした声で語り始めた。
「天下三分の計」――。
その壮大にして明快な構想は、暗闇の中で彷徨っていた劉備たちにとって、まさに天啓であった。
希望の光が、三人の顔を明るく照らす。
だが、その光に安堵しかけた劉備に対し、孔明は、冷徹な刃を突きつけた。
「玄徳様。この計は、今荊州を治める劉表様を欺き、益州の主·劉璋殿を攻め奪る、覇者の行いそのもの。貴方様が掲げてこられた『仁』とは、真っ向から矛盾いたします。それでもなお、この非情の道を行き、全ての罪をその一身に背負う覚悟が、貴方様にはおありか」
劉備は、その問いに一瞬息をのんだが、迷いはなかった。
彼は涙を拭うと、決然と答えた。
「民を救うためならば、私は喜んで全ての罪を背負いましょう。我が身の潔白よりも、天下万民の安寧こそが、我が『仁』の目指すところでありますゆえ!」
その答えを聞き、孔明は静かに頷いた。
だが、彼はまだ拝礼しない。
劉備が覚悟を示したその時、孔明は、さらに深く、誰も予期せぬ問いを、静かに投げかけた。
その声は、天下国家を論じていた先ほどまでとは違い、個人的な、あまりに私的な響きを帯びていた。
「…玄徳様。最後に一つ、お伺いしたい儀がございます」
場の空気が、再び張り詰める。
「我が旧友、徐元直のこと…今、貴方様は、彼のことをどう思っておられるか。率直なお気持ちをお聞かせ願いたい」
その名が出た瞬間、劉備の表情が凍りついた。
まるで固く張りつめた仮面が音を立てて砕け散るように、
英雄としての顔は崩れ落ち、そこには一人の男の、深い哀しみを湛たたえた素顔が露わになった。
孔明は、その心の揺らぎを見逃さず、畳み掛ける。
「元直は、母を人質に取られ、貴方様のもとを去りました。結果、彼はその類い稀なる才を発揮する場を永遠に失い、その母君は、誇りのために自ら命を絶たれた。…言い方を変えれば、彼は貴方様と出会ったことで、その人生を根底から狂わされたとも言えましょう。貴方様にとって、彼は、ただ過ぎ去った一人の幕僚に過ぎませぬか?」
この問いは、計略の是非を問うものではない。
劉備の為政者としての資質だけでなく、「人間」としての魂の在り処を問う、最後の、そして最も重要な試験であった。
部下を、ただの「駒」や「道具」として見ていないか。
役に立たなくなった者、過ぎ去った者に対し、なおも心を寄せているか。
友·徐庶の涙の重さを、真に受け止める器であるか。
劉備は、しばらく言葉を発することができなかった。
やがて、その瞳から、大粒の涙がとめどなく流れ落ちた。
「先生…元直の名を、忘れた日は一日たりともございません」
彼の声は、嗚咽で震えていた。
「彼の悲劇は、曹操の奸計によるもの…。しかし、その遠因は、彼という至宝を守り切れなかった、この私の不徳にあります。彼の母を思う孝心を引き裂くこともできず、かといって、彼を力ずくで留めておくこともできなかった。私は…私は、彼の才を心の底から愛しながら、彼の人生を守ってやることのできなかった、あまりにも無力な主でした」
劉備は、両手で顔を覆った。その肩が、悔恨に激しく震えている。
「彼が許都へ去る日、私は、彼が向かう方角の木々を、全て伐り倒させました。彼の後ろ姿が見えなくなるのが…あまりにも辛かったからです。彼を失った私の心は、今も、あの荒涼とした景色の中にあります。彼が、そして彼のような心優しき者が、二度と涙することのない世を作ること…。それこそが、彼を守れなかったこの私にできる、唯一の償いだと、今も信じております…」
その言葉を聞き終えた瞬間。
孔明の中で、最後の氷が、音を立てて砕け散った。
彼の心に渦巻いていた、友への自責の念、天下への義憤、そして劉備への最後の疑念、その全てが、劉備の涙によって、浄化されていくかのようだった。
(これだ…! これこそが…!)
彼の脳裏に、許都で心を殺して生きる友の姿が浮かんだ。
(元直よ、聴いているか。このお方は、お前を決して忘れてなどおられなかった。お前を駒としてではなく、かけがえのない一人の友として、その心の痛みを、今もご自身の痛みとして、抱き続けておられるのだ…!)
(このお方なら、人の心を真に束ね、この乱世を終わらせることができる。このお方になら、私の知略の全てを、そして、君のあの日の涙の重みを、この命ごと託すことができる…!)
もはや、そこには冷静な賢者はいなかった。
孔明は、よろめくように立ち上がると、劉備の前へと進み出た。
そして、儀礼的な平伏ではない、まるで膝の力が抜けたかのように、その場にどっと跪ひざまづいた。
顔を上げ、劉備の涙に濡れた顔を見つめる。
その瞬間、孔明自身の瞳からも、こらえきれなかった熱いものが奔流となって溢れ出した。
「玄徳…様…っ」
呼びかける声は、嗚咽に呑まれて途切れ途切れだった。
それは、友を救えなかった悔恨の涙だった。
それは、友の想いを理解してくれる人に出会えた安堵の涙だった。
そして、自らの命を、魂ごと投げ出すべき道を見出した、歓喜の涙だった。
主君と臣下ではない。
ただ、一人の友を思う二人の男が、互いの涙の中に、言葉にならない真実の絆を見出していた。
劉備もまた、跪いて泣く孔明の姿に、彼の心の奥底にある深い痛みと、自分に寄せられた信頼の重さを感じ取り、声を上げて泣き続けた。
傍らで見ていた関羽と張飛も、この理屈を超えた魂の交感に息をのみ、目頭を熱くせずにはいられなかった。
目の前の青年は、ただの怜悧な策士ではない。
自分たちの兄と同じ、どこまでも熱く、深い心を持った男なのだと、この時、初めて知った。
ひとしきり泣いた後、孔明は涙に濡れた顔のまま、しかし、かつてないほど澄み切った瞳で劉備を見上げた。
「もはや…お聞きすることは、何も…ございません…。この諸葛亮の命、この魂…生涯を懸けて、貴方様と共に…!」
三顧の礼。
それは、主君が賢臣を得たという、ただの儀式ではない。
二つの魂が、互いの涙の中に真の絆を見出し、共に泣き、共に天下の民の涙を拭うことを誓い合った、人間的な邂逅の瞬間であった。
龍は、ついに生涯の主を得て、淵を出でる。
その先にあるのが、いかなる嵐であろうとも、その心は、一人の友の心と、固く結ばれていた。