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第十二話  三顧の礼  序章 「共鳴の誓い」




新野の風は、冬の気配を色濃く含み、吹き抜けるたびに人々の襟元を震わせた。軍師・徐庶を失った劉備の陣営には、えも言われぬ閉塞感が鉛のように漂っていた。




日々、兵の訓練に励み、民の暮らしに心を配る劉備ではあったが、その傍らに的確な助言を与える者のいない寂しさと心許なさは、隠しようもなかった。




曹操という巨大な影が、荊州の北からじわりとその版図を広げ、見えざる圧力を強めているのを、城内の誰もが肌で感じていたのである。




「兄者、いつまでも気落ちしていても始まらない。俺たちがいれば、曹操軍など何するものか!」




張飛が、その巨躯に似合わぬ苛立ちを声に滲ませ、酒盃を卓に叩きつけるように置いた。向かいに座す関羽もまた、見事な長い髯を静かにしごきながら、重々しく頷いた。




「翼徳の言う通りだ、兄者。我ら兄弟の結束こそが、我らの力の源。今は耐え、次なる好機を待つべき時だ」




二人の弟の力強い言葉に、劉備は力なく微笑んでみせた。


その顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。




「わかっている。お前たちの勇猛さ、そして忠義を、私が疑ったことは一度もない。だがな、軍には頭脳が、国には柱が要る。今の我らには、そのいずれもが欠けているのだ…。これでは、民の期待に応えることなどできはしない」




その、重く沈み込んだ空気を破ったのは、門番の慌ただしい報告の声だった。




「申し上げます!許都より、徐元直様の使者を名乗る者が参っております!」




「なに、元直からだと!」




劉備は、まるで雷に打たれたかのように弾かれたように立ち上がった。


その声には、驚きと、かすかな希望が入り混じっていた。


関羽と張飛も、思わず顔を見合わせ、険しい表情で立ち上がる。


すぐに使者は広間へ通された。




長い旅路の疲れをその全身に刻んだ男は、劉備の姿を見るや深々と頭を下げ、懐から一通の書簡を恭しく差し出した。


劉備は、まるで壊れ物に触れるかのように、震える手でそれを受け取った。




友の無事を祈りながら封を切った彼の目に、まず飛び込んできたのは、母の訃報と、万死に値すると血を吐くような痛切な謝罪の言葉だった。




「ああ…なんということだ…。元直…、その母御が…」




劉備の目から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。


友の母を死なせてしまった悔恨と、友の心がどれほど引き裂かれているかを思うと、我がことのように胸が抉られる。


関羽と張飛も、言葉もなくその姿を見守っていた。




だが、書簡を読み進めるうちに、劉備の表情は徐々に変わっていった。


絶望の闇に沈んでいた瞳に、驚きと、信じられないといった戸惑いの色が浮かび、やがて、それは一条の、いや、満天の光を見出したかのような、燃え立つ輝きへと変わっていった。




「兄者…?」




訝しむ関羽に、劉備は書簡を固く握りしめたまま、顔を上げた。その頬は涙で濡れていたが、瞳は遠い一点を見つめ、燃えるように輝いていた。




「雲長、翼徳、聞け。元直は…我らに、最後の、そして最高の贈り物を残してくれた」




劉備の声は、涙に濡れながらも、確信に満ちて震えていた。




「元直が言うのだ。彼の師・水鏡先生が『臥龍』――眠れる龍と呼んだ男がいる、と」




「がりょう…?眠れる龍、でございますか」




「そうだ。名を諸葛、字を孔明。元直は書いている。自分の才など、孔明に比べれば、太陽の輝きに対する蛍の光のようなものだと。古の張良、陳平ですら及ばぬであろう、と。この者を得れば、漢室の復興は成り、天下万民は安寧を得るであろうとまで…!」




劉備の声は、いつしか確信に満ちた力強いものに変わっていた。


彼は立ち上がり、広間を歩き回った。まるで、じっとしていては、胸の底から湧き上がる熱い希望に、その身が張り裂けてしまいそうだとでも言うように。




「これぞ天の啓示だ!元直が、その身を引き裂かれる苦しみの中で、我らに道を指し示してくれたのだ!よし、すぐに支度をせよ!ただちに隆中へ赴き、この臥龍先生をお迎えする!」




そのあまりの熱意に、張飛が大きな体を揺すって言った。




「兄者、落ち着いてくれ。そんな大層なことを言うが、たかが田舎の学者だろう?使いの一人でもやって、呼びつければいいじゃねえか。もし来ねえってんなら、俺が一縄かけて、無理やりにでも引きずってきてやる!」




「馬鹿者、翼徳!」


劉備が、珍しく雷のような大声で叱りつけた。




「そのような無礼が許されると思うか!賢人を求める者が、力でそれを辱めてどうする!」




関羽も、冷静に、しかし諭すように続けた。




「兄者のお気持ちはわかります。ですが翼徳の言うことにも一理ある。これほどの人物を迎え入れるのであればこそ、まずは丁重な使者を立て、我らの礼を示すのが筋かと。兄者自らが、わざわざ草廬まで出向く必要はありますまい」




二人の言葉に、劉備はゆっくりと首を振った。


彼は窓辺に立ち、冷たい冬の曇り空を見上げた。


だが、彼の目には、暗雲の向こうに燦然と輝く太陽が見えているかのようだった。




「違うのだ、二人とも。それでは、事は成るまい」



劉備は、静かに、しかし決して揺らがぬ断固とした口調で言った。




「水を得られぬ魚が、どうして水を呼びつけられるか  乾ききった旅人が、どうして泉に来いと命じられるや  求める者が、礼を尽くし、誠意を尽くして、自らの足でその淵まで赴く。それが、人と人とが出会う道の基本ではないか」




彼は振り返り、二人の弟の目を真っ直ぐに見据えた。




「元直は書簡の最後にこう記している。『竜の眠る淵へ、主君自らが赴くほどの礼と、誠意にございます』と。私は、我が身の徳の薄さを誰よりも知っている。だからこそ、礼を尽くさねばならぬ。この劉玄徳が、三度でも、十度でも、この足で隆中へ通う。そして、必ずや龍を淵より招き、天に昇らせてみせる」




その言葉には、いかなる反対も許さぬ、王者の決意が宿っていた。


関羽と張飛は、顔を見合わせ、兄のその揺るぎない覚悟に、深く頷くしかなかった。








その頃、劉備が焦がれる龍の眠る淵――隆中の草廬では、もう一つの運命が静かに、しかし激しく動き始めていた。




きっかけは、許都で起きた一つの悲劇だった。


徐庶の母の壮絶な死は、まず屋敷の下働きたちの間で囁かれる恐怖の噂となり、瞬く間に許都の市場へと広がった。


そして、旅の商人たちの荷と共に遠く荊州へと運ばれ、やがて情報を集める「隆中雀」の一羽の耳に入り、ついに隆中の草廬にいる諸葛孔明の元へと、一陣の凶報となって届けられたのである。




その日、雪が、降りしきっていた。


天と地の境もわからぬほどに降り積もる雪は、世界の音をすべて吸い込み、草廬の中はしんと静まり返っていた。




孔明は、文机に向かったまま身じろぎもせず、伝え聞いた友の悲劇を、降りしきる雪の向こうに、まるで己が見てきたかのように、ありありと思い描いていた。




(硯で…自らの命を…。なんと壮絶な…)




友の母の、その誇り高き覚悟に、孔明は戦慄した。


子の道を誤らせた己を許さず、曹操の非道に屈せぬ魂を示した、あまりにも気高い死。


そして、その母の血を目の当たりにした友の心が、今どれほどの闇に閉ざされているかを思った。


忠と孝の板挟みとなり、その両方を一度に失った友の絶望は、いかばかりか。




彼の脳裏に、二つの道が、鮮明な対比となって浮かび上がっていた。


これが、曹操の覇道か。人の才を欲するあまり、その心にある忠義や孝行という最も尊い絆を砕き、ただ利用できる道具として、生ける屍として支配する。まさしく、生きながら心を殺す道だ。




そして、元直が最後に見た光。利なく、力なくとも、人が徳を慕い、心が通い合う温かな輪。それこそが、一度は死んだ心すらも生き返らせ、希望を与える王者の道。


だが、なぜだ。


なぜ、友が母の血をその眼で見て、その地獄を味わわねばならなかった?




孔明の思考が、深く、冷たい淵へと沈んでいく。


その問いの矛先は、やがて、鋭く彼自身へと向けられた。



(私が…私がこの隆中に籠もり、動かなかったからではないのか。この私が、天下の形勢が見えるとうそぶきながら、安全な場所から友が駆けるのを見ていただけだからではないのか…)




そうだ、と彼の心が叫ぶ。痛みを伴う確信が、彼を貫いた。



(私が彼に、劉備という人物の可能性を語ったのだ。私の言葉が、彼の誠実な心に火をつけ、新野へと向かわせ、そして、あの非情な罠へと誘い込んでしまった。友にこの筆舌に尽くしがたい苦痛を負わせたのは、曹操の非情さだけではない。この私にも、その責めの一端がある…!)




かつてないほどの自責の念が、まるで氷の刃となって彼の全身を貫いた。


友が生きながら心を殺された。その責任は、自分にもある。



だが、その激しい痛みは、彼を打ちのめしはしなかった。


炉にくべられた鉄が、槌で打たれるたびに不純物を出し、より強靭な鋼へと変わっていくように。彼の魂の奥底で、その痛みは、一つの鋼鉄の決意へと鍛え上げられていった。




彼は、窓の外で荒れ狂う吹雪を、まっすぐに見据えた。


その瞳には、もはや一片の迷いも、若き日の理想論もなかった。そこにあるのは、冷徹なまでの覚悟と、友への熱い想いであった。




(元直…許せとは言わぬ。だが、君のその痛み、君の母君の涙、決して無駄にはせぬ。君が生きながら殺されたその心を、私が必ずや、この天下に生き返らせてみせる)


(君が信じた『王者の道』を、私がこの手で拓く。それこそが、友である私にできる、唯一の、そして絶対の償いだ)




龍は、目を開ける時を知った。




それはもはや、天下国家のための計ではない。


友の涙に報いるための、血の通った誓いであった。




淵を出で、天に昇る時が、来た。




新野の劉備が友の書簡を手に固めた決意と、隆中の孔明が友の悲報を胸に立てた誓い。


二人はまだ、互いの存在の重さを知らぬまま、降りしきる雪の中で、同じ未来を見据えていた。





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