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第十一話  呼び水






季節が一つ、巡った。


許都の屋敷は、相変わらず静かだった。


曹操は、徐庶に破格の禄を与えたが、何の役目も命じなかった。


それは、獲物をいたぶるような悪意か、あるいは、才ある者への最後の慈悲だったのか。




徐庶は、そのどちらでもいいと思っていた。


彼は、生ける屍、という言葉があることを知っていた。


そして、自分がまさしくそれになったのだと、どこか他人事のように考えていた。




母の亡骸は、曹操の「慈悲」によって手厚く葬られた。


だが、彼の魂は、あの血の染みが広がった畳の上に、母と共に埋葬されたままだ。


食事もほとんど喉を通らず、ただ無為に日々を過ごす。


そんな彼の脳裏に、繰り返し、繰り返し蘇る光景があった。




それは、許都へ向かう直前の、新野での別れの場面だった。




――その日、新野の城門は、別れを惜しむ空気で満ちていた。




「母御のことが、何より大事。それが人の道というものだ。行け、元直。そして、必ず母御を安心させて差し上げるのだ」




劉備は、そう言って彼の背中を優しく押した。


その瞳には、有能な軍師を失う痛みよりも、友の親を想う心を気遣う、温かい光だけが満ちていた。




「ですが…私は、玄徳様を…」




言葉に詰まる徐庶に、劉備は力強く頷いてみせた。




「よいのだ。お前は、また戻ってくれば。我らは、いつまでもお前を待っている」




あの時、信じて送り出してくれた主君の温かさが、今となっては、母の言葉と共に、彼の心を苛さいなむもう一つの刃となっていた。




戻る場所など、どこにもない。


忠義も、孝も、その全てを失ったのだ。




その絶望の淵で、彼はふと、隆中で別れた友の顔を思い出す。


あの、天下のすべてを見透かすような、涼やかな瞳を。




(そうだ…俺にはまだ、最後に果たさねばならぬ義理がある…)




それは、劉備への、そして亡き母への、唯一にして最後の「孝」と「忠」の形であった。


彼は、まるで錆びついた体を動かすように、おぼつかない足取りで文机に向かった。


埃をかぶった文箱を、久しぶりに開ける。愛用していた筆や硯が、静かに眠っていた。


彼は、まるで大切な人の亡骸に触れるかのように、おそるおそる硯に水を注ぎ、墨を磨り始めた。




心が死んでから、初めての行為だった。


ゴリ、ゴリ、という不器用な音だけが、静まり返った部屋に重く響く。




やがて、彼は震える手で筆を握った。




宛先は、ただ一人。


最後に仕えるはずだった、主君へ。




『我が君、玄徳様。


ご無沙汰しております。この元直、生きてまみえる資格もございませぬ。


母を思うあまり、大義を見失い、玄徳様の大恩を踏みにじりましたこと、万死に値します。




我が母は、すでにこの世におりませぬ。


私は、不孝と不忠、二つの大罪を犯した抜け殻にございます。


なれど、このまま朽ち果てる前に、一つだけ、玄徳様にお伝えせねばならぬことがあります。




私が仕官する以前、隆中の草廬にて、天下の才と語らう日々がございました。その中に、一人の若者がおります。


名を諸葛、字を孔明。彼の師・水鏡先生は、その男を『臥龍』と呼びました。




玄徳様。私の才など、彼に比べれば、蛍の光が太陽の輝きに劣るがごとし。古の張良、陳平も、彼には及ばないでしょう。


彼を得れば、漢室の復興は成り、天下の民は安寧を得ましょう。




されど、臥龍は自ら動くことはありませぬ。


求めるべきは、竜の眠る淵へ、主君自らが赴くほどの礼と、誠意にございます。




これこそが、この元直が玄徳様に果たせる、唯一にして最後の御奉公。


我が友、孔明を、そして天下万民を、何卒よろしくお願い申し上げます。


これにて、筆を置きます。再びお目にかかる日は、永遠にございません。


                            徐庶元直』




書き終えた徐庶は、まるで全身全霊を使い果たしたかのように、その場に崩れるように座り込んだ。




彼は、信頼できる者を呼び、その一通の書簡を「新野の劉備玄徳様へ」と、静かに託した。




使者を見送った後、徐庶は縁側に座り、久しぶりに空を見上げた。


空は、どこまでも青かった。




彼の死んでいたはずの瞳に、ごくわずかだが、何かを成し遂げた安堵の光が宿っていた。

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