第十話 孝と忠義
許都に用意された屋敷は、曹操の権勢を示すかのように広大で、そして冷ややかだった。
だが、徐庶の心は燃えるように熱かった。
旅の疲れも、砂塵にまみれた衣も、もはやどうでもいい。
ただ逸る心を抑えきれず、彼は息せき切って長い廊下を駆け抜けた。
(母上、もう少しです。これまでの不孝、これからは曹操様のもとで身を立て、必ずや楽をさせてみせますから。まずは、この腕で温かい汁物でも作って差し上げよう…)
彼は、そんなささやかな再会の場面を思い描き、歓喜に震える手で目的の部屋の襖に手をかけた。
病に倒れたと聞いた、最愛の母。劉備への裏切りという、胸を抉るような耐え難い痛みも、母の穏やかな顔を見ればきっと癒される。
彼は、そう信じて疑わなかった。
「母上! ただいま戻りました!」
勢いよく襖を開ける。
その先に、一人の老婆が凛として座していた。
確かにやつれてはいるが、その背筋は竹のように真っ直ぐに伸びている。
紛れもなく、徐庶の母であった。
「おお、母上! ご無事で…!」
安堵と喜びが一度に押し寄せ、彼は母のもとへ駆け寄ろうとした。
しかし、その足は母の次の言葉によって、床に縫い付けられたかのように凍りついた。
「…なぜ、あなたがここにいるのです」
声は、冬の井戸水のように冷たく、澄み切っていた。
だがその言葉を紡ぐ一瞬、彼女の瞳の奥に、息子を案じる母としての哀しみが、星の瞬きのように一瞬だけよぎったのを、徐庶は見逃さなかった。
しかし、その光はすぐに、燃えるような静かな怒りの炎に呑み込まれていった。そこには、再会を喜ぶ響きなど微塵もない。
あるのは、深い失望と、それすら焼き尽くすほどの、絶対的な拒絶だった。
「な、何を…? 母上が病と聞き、いてもたってもいられず、曹操様のお招きに応じて参ったのです」
「病? 私がいつ、そのような文を送りましたか」
母は、息子の愚直さを憐れむように、深く、そして長い溜息をついた。
「まんまと、曹操の罠にはまりましたね」
徐庶はその時初めて、自分が握りしめてきた母からの手紙が、寸分違わぬ筆跡で書かれた、悪意に満ちた偽物であったことを悟った。
だが、母の怒りは、卑劣な罠を仕掛けた曹操ではなく、その罠に愚かにもかかった息子一人に向けられていた。
彼女は言葉を続ける代わりに、すっくと立ち上がった。
そして、傍らにあった杖を手に取った。
徐庶は身を硬くする。
だが、その一撃は彼自身には向かわなかった。
母は、彼が立っている畳の、その足元を、まるでそこに落ちた汚れた埃を払うかのように、軽く、しかし侮蔑の限りを込めて一打ちした。
その視線は、決して息子と合おうとはしない。
「お前は! 私一人のために、天下万民の希望となり得た劉備玄徳様を裏切ったのですか!」
杖で床が、とん、と強く叩かれる。
その乾いた音が、徐庶の心臓を直接打った。
「私の息子は、そのような小事に心を動かされ、大義を見失うような、つまらぬ男だったのですか! 劉備様のもとで忠義を尽くし、その名を天下に轟かせることこそが、老いたこの母にとって何よりの孝行だったというのに。……その道理すら、お前には分からなかったのですね」
母の言葉一つ一つが、鋭い刃となって徐庶の胸に突き刺さり、内側から抉っていく。
「申し訳…ございません…」
もはや、言葉にならなかった。徐庶が床に両手をつき、嗚咽おえつを漏らす。
母は、そんな息子の姿を、氷のような、しかしどこか憐れむような一瞥をくれると、静かに立ち上がった。
そして、二人の間を仕切るように、部屋の薄紙を貼った隔扇を、すっと引いた。
閉められた隔扇の向こう側で、燭台の灯りがぼんやりと揺れている。
母の姿は、影絵となって薄紙の上に映し出されていた。
それはまるで、この世ならざる悲劇を見せる、不吉な芝居の幕開けのようだった。
影が、ゆっくりと何かを持ち上げる。
文机の上の、硯すずりだろうか。
やがて、隔扇の向こうから、くぐもった、しかし決然とした声が聞こえた。
「お前の汚名を、母である私が、この命で雪いでやります!」
やめろ、と叫ぼうとしたが、声が出ない。体が動かない。
徐庶は、ただ、目の前の紙の上で繰り広げられる、悪夢のような影絵に釘付けになっていた。
次の瞬間、持ち上げられていた影が、勢いよく振り下ろされる。
ごっ。
骨が砕ける、鈍く湿った音が、薄紙を隔ててもなお、はっきりと耳に届いた。
影が、糸の切れた人形のように、ゆっくりと傾き、やがて紙の上から消える。
「あ……」
時間が止まった。
思考が止まった。
ただ、目の前の、母の影が消えた白い隔扇だけが、現実とは思えないほど静かにそこにある。
世界から、音が消えた。
ただ、目の前の白い隔扇だけが、まるで生きているかのように彼の網膜に焼き付いている。
それは、現実と悪夢を隔てる、一枚の薄い膜だった。
自分のものとは思えないほど重い腕が、意思とは無関係に持ち上がる。
震える指先が、その膜に触れる。
破ってしまえば、もう二度と元には戻れない。
それでも、確かめねばならなかった。
彼は、自ら地獄の蓋を開けるように、ゆっくりとその隔扇を引いた。
隔扇の向こう側には、燭台の揺れる光に照らされた、おびただしい赤と、静かに横たわる母の姿があった。
「母上っ!あああぁぁぁ…!」
慟哭の叫びが、ようやく彼の喉を突き破って、静まり返った屋敷に響き渡る。
その言葉にならない叫び声は、やがて力を失い、ただただ重い沈黙だけが、母子の断絶された世界に満ちていった。
最初に畳に落ちた墨の一滴は、今や、彼の生涯をかけても拭い去ることのできない、血の色に染められていった。