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第九話   単福、初陣



隆中で友と別れた徐庶の足は、迷いなく新野へと向いていた。


道中、彼は自らに一つの名を課した。




「単福」と。




諸葛孔明という稀代の才を持つ友の名を、己の都合で軽々しく売ることはできない。


そして何より、この乱世で自分がどこまで通用するのか、何の後ろ盾もない一個の人間として試してみたかった。


福は一つでいい。




この身一つで、民にささやかな福をもたらせるならば、それで。




新野の城門で、彼は劉備への面会を求めた。




通された先で見た劉備は、噂に聞く通りの大きな耳と長い腕を持ち、しかし何より、その瞳が尋常ならざる光を宿していた。


その光は人の苦しみを我がことのように憂い、利なくして人を信じようとする、澄み切った光だった。




「単福と申されるか。いかなる御用かな」




柔らかな物腰の劉備の隣には、美髯の将・関羽が威厳をもって座し、その背後には、虎のような眼光の張飛が腕を組んで立っている。値踏みするような視線が突き刺さる。




「わたくしは、ただの流浪の士にございます。なれど、玄徳様が仁徳の君主であると聞き、そのお力になりたいと馳せ参じました。軍の末席にでも加えていただければ幸い」




「ふん、この乱世に、そんな甘い言葉を弄する輩はごまんといるぞ」




張飛の野太い声が飛ぶ。


だが、劉備はそれを手で制し、あえて試すように尋ねた。




「単福殿。あなたの目には、今の我らがどう映るかな。ありのままをお聞かせ願いたい」




それは、軍師としての資質を問う、実質的な試験であった。


単福は臆することなく、静かに答えた。




「率直に申し上げます。玄徳様は、仁徳の光あまりに強く、影もまた濃い。そのお人柄を慕って、関羽、張飛、趙雲といった万夫不当の豪傑たちが集う。しかし、拠って立つ新野はあまりに小さく、曹操にとっては目障りなとげ、いつ抜かれてもおかしくない危うい状況にございます」




そこまでは、誰もが分かっていることだった。


だが、単福の言葉はそこで終わらない。




「しかし…荊州の主・劉表殿は、ご自身の後継を決めかねておられる。その息子たちは互いに牽制しあい、家臣団も二つに割れている。この巨大な荊州が、熟して落ちるのを待つ果実であることに、気づくべきです。玄徳様が今なすべきは、新野の民の心を得て仁徳の名声を不動のものとし、来るべき荊州の混乱に備え、静かに力を蓄えること。それこそが、天下への道に繋がる唯一の活路かと」




それは、隆中で友が語った「天下三分の計」の、ほんの入り口に過ぎない。だが、その大局観の広さと的確な現状分析に、劉備は息を呑んだ。


隣の関羽も、訝しんでいた目を改め、驚きを隠せない。




劉備は、椅子から立ち上がると、単福の前に進み出た。




「……見事だ。あなたこそ、私が長年探し求めていた『光』を指し示してくれる方やもしれぬ。どうか、我が軍の軍師として、その知恵を貸してはいただけぬか」




「兄者!?」




驚く弟たちを顧みず、劉備は深く頭を下げた。




劉備は、話す前からすでに単福の風貌と、その奥に隠された鋼のような意志、そして何より、その瞳の底にある誠実さを見抜いていたのだ。




徐庶…いや、単福は、この主君のために命を懸けようと、静かに、しかし固く心に誓った。




その信頼に応える機会は、あまりにも早く訪れた。




曹操軍の猛将・曹仁が、五万の精兵を率いて新野に迫り、城外に「八門金鎖の陣」を敷いたのだ。


城壁の上からその陣を眺めた劉備軍の将兵は、言葉を失った。生・傷・休・杜・景・死・驚・開の八門を複雑に組み合わせ、無数の兵士たちが一つの巨大な生き物のように統率されている。




それはもはや軍隊ではなく、人を喰らうための巨大な罠、鉄の迷宮であった。




軍議の席は、重い沈黙に支配されていた。


「……これほどの堅陣は、見たことがない」


冷静な関羽ですら、長く美しい髯をしごきながら唸る。


歴戦の勇者である張飛は、やり場のない怒りを拳に込めて机を叩いた。




「兄者、まるで亀の甲羅だ! どこから手を付けていいか分からねえ! いっそ俺が、ど真ん中に風穴を開けてやる!」




「ならん、益徳。それは無謀というものだ」




劉備が力なく制する。


誰もがその威容に有効な手立てを見いだせず、ただ時間だけが過ぎていく。焦りと諦めが、濃い影のように広間を覆い尽くそうとした、その時だった。




「――ご心配には及びませぬ、玄徳様」




静かな声と共に、単福が広間に入ってきた。


彼は丘の上から半日、敵陣を眺めていたのだ。




皆の視線が、新参の軍師に集まる。




彼はこともなげに言い放った。




「この陣、一見すれば複雑怪奇。なれど、所詮は人が作りしもの。理を解けば、赤子の手をひねるより容易い。八門のうち、生・景・開の三門より入れば、陣は内側から崩せます」




「なんと…」




「趙雲将軍に精兵五百を預け、東南の生門より突入していただきたい。将軍が中央で暴れている間に、必ずや陣形に乱れが生じましょう。その機を逃さず、関羽将軍は開門より、張飛将軍は景門より側面を強襲。三方からの攻めに、この陣は自ずと崩壊いたします」




その淀みない説明に、絶望の淵にあった将たちの目に、再び闘志の火が灯った。




その言葉通りだった。




趙雲の白銀の槍が、竜が天を衝くが如く、陣の一角を突き崩す。


その一点の綻びは、たちまち洪水となって陣の内部へと流れ込んだ。




秩序は崩壊し、統率を失った曹仁軍の兵士たちは、ただ混乱し、逃げ惑うばかり。劉備軍のときの声が、新野の空にこだまする。


劣勢だったはずの兵たちが、まるで生まれ変わったかのように曹仁軍を圧倒していく。




丘の上で、単福はそのすべてを見つめていた。


彼の目は、個々の兵の勇猛さや戦術の成否ではない。


ただ一点、曹仁軍の本陣に立つ、巨大な大将旗の動きだけを追っていた。




風が吹き、一瞬、それまで風に逆らって猛々しくはためいていた旗が、くるりと裏返る。そして、風下へと力なく垂れ下がった。


その刹那、敵陣の太鼓の音が、ほんの一拍早く止んだ。




それは、指揮官の心が折れた音だった。


——勝ちの瞬間であった。




「単福、八門金鎖を破る」。




その名は輝かしい勝利と共に、瞬く間に天下に広まった。


そして、許都にいる曹操の耳にも、看過できぬ凶報として届いた。




「劉備に、あれほどの軍師がついた、だと…? 曹仁の八門金鎖を破るなど、尋常の才ではない。いったい何者だ!」




玉座で、曹操は苛立たしげに竹簡を床に叩きつけた。


居並ぶ謀臣たちは、主君の怒りに触れぬよう、ただ息を殺している。




「仲徳! 程昱はおるか!」




「はっ」




呼ばれた策士・程昱は、無数の竹簡が山と積まれた自室で、静かに筆を走らせていた。


彼はこの数日、単福という男の来歴を、あらゆる経路を使って徹底的に調べ上げていたのだ。


各地の隠士の名、放浪する学者の噂、そのすべてを洗い出し、一つの可能性にたどり着く。




彼は筆を置くと、曹操の前に進み出た。


顔は上げず、ただ爬虫類のように冷たい目だけで、主君を見る。




「……孝を突きまする。その男の正体は、おそらく潁川えいせんの徐庶。至っての孝行者にて、荊州に年老いた母がおります」




その一言に、罠のすべてが込められていた。


曹操は一瞬、その策のあまりの非情さに眉をひそめたが、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。




「……面白い。仲徳、すぐに手配せよ。その母親、丁重に“保護”してやれ。我が許都にて、手厚くもてなすのだ。息子が会いたくなるほど、な」




非情にして、最も効果的な一手を、二人は共有したのである。




数日後。


新野が勝利の喜びに沸く中、徐庶のもとに、一通の文が届けられた。


許都からの使者だという。


差出人の名はない。


だが、封蝋ふうろうに刻まれた竜の紋様は、彼が知るものではなかった。




訝あやしみながら、彼は封蝋を割った。


ひやりとした冬の空気が、彼の指先に触れた気がした。




中にあったのは、見慣れた、しかし今は見るはずのない、老いた母の筆跡であった...



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