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序章






天は、声なくして万物を覆う。

地は、語らずして万物を載せる。

そして、乱世と呼ばれる時代には、天と地の間にあって、龍が潜むという。




建安十二年(207年)、冬。


中原では、河北を平定した曹操が天下の覇権をその手に収めんと、さらなる南征を窺っていた。


江東では、若き孫権が父兄の遺志を継ぎ、長江を天険の守りとして国を固める。世の英雄たちが武力と策略の限りを尽くし、民の血と涙を大地に吸わせながら、明日をも知れぬ覇を競い合っていた。




その喧騒がまるで嘘であるかのように、荊州襄陽の西、隆中の臥龍岡がりょうこうは、深い雪に閉ざされた静寂の内にあった。




一軒の質素な草廬。


その中で、一人の青年が静かに火鉢へ手をかざしていた。


年の頃は二十代半ば。


眉は秀麗にして、その瞳は夜の湖のように深く、底知れぬ思慮を湛えている。名を、諸葛亮。字を、孔明。




近隣の者たちは、彼を「臥龍がりゅう」、すなわち、いまだ天に昇らぬ龍と呼んでいた。


彼の前には、一枚の粗末な地図が広げられている。


だが、その瞳が追っているのは、描かれた城や河川ではない。

地図の上にはない無数の人々の『思惑』『恐れ』『希望』……それらが複雑に絡み合い、時代を形作る巨大な『流れ』そのものを、彼は静かに視ていた。




脳裏をよぎるのは、遠い日の父の言葉。




ーー力で人を従わせる者を『覇者』と呼ぶ。だが、徳で人が自ずと集まってくる者を『王者』と呼ぶのだ。ーー




「父上…」




誰に言うともなく、青年はかすかに唇を動かした。




「この世は今、数多の覇者で満ちております。彼らの掲げる旗は、いずれも民の血で赤く染まっている。この凍てつく大地に、王者の徳を宿す器は、果たして存在するのでしょうか」




問いは、吐息と共に白く凍り、虚空に消えた。




この絶対的な静けさが、時に孤独という名の刃となって、鋭く胸を刺す。


だが――。


答えを外に求めるのではない。


答えは自らが見出し、創り出すものだと、彼は知っていた。

だからこそ、動かなかった。




父が遺したもう一つの教えが、彼の衝動を常に戒めていたからだ。




ーー嵐の時には、むやみに動き回る者から倒れていく。太い幹を持つ大樹のように、あるいは深く根を張る草のように、じっと耐え、天の時を待つのだ。ーー




父の死、叔父との流浪、書物の中に没頭した日々。

己がこれまで深く、深く下ろしてきた「根」が、今、何を掴もうとしているのか。




その時。




しんしんと降り積もる雪の音に混じり、微かに、しかし確かに、複数の足音が雪を踏みしめる音が彼の耳に届いた。




それは、この草廬を目指して、坂を登ってくる者の気配だった。


青年はゆっくりと顔を上げ、戸口の方へ視線を移す。


その深く静かな瞳に、初めて、一条の光が宿った。




「……風が、吹いてきたか」




それは、歴史という名の巨人が、眠れる龍の扉を叩く音。




後漢末期の混沌の世が、一人の男の知性を、天下万民のために求め始めた、




その始まりの音であった.....

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