八話 国王との約束
アンネリーエが、王立エルンスト学園に来た理由は二つある。
一つ、第一王子と第二王子を護衛するため。
二つ、第一王子を王にするため。
アンネリーエはそれを国王から正式に託されていた。王国の未来を背負う二人の王子。もし学園で何かが起きれば、それは単なる学生同士の事件では済まない。王家の権威が揺らぎ、国家そのものの安定を損なう危険に直結する。
そのためにアンネリーエは、公爵令嬢としての権威と、冷徹な観察眼を武器に日々を過ごしていた。
しかし、ここ数日の出来事──資料室の明かり、書類の齟齬、そしてエルメンヒルデとの遭遇。それらはアンネリーエと、クロイツェル公爵が予期していた「不穏」の兆しを、よりはっきりと形にしていた。
(誰かが、意図的に揺らぎを作っている)
それは単なる悪戯や失態ではない。もっと深く、もっと組織的な力が働いている気配だった。
アンネリーエがレオンハルトの婚約者でありながら、第一王子も護衛しなければならないのかと言うと、これには国王陛下が関係してくる。
国王は、第一王子を、次の国王にしたいと思っている。だが、第二王子派の勢力が思ったよりも強い。そして、レオンハルトにはアンネリーエ・ローエ・クロイツェルと言うクロイツェル公爵家の婚約者がいる。これほど面倒なことはないだろう。
だが、王族にさほど興味のないアンネリーエは、国王を味方につけておいたら安心だと、国王に直々に会いに行き、こう伝えた。
『ならば、私が第一王子殿下と第二王子殿下を護衛すると言う旨で、第一王子が王になるようさりげなく誘導すると言うのはどうでしょう』
最悪、アンネリーエがレオンハルトとの婚約を破棄してアルベルトと婚約を結ぶと言う手もある。と言うか、もう国王はその未来になることを予期している。なので、アンネリーエの進言はさらっと承諾された。
ある日、授業が終わったあと、アンネリーエはアデリナと並んで廊下を歩いていた。いつもと変わらぬ日常音はずだが、アンネリーエには多くの悩みごとがあった。
「アンネリーエ、顔色悪いよ?」
「そう見える?」
「うん。きっと寝不足でしょ」
「……そうね」
確かに、昨夜はほとんど眠っていなかった。エルメンヒルデの言葉を反芻し、資料室の前で聞いた音を思い返し、記録を整理しているうちに夜が明けてしまったのだ。
「アデリナ。もし、学園で大きな騒ぎが起きるとしたら……あなたはどうする?」
「え? 私は……どうもしないよ。できることなんて、たかが知れてるもの」
「そう」
公爵令嬢に、第二王子レオンハルトの婚約者。アンネリーエが最も避けたい「責務」の重ね合わせだ。だが、その重みから逃げるつもりもない。
アンネリーエは、守らなければならない。王家を。学園の秩序を。そして、なによりも「未来」を。
昼休み。食堂に入ると、広い空間はすでに賑わいに包まれていた。パンとスープの香り、銀食器の触れ合う音。
「今日は人が少ないし、ここで食べましょうか」
「そうだね」
アンネリーエはトレーを手に、空いている席を探す。すると、視界の端でレオンハルトが大声で笑っているのが見えた。取り巻きの男子たちと騒ぎ、堂々と中央に陣取っている。
その対照的に、アルベルトは窓際に座り、書類を手に読んでいた。食事を忘れているかのように眉間に皺を寄せている。
(まったく……)
アンネリーエはアルベルトの隣に歩み寄った。アルベルトは顔を上げると、すぐに小さく笑んだ。
「クロイツェル嬢か。助かる。ちょうど君に見せたい資料があるんだ」
「殿下は食事よりも仕事ですか」
「君も似たようなものだろう?」
「否定はしません」
トレーを置きながら、アンネリーエは資料に目を落とした。そこには、生徒会の活動報告に紛れ込んだ奇妙な誤字脱字があった。一見すれば些細な記録ミス。しかし、よく見れば「一定の規則性」を持っていることがわかる。数字のズレ、名前の転倒、文言の入れ替え……それらが一種の暗号のように散りばめられていた。
「やはり、誰かが仕組んでいるのですね」
「そう見えるね。だが、目的がわからない」
「混乱を生むためか……もしくは……」
「それ以上は言わなくていいよ」
「はい」
アルベルトは唇に手を当てて考え込んだ。なかなか絵になる。
(うーん、王家の中では一番か)
輝く金髪に、碧玉の瞳。世間ではこれを美男子と言う。
「クロイツェル嬢。君はどう見る?」
「まだ断定はできません。ただ、偶然ではない。それだけは確かです」
二人が言葉を交わすその様子を、遠くから見つめる影があった。赤いリボンを揺らし、鋭い視線でアンネリーエとアルベルトのやり取りを観察しているエルメンヒルデだ。エルメンヒルデの横には、同じく三年生の友人らしき少女が立っていたが、すぐに気づいても目を逸らすことはなかった。
(ラインヴェーヴァー侯爵令嬢……あなたも、この「齟齬」の一端に触れているはず)
アンネリーエは視線を合わせぬまま、冷たいスープを口に運んだ。緊張感は表に出さない。それこそが、公爵令嬢としての盾であり剣なのだから。
夕刻。授業が終わった後、校舎の外に出ると、風が少し冷たくなっていた。アンネリーエはカバンを抱え、寮までの道を歩く。だが、その途中で、不意に声をかけられた。
「クロイツェル嬢」
振り向くと、そこにいたのはリーゼロッテ・ローレ・アーベライン。二年生の伯爵家の令嬢だ。アーベライン伯爵家は、クロイツェル公爵家の懇意である。
「アーベライン伯爵令嬢……」
「驚かせました?」
「いいえ、大丈夫よ」
「ならよかった。一緒に歩きません?」
アンネリーエは、特にやることもないので頷いた。アンネリーエとリーゼロッテは並んで石畳を歩き出す。リーゼロッテの足取りは軽やかで、声には遊びが混じっている。だが、その瞳の奥は、冗談を言うには冷静すぎた。
「お聞きいたしましたわ。資料室の噂」
「……あなたも知っているの」
「ええ。実はね、あそこには生徒会の記録簿以上のものが隠されているのです。王国の、とても古い……秘密が」
アンネリーエは目を細めた。風が頬をかすめる。リーゼロッテはさらりと言葉を続けた。
「クロイツェル嬢。あなた、本当に深入りするつもり? もしそうなら、あたくしも協力いたしますわ」
その提案の裏に、どんな意図が潜んでいるのか。人の心に疎いアンネリーエにはまだ読みきれなかった。ただ一つ確かなのは、学園に渦巻く「影」は、もはや一人で抱えきれるものではないということだった。




