六話 圧倒
アルベルトはしばらく黙ったまま、アンネリーエを見つめていた。アルベルトの手は、机の上の報告書に軽く触れる。文字や数字の正確さを重視するアンネリーエに対して、自分の心が動揺していることに気づいても、声には出せない。
「……君は、驚くほど正確だね」
「正確であることは、無駄な混乱を防ぐ最低限の義務です」
アンネリーエはそう返し、目をそらすことなく、机の上の数値を一つ一つ確認する。その冷静さが、逆にアルベルトの胸に微かな緊張をもたらした。
「このずれ、すぐに訂正しておくべきだね」
「はい。放置すれば、信頼に影響します」
アンネリーエは淡々と答える。声に感情はなかった。だが、微かな呼吸の変化、指先の動き、机上の紙の整理の仕方──すべてが、アンネリーエの内面の正確な判断を映している。
「君は……他人に干渉されず、自分の秩序だけを信じるタイプだね」
「……干渉は、混乱を生むだけです」
アルベルトは苦笑いを漏らす。誰もが感情で動く世界の中で、事実だけを見極めるアンネリーエの存在は、異質で、同時に頼もしい。
しばらくの沈黙。外の光は、すでに窓枠の端に届かず、校舎の影が長く伸びる。アルベルトは最後に報告書を折りたたむと、微かに視線を上げて言った。
「……君がいると、生徒会は確実だ」
「もったいなきお言葉です」と言って、アンネリーエは生徒会室から出ていった。
その言葉に、アルベルトは何も返せなかった。ただ静かに頷き、机上の秩序を確認する。
窓の外の風が、木々の葉を揺らす。光は薄れ、校舎に夜の気配が差し込む。
––––まったく、なんてかっこいい令嬢なのだろうか。
アルベルトは息を詰める。美貌と冷静さに惹かれた自分を一瞬誇らしく思ったのも束の間、言葉のひとつひとつが胸に刺さる。
––––これは、ほぼ失恋に近い。いや、正確には失恋どころではない。アンネリーエにはレオンハルトがいる。しかも、自分の影響が届かぬ領域にいる。
たくさんの令嬢を惚れさせてきた口説き文句も、どんな好意も、アンネリーエの秩序と無愛想さには届かないだろう。
そしてアルベルトは、深く息を吐き、机上の書類に目を戻すしかなかった。アンネリーエの美しさと強さに、ただ圧倒されるばかりだった。
アルベルトは机に置かれた書類を手に取りながらも、視線は無意識にアンネリーエがまとめてくれた手帳に注がれた。
窓から差し込む夕陽の光が、アンネリーエの黒髪の髪を柔らかく照らす……。あの光景は、まるで時間を止めたかのように凛としていた。アンネリーエの背筋は真っ直ぐで、微動だにせず、ただ事実を見極め、秩序を守る──その姿勢だけで、アルベルトの心臓は少しだけ早鐘を打った。
「いや……これはいけない。冷静で、正確で、しかも……美しいなんて、あまりにも罪深い」と心の中で呟く。誰もが一度は見惚れる外見を持ちながら、アンネリーエの内面はさらに強固な秩序と理性に支えられている。アルベルトは自分の思考を必死に押さえ込もうとした。ここで感情を露わにすれば、生徒会の仕事に影響しかねない。しかし、胸の奥のざわめきは抑えきれない。
「どうして、私はこんなにも……」
目の前にある報告書の数字は、確かに訂正が必要だ。だが、今アルベルトの注意は数字そのものではなく、アンネリーエの存在そのものに引き寄せられている。美貌に一目惚れしたと自覚する自分に、恥ずかしさと困惑が混ざる。
そして、もう一つの感情が重なる。失恋に似た感覚──いや、これは失恋を超えたものかもしれない。アンネリーエにはレオンハルトという婚約者がいる。アルベルトがどれだけ魅力的に振る舞っても、どれだけアンネリーエの秩序や冷静さを尊重しても、届くことのない距離がある。言葉で、笑顔で、好意で──何一つ、アンネリーエの世界に影響を与えることはできない。それを痛感するたび、胸の奥が冷たく沈むようだった。
「私は……ただ、クロイツェル嬢を庇える立場でもないのに」
生徒会としての責務を思い出す。齟齬を正す、秩序を守る──それが今、自分にできる最大の行動だ。個人的な想いは差し置き、アンネリーエの秩序を守るために手を動かすしかない。しかし、その行為さえも、心のどこかではアンネリーエを近くに感じる口実に過ぎないように思えた。
アルベルトは深く息を吸い、静かに吐く。手元の書類を整えながら、頭の中で計算を始める──アンネリーエが見落とさないように、齟齬をどの順番で正すべきか。数字を一つずつ確認し、可能な限り効率的に訂正する。だが、そのすべての動作が、心の中のざわめきを鎮めるには至らなかった。
「負けか」
アンネリーエは、ただ座って事実を見極め、秩序を守る。それだけで、アンネリーエの世界に入る余地はない。美貌、冷静さ、正確さ──全てが壁となり、アルベルトを遮る。自分の思いを伝えることすら、許されない領域にいる。恋愛ではなく、単純な信頼の対象としてアンネリーエを尊重するしかない。
目の前で微かに髪が揺れるのを思い出すたび、アルベルトは心の奥で微笑みをこらえる。どれだけ近づきたいと思っても、アンネリーエの秩序には触れられない。だからこそ、彼はその秩序を守るための行動に専念する──数字を訂正し、記録を整え、齟齬を修正する。それは、アンネリーエに対する唯一の「干渉しない愛」なのだと、自分に言い聞かせる。
窓の外はすでに暗くなり、校舎の影は長く伸びている。風が木々を揺らすたび、夕陽の赤は消え、夜の青に溶けていく。アルベルトは机の上の書類を整え、深く息をついた。そして心の奥で、静かに誓った。
「……私は、クロイツェル嬢の秩序を乱さない範囲で、全力を尽くそう」
それ以上の想いは、今の自分には必要ない。届かぬ恋に心を費やすより、アンネリーエの信頼を守ることが、自分に課せられた義務だ。アルベルトは視線を机に戻し、整えられた書類をじっと見つめる。
どうやら、アンネリーエのおかげで、この学園は変わりそうだ。
「殿下! 夜遅くまでなにをしているのですか!」
「……オスヴァルト」
「来るのが意外だった、みたいな顔しないでください! もうすぐ消灯時間ですよ」
「それはまずいね。急ごうか」
「そうです、早くしてください!」
ここ数日間は、ずっとアンネリーエのことで頭がいっぱいになりそうだと感じながら、廊下を走った。
男子寮の自室に戻ると、扉を静かに閉め、夜の静寂が広がる中で一息つく。机に腰を下ろし、生徒会室での出来事を反芻する。アンネリーエの正確さ、冷静さ、美貌──そのすべてが、胸の奥で渦を巻き、整理しきれない感情を呼び起こす。
机の上の書類に目を落とす。訂正された数字の列を追いながら、秩序を守ったという満足感と、届かぬ想いのもどかしさが同時に押し寄せる。深く息をつき、胸のざわめきを鎮めようとする。アンネリーエには、手が届かない。理解しているのに、心の揺れは消えない。
椅子にもたれかかり、深く息を吸い、吐く。心の中の複雑な感情を整理する術はない。だが、役割は明確だ。アンネリーエの秩序と信頼を守ること。それ以上でも、それ以下でもない。
書類に目を戻し、整然と並んだ数字を確認するたび、少しずつ心が落ち着いていく。届かぬ恋の痛みと、守るべき信頼の責務––––その二つを胸に抱きつつ、夜は静かに更けていく。
ああそうだ。
忘れていた。
アルベルト・フォン・ヴァルトシュタインは王子なのだ。
失恋に浸っている時間はない。早く、この学校内から婚約者を見つけて、王にならなければ。
深く息を吸い、胸のざわめきを押さえつつ、アルベルトは布団に横たわった。




