五話 微かな齟齬
昼下がりの鐘の音が、校舎の隅々に広がっていった。授業の終わりを告げる音。生徒たちは一斉に席を立ち、教室を出ていく。足音と声と笑い声が混ざり合い、廊下を満たす。
今日は、アデリナはお茶会があるとかなんとかでアンネリーエとは一緒にいない。アンネリーエも一緒に来ないかと言われたが、お茶会は好きではない。
アンネリーエは机に残り、教科書を閉じた。書き込みのないノートを一度めくり、確かめ、静かに鞄へ収める。手順は滞りなく。必要なものを確認し、動作は一定の速度を保つ。
窓の外、青空には雲がほとんどなく、光は強く真っ直ぐに差し込んでいた。木々の葉の揺れ方、校庭を駆ける生徒の動き、遠くの部活動の掛け声。すべてはただの情報。色も意味もつかない。
鞄を肩に掛け、教室を出た瞬間だった。
廊下の端、掲示板に貼られた一枚の紙が目に入る。行事予定の追加。そこに記された数字が、頭の中の記録とずれていた。一度通り過ぎる。二歩、三歩。だが、事実は消えない。違いは違いとして存在する。
アンネリーエは足を止め、振り返った。掲示板に近づき、文字列を読む。日付、時刻、場所、担当名──正確に読み取る。
そして、淡々と結論に至る。
「……齟齬」
どちらが正しいのだろう。
日付が一日ずれている。時間も、三十分だけ後ろにずれていた。教室で配布された行事予定とは明らかに異なる。どちらかが誤りで、どちらかが正しい。問題は、それを見逃したまま行事の日を迎えれば混乱が起きるということだ。
アンネリーエは鞄を肩から外し、もう一度ノートを取り出した。先日まとめた予定表の写しを開く。行ごとに視線を走らせ、数字を照合する。記録は正確に残してある。そこに記された数値と掲示板の内容は確かに異なっていた。
淡々とした作業。だが、事実は一つだけではない。
通りすがりの生徒たちは、ただ紙を一瞥して足早に去っていく。誰も違いに気づいてはいない。あるいは、気づいても気に留めない。三十分の違いなど取るに足らないと思うのだろう。だが、アンネリーエにとって誤りは誤りだった。小さな乱れは、必ず別の乱れを呼び込む。
視線を落としたまま、アンネリーエは小さく息を吐いた。
「……生徒会室」
行き先を決め、歩き出す。
◇◆◇
夕方の生徒会室はまだ明るく、窓から差し込む光が机の上を照らしていた。アルベルトがすでに席に着き、書類をめくっていた。ペン先が紙を叩く音が規則的に響く。
「クロイツェル嬢?」
アンネリーエが入ってくるのに気づくと、アルベルトが顔を上げた。
「掲示板の行事予定、確認しましたか」
「いや、まだだ。何かあったのかい?」
「齟齬があります。配布資料と内容が一致していません」
アンネリーエは鞄からノートを取り出し、掲示板の内容を書き写した紙片を横に置く。二つを並べれば一目でわかる。アルベルトは眉をひそめ、すぐにペンを取った。
「確かに……日付が一日ずれているな。時間も違う」
「原因は不明です。ですが、これは一例に過ぎない可能性があります」
「一例?」
「小さなずれが、他にも潜んでいるかもしれません」
アンネリーエの声は淡々としていた。だが、アルベルトはその言葉に重さを感じ取ったらしい。真剣な眼差しで書類をめくり、数値を追い始める。
アンネリーエは無言のまま机の端に積まれた資料を手に取った。会計報告、行事申請、予算案──どれも整然と並んでいる。だが、アンネリーエの視線はその整然さを突き抜け、内部に潜む「ずれ」を探し出す。
公爵家は、失敗を許さない。
アーデルハイトは、齟齬を許さない。
アンネリーエが育ってきた環境が、そう言う環境だったのだ。
十枚目の紙をめくったとき、数字の並びが微かに崩れていた。
「……ここもです」
指先で示された欄には、合計と内訳がわずかに食い違っていた。合計は正しい。だが、内訳の数字が一桁だけずれている。誰も気づかない程度の誤り。
「本当だね。まるで気づかせないように隠されたみたいだ」
「隠したかどうかはわかりません。ですが、誤りが連続するのは危険です」
その後も二人で確認を続けると、次々に小さな乱れが見つかった。提出期限の記載が一日遅れているもの、記録者の署名が抜け落ちているもの、承認印が押されていないもの。誤りは一枚ごとに散らばっており、まるで意図的に配置されたかのように見えた。
アルベルトが大きく息を吐いた。
「クロイツェル嬢、これは……ただの不注意の積み重ねとは思えないな」
「同感です」
「もし故意だとしたら、生徒会の管理そのものが狙われている可能性がある」
「……事実だけを言えば、誤りが多数存在している。それだけです。あと、これは全て数字。会計の仕事ですよね」
「そうだね」
「なにもしないままにしていれば、誰の評判が一番落ちるでしょうか」
ふむ、とアルベルトは顎に手を当てる。
「まず考えられるのはオスヴァルトだね」
「そうですね。でも、私はこう考えました」
「?」
「この責任は、会計だけではありませんよね。無論、生徒会長や副会長も問われることになる……つまり、第一王子殿下と第二王子殿下の評価を下げることに直轄する」
アンネリーエはそう言って、最後の書類を閉じた。
窓の外では、夕陽が傾き、赤い光が校庭を染めていた。影は長く伸び、校舎の壁に揺れている。日常の中に忍び込む微かな乱れ。その正体はまだ掴めない。だが、確かに存在している。
アンネリーエは胸の奥に微かなざわめきを覚えた。
それは感情ではなく、事実の認識に伴う反応に過ぎない。だが、それでも、アンネリーエは直感していた。
「一つ、不躾なことを聞いていいかい?」
「なんでしょう」
「君はレオンハルトの婚約者だ。なら、私を庇わずに、レオンハルトを庇ったらいいのではないのかい? 私がいる限り、君たちが王になれる確率は二分の一ぐらいになるだろう」
「……そうですね」
「歯切りが悪いね。どうしたんだい? 怒らないから、率直に言ってもいいよ。ここなら誰も聞いてないし」
「……失礼なことを申し上げますと、私は、権力と言うものにそこまで興味を惹かれません。確かに、お金と言うのは魅力的です。紙幣や硬貨にはいろいろな細工が施されている。でも、王家と言われると、どうしても興味が削がれてしまう」
公爵家?
王妃?
アンネリーエにとっては、どうでもいいのだ、そんなこと。
「まったくときめかないのです。公爵家かどうかはどうでもいいですが、世間一般的な女子が言う、『王族にと嫁げたら幸せね!』的な台詞がまったく理解できない」
「……」
「聡明な殿下ならお気づきになっておられることだと思いますが、私は人の感情がいまいちよくわからない。医師には心の病気だと言われましたが、カウンセリングをしてもまったくもって治らないそうです……そもそも、無愛想な女にときめく殿方はいらっしゃらないでしょうから、私はこのままで生きていきます」
一種の開き直り。
アンネリーエは、人付き合いが何よりも苦手であった。




