四話 文字に、数字に、誤りに
生徒会室は、昼間のざわめきが消え、静けさに包まれていた。窓から差し込む夕日の光が机の上に長い影を落とす。アンネリーエは書類を並べ、確認作業を進める。手を止めることなく、次々に書類をめくり、内容を整える。
机の端に置かれたペン先の影、窓の外の風で揺れる葉の動き、廊下を通る足音–––すべて事実として認識される。感情の色はつかない。判断の対象は、効率と正確さだけである。
「さて、皆揃ったね? じゃあ、生徒会会議を始めようか」
アルベルトは書類を手に取る。アンネリーエはペンを構え、メモの準備を整える。書く前に、手元の書類をもう一度確認し、議題ごとに順序を整理した。
窓の外、校庭に長く伸びる影。放課後の風が柔らかく木々を揺らす。音も香りも、ただの事実として認識される。日常の秩序の中に、わずかな乱れがあれば、それはすぐに把握される。
「まずは、来週の行事予定から。シリングス嬢、確認をお願いできる?」
アンネリーエは顔を上げず、書類のページをめくる。各行事の日時、担当、場所、必要な手続きが正確に記されている。書類を指でなぞり、情報の齟齬や漏れがないか、ヒルトラウトが読み上げた箇所を書きながら再度確認する。
作業を進めるうち、アンネリーエは各書類の関連性も把握する。予算案と行事予定の整合性、重複する作業の有無、期限の前後関係──事実だけが順序立てて認識される。どの情報が優先されるべきか、どの項目を次に確認すべきかも、自ずと手順に沿って処理される。
アーデルハイトで生徒会長をやっていた手前、そう言うことには慣れっこである。
手元のメモ帳に、各項目の要点を簡潔に書き留める。字は小さく、正確で、誤読の余地がない。読み返せば瞬時に情報を復元できる状態を維持する。会議で報告する必要はない。報告内容を整えるのも、次回の会議の効率を上げるためだけである。判断は事実と正確さに限定され、感情など捨て置く。
書類の整理が一段落すると、次は提出書類の不足項目の確認に移る。提出期限を過ぎたもの、記載漏れのあるもの、承認印がないもの──リスト化し、訂正のためのメモを残す。
アルベルトが、時々アンネリーエを気にかけて少し長めに議論をしてくれることがあるのだが、アンネリーエにはそんなもの必要なかった。
窓の外で、風が木の葉を揺らし、校庭に伸びる影はさらに長くなる。夕日の光は微かに色を変え、書類に落ちる影もゆっくりと伸びる。アンネリーエは手を止めることなく、事実だけを受け止め、処理する。
次に、会議用議題の整理。議題の優先順位を確認し、必要な書類を机上に整列させる。各議題に関する情報の抜けや重複がないか、過去の議事録と照合する。確認済みの項目は、鉛筆で小さくチェックを入れる。紙の上の事実だけが存在する。
外界の音は、ただの情報として受け止められる。廊下の足音、遠くで聞こえる笑い声、風に揺れる葉の音──すべては秩序の中の変化として把握される。変化は、即座に認識され、必要な行動の判断材料となる。
「クロイツェル嬢」
「なんでしょう」
「君は優秀な成績のようだね」
「……そう、らしいですね」
「そんな君に、一つ聞きたいことがあるんだけど……」
「なんでしょう」
「これを見てどう思う?」
差し出されたのは、一枚の報告書だった。アンネリーエは視線を動かすことなく、ただ紙面に記された文字列を追う。行ごとに確認し、数字を読み取り、文言を整理する。感情の評価は不要。判断は「正確か否か」だけだ。
「……怒らないから率直に」
「管理が杜撰ですね」
「どう言うふうに?」
「……予算案の計上と支出の記載が一致していません。特に三項目目。計算が一部ずれています」
「ほう?」
「原因は、前年度の数値をそのまま流用したことです。支出の枠組みが今年は変更されているのに、記載が旧式のまま。計算そのものは間違っていませんが、基準が違っています」
淡々と指摘し、該当箇所に印をつける。正確に。迅速に。必要な作業を終えれば、それで十分だ。
アルベルトが小さく頷いた。「なるほど」
アルベルトは報告書を自分の前に戻し、黙って指先で紙を叩いた。重い音は出ない。ただ規則正しい間隔で、軽く机を叩く。その視線は報告書から離れず、何かを確認するように目を細めていた。
「クロイツェル嬢」
「はい」
「このまま提出した場合、どうなると思う?」
「確認作業で訂正が求められます。訂正のために二日から三日の遅延が発生し、行事の準備が一部停滞します」
「つまり?」
「支障はありますが、致命的ではありません。ただし、信用の低下は避けられないでしょう」
アンネリーエの返答は即答だった。予測の精度に疑いはない。可能性の幅はあっても、処理すべき優先度は明確だった。
アルベルトはそこで一度沈黙し、書類の端を軽く持ち上げて光にかざした。数秒の間を置いてから、短く息を吐く。
「見逃さないんだね」
「事実は隠せませんから」
「……なるほど」
小さな声で呟き、アルベルトは報告書を机に戻した。アルベルトの表情に感情を読み取ることは難しいが、その沈黙の質は変化している。
会議は続く。次の議題は予算の修正案だった。アンネリーエは手元の資料を並べ、要点を整理しながらメモを取る。数値の確認、担当の割り振り、期限の明確化。
淡々とした作業の連続。けれど、部屋に漂う空気は先ほどのやりとりの余韻を含んでいた。
アルベルトが示した報告書。あの一枚が、ただの誤記ではないことを示唆しているような気配。だがアンネリーエはそれを「気配」として認識しない。ただの情報のつらなりとして処理する。
「修正案については以上でよろしいですね」
「……ああ。ありがとう、クロイツェル嬢」
アルベルトが短く言葉を添えた。生徒会長としての礼儀か、それとも別の意味か。アンネリーエにとっては、その違いを判断する必要はなかった。そもそも、婚約者がいる身で他の殿方と親しく話すと言うのはあまりいいとされることではない。
会議が一段落すると、窓の外の空は群青へと色を変え始めていた。夕日が沈み、校庭の影は形を失い、音の少ない時間帯に入る。生徒たちの声も遠ざかり、残されたのは静寂に近い空気。
アンネリーエは机の上の書類を揃え、メモを一冊のノートにまとめ直した。情報は体系化され、どこからでも再現可能な形で保存される。これで役割は果たされた。
「今日の会議はここまでにしよう。各自、確認を忘れずに」
アルベルトが閉会を告げ、椅子の軋む音が部屋に散らばった。ヒルトラウトが軽く伸びをし、椅子に座ったアルベルトは依然として机の端に残った報告書を手にしていた。レオンハルトは昨日のことがあってか、そそくさと帰っていった。
アンネリーエはペンを置き、静かに立ち上がる。他の役員たちが出ていく気配を感じ取りながら、机の上を整頓する。机上には何も残らない。秩序は維持される。
廊下に出ると、窓の外はすでに夜の気配を帯びていた。冷たい風がカーテンをわずかに揺らす。遠くからは運動部のかけ声が微かに届くが、それもすぐに消える。
足音が一つ、後ろから近づいてきた。
「クロイツェル嬢」
振り返ると、アルベルトがそこにいた。報告書を手に持ったまま、淡々とした声で続ける。
「さっきの指摘、助かったよ」
「……必要な作業をしただけです」
「君にとってはそうかもしれない。でも……」
そこで彼は言葉を切り、ほんのわずかに報告書を掲げた。夕暮れの光を失った廊下で、その白い紙面だけが不自然に際立つ。
「これは……放置されてはいけない種類のずれだ。君もそう思わないかい?」
アンネリーエはほんの一瞬だけ視線を落とし、そして答えた。
「ずれは修正すべきです。それ以上でも、それ以下でもありません」
返答は冷ややかで、揺らぎはなかった。
アルベルトはそれを聞き、笑ったのか、それとも息を吐いたのか。その区別さえ曖昧な表情を浮かべ、報告書を折りたたんで懐にしまった。
「……やはり、君は面白い」
それだけを残し、アルベルトは背を向けた。
アンネリーエは立ち尽くし、廊下に伸びる影をただ目で追った。




