二十話 裏切りのかたち
爆発の翌朝。
アンネリーエは大講堂に戻っていた。窓はすでに修復の魔法で塞がれているが、床に残る焦げ跡はまだ生々しい。淡い香水の匂いがかすかに残っているのは、つい昨夜まで舞踏会が開かれていた証だ。
「クロイツェル嬢、こちらの記録はご確認を」
オスヴァルトが差し出した羊皮紙には、被害の詳細が列挙されている。皿やグラスなどの破損、装飾品の損傷、そして何より「魔道具による小規模爆発」という記録。
もちろん「小規模」というのは、アンネリーエが意図してそう記しただけだ。真実を知る者は、この場のごく限られた者だけである。
「はい。……表現はこのままで構いません」
私は赤いインクで署名を施す。誰かがこの記録を精査しても、王族や生徒に動揺が広がらぬよう配慮しなければならない。
「しかし、暗殺未遂という表現すら避けるのですか?」
ヒルトラウトが、静かに問いかけた。ヒルトラウトは執行役員として事務を担っているが、その口調には苛立ちよりも純粋な疑問があった。
「危険は危険として、明確に記すべきでは?」
アンネリーエは視線をヒルトラウトに向け、ゆっくり首を振る。
「不安を煽る必要はありません。事実を最小限に記し、処理する。それが一番、内乱を引き起こしません」
「……冷静ね、クロイツェル嬢。私はそこまで割り切れるかどうか」
その声音には敬意が混じっていた。ヒルトラウトとは今まで業務的なやり取りしかしてこなかったが、この瞬間、少しだけ距離が縮まったように感じた。
オスヴァルトが帳簿を閉じ、アルベルトに向かう。
「殿下、王宮への正式な報告書は明日お届けします。内容はすべて整えておきますので」
「ありがとう。皆、よくやってくれた」
アルベルトは短く言葉を添えた。アルベルトの表情はいつもより硬い。暗殺という言葉を公にはしていなくとも、その重みを理解しているのだろう。
私は最後にもう一度、焦げ跡を見やった。
(あの爆発が本来の規模で起きていたら……ここにいる全員は今、存在していない)
胸の奥で冷たい思考が渦巻く。けれど表情には出さない。アンネリーエは公爵家の娘、氷の仮面を崩すわけにはいかない。
アンネリーエは、一度資料を片付けるため生徒会室に戻ることにした。
その帰り際、廊下の向こうで声が聞こえた。
「殿下、気をつけてくださいませ」
華やかな声色。振り返らずとも誰だか分かる。エルメンヒルデだ。
エルメンヒルデはアルベルト殿下に歩み寄り、意味深に囁いていた。
アルベルトの表情が硬くなる。何を吹き込まれたのだろうか。
「クロイツェル嬢」と、ヒルトラウトが小さな声で話しかけてきた。「ラインヴェーヴァー嬢と、殿下とのやり取り……聞こえてしまったわ」
「……そうですか」
「私は、あなたが怪しいとは思わないわ。むしろ、あなたがいなければ、殿下は危なかった」
ヒルトラウトの目は真剣で、揺らぎがなかった。
「だから、必要なら私が証言します。あなたを守るために」
「……」
胸の奥で何かがわずかに解ける。
敵視されることはあっても、こうして信じてくれる者は少ない。
「感謝します、シリングス様」
「ヒルトラウト、と呼んでいただける? 私はあなたをアンネリーエと呼びたいわ」
「……では、ヒルトラウト様」
「及第点ね」
暗殺未遂の影はまだ消えていない。
だが、静かに、確かに。今まで一人だったアンネリーエは、一人ではなくなりつつあっていた。
◇◆◇
エルメンヒルデの声は、華やかな笑顔に似合わず、妙に湿った響きを帯びていた。
「殿下。お気をつけくださいませ。昨日のあの爆発……あまりに不自然ではございませんか?」
アルベルトは思わず足を止めた。
「……爆発のことを、なぜ君が?」
エルメンヒルデは涼しい顔で小首を傾げる。
「学園中が噂しておりますもの。大講堂で『何かがあった』と。……殿下もご存知でしょう?」
アルベルトは返す言葉を失った。確かに、大講堂の床には修復できぬ焦げ跡が残っている。何事もなかったとは言い張れない。だが、「魔道具の暴発」や「小規模な事故」といった説明で処理する方針を、アンネリーエが主導して決めたはずだ。生徒会以外の者が「爆発」と断言できるはずはない。
生徒会役員ですらないのに、なぜそんなことを知っているのだろうか––––そんな疑問が胸の奥に沈殿する。だが、エルメンヒルデはお構いなしに言葉を続けた。
「おかしくありません? なぜクロイツェル嬢だけが気づけたのでしょう。しかも、クロイツェル嬢は、魔法科を受けていませんでした。魔法科を何回か殿下やオスヴァルト様ですら反応できなかったのに」
エルメンヒルデの声音は甘やかでありながら、毒を含んでいた。
アルベルトの心に、一瞬、冷たい波紋が広がる。
確かにあの時、最初に異変を口にしたのはアンネリーエだった。誰も気づかないほど巧妙に隠された魔道具に、アンネリーエは迷いなく指を伸ばした。
それは、奇跡的な偶然か。
それとも––––
仕掛けを知っていたから?
胸の奥がざわつく。
アルベルトが問いただそうと口を開きかけた時には、エルメンヒルデは軽やかに微笑み、すでに一歩下がっていた。
「私はただ……殿下のことが心配で申し上げたまでですわ。お気をつけくださいませ」
裾を翻して去っていくその背を見送りながら、アルベルトの心には疑念だけが残された。
エルメンヒルデはなぜ知っている? アンネリーエを疑わせるために、誰かが情報を流したのか。それとも––––
アンネリーエ自身が、エルメンヒルデに漏らしたのか?
その思考が胸を締めつけた。氷のように冷静で、誰よりも正確に判断する公爵令嬢。その冷徹さが、もしアルベルトを陥れる方向に向いたとしたら……。
アルベルトは拳を握った。
信じたいが、信じられない。信じるだけでは、王は務まらない。
ただ、アンネリーエに疑いを向ける自身が、一番信じたい相手を裏切っているようで、心が傷む。
アルベルトの瞳に、決意とも疑念ともつかぬ影が宿った。




