一話 アンネリーエ・ローエ・クロイツェル
教室の扉を開ける。教室に一歩足を踏み入れただけで教室内が騒ぐ。
「クロイツェル公爵令嬢だ……」
「同じクラスになるなんて……」
本当に、うるさい。
アンネリーエは無表情のまま扉を閉め、淡々と床を歩く。アンネリーエが席に着こうとすれば、近くの生徒が慌てて立ち上がり、「どうぞ! 空いてます!」と声をあげる。
アンネリーエはちらと視線を流すだけで、その生徒は顔を赤らめ、教室を飛び出す。
アンネリーエが席に腰を下ろした瞬間、教室内のざわめきはさらに小さくなった。誰もが彼女を遠巻きに見つめ、息をひそめている。
「……面倒くさい」
小さく呟き、机に手を置く。その冷静な視線は、生徒たちの視線をさらに重くするだけだった。
すると、その直後、教室の扉が静かに開き、整った身なりの青年が現れた。
生徒会役員の制服に、生徒会長の紋章。このヴァルトシュタイン王国の第一王子、アルベルト・フォン・ヴァルトシュタインである。
「クロイツェル嬢」とアルベルトは整った顔を周囲に振りまけながら言う。
「はい」
アンネリーエは一礼し、言葉遣いも表情も変えず、アルベルトを見据える。
「何のご用でしょうか」
「放課後に生徒会室へ」
「わかりました」
アンネリーエは軽く頷き、すぐに机に置いた書類を整理し始める。その姿に、教室内の緊張感はなお続いた。
授業が終わると、アンネリーエは足取りを揃えて廊下を歩いた。廊下の生徒たちが立ち止まり、囁き合う。
「生徒会長に呼ばれるって……」
「公爵令嬢って、どこまで特別扱いされるの?」
「はたから見てると傲慢な令嬢にしか見えないんだけど……」
「しっ、聞こえるだろ」
(聞こえてるよ)と思いながら生徒会室に急いだ。
生徒会室の扉が見えてくる。アンネリーエはまったく躊躇わず、扉を押した。
中には生徒会役員全員が座っていた。真ん中にいるのは会長のアルベルト、そして、副会長ことアンネリーエの婚約者である第二王子のレオンハルト、会計のオスヴァルト・ギード・クライン、執行のヒルトラウト・マリアン・シリングスがいた。侯爵家の次男と、伯爵家の長女だ。なかなかに高貴な人たちが揃っている。
「クロイツェル嬢」
「はい」
「そこに座っていいよ」
「ありがとうございます」
遠慮がちに座る仕草を見せながら、アンネリーエは虹色の瞳で冷静に俯瞰する。
「クロイツェル嬢。君は第二王子の婚約者であり、学園でも注目される存在だ。ゆえに、生徒会役員ではないと言うのはおかしい話だろう」
「……確かに、そうですね」
「君の才覚は知っているよ。生徒会に貢献してくれないかい?」
(まあ、王族に頼まれた時点で……)
拒否権などないのだろう。
「わかりました」
静かに頷くと、アルベルトは軽く笑みを浮かべた。
「では、今日からよろしく頼む」
これからもっと注目されることになるだろう。
本当に面倒臭いと、アンネリーエはつくづく感じた。
生徒会室を出たアンネリーエは、すたすたと廊下を歩く。
廊下に差し込んだ陽光が眩しい。そう言えば、アンネリーエは色素が薄いと医師に言われていたんだったか。なるほど、太陽に弱いのだ。
「……?」
廊下の先に、誰かが立っている。
「クロイツェル公爵令嬢」
短く切り揃えた焦げ茶色の髪に、真っ直ぐな琥珀色の瞳。制服の襟元には、きっちりと結ばれたリボン。社交界ではみたことのない。平民の学生だろうか。
「申し遅れました。私はアデリナ・ハーリッシュ。一般家庭からの奨学生です」
「初めまして。……それで?」
アンネリーエは、警戒するわけでも、見下すわけでもなく、ただ事務的に返す。その冷たさに、アデリナは一瞬たじろいたようだが、すぐに言葉を続けた。
「……あなたと、同じクラスです」
アンネリーエはわずかに目を細める。よく見ると、アデリナは教室にいた。目立たなかったが、整った姿勢で授業を受けていた生徒の一人だった。
「……それで?」
「あなたとお友達になりたいです」
「お友達?」
「ええ。誰にも媚びず、感情を見せず、それでいて常に冷静。そんな方がお友達だなんて、嬉しすぎます。私、あなたのことをもっと知りたいのです」
また、厄介な子が現れた、とアンネリーエは内心でため息をついた。だが表情には出さない。
「そう。なら、好きにすればいい」
そう言い残し、アンネリーエは再び歩き出す。アデリナは驚いたように一瞬立ち止まったが、すぐに微笑んでその背を追った。
「ありがとうございます!」
その日の夕暮れ。生徒寮の自室に戻ったアンネリーエは、窓辺に座って数学書を開いた。
ページをめくるたびに、数字が規則正しく並んでいく。幾何、関数、定理。無機質で、何の感情もないその世界は、人々との関係に疲れたアンネリーエにとって安らぎだった。
だが、今日は式が目に入ってこない。
あの少女––––アデリナ・ハーリッシュ。
記憶をたどる。教室の中で、アデリナだけが周囲の動揺に流されず、筆を走らせていた。貴族生徒たちの視線にも怯まず、背筋を伸ばしていた。その態度には、奇妙な静けさと、わずかな光があった。
「……珍しい」
アンネリーエは数学書を閉じる。アンネリーエは、自分に魔法を教えてくれた師以外、誰かの言葉が頭に残るなどほとんどなかった。前にいた学園でもそうだった。
どう言う思考からくるのだろうか。公爵令嬢に、「友達になりたい」など。
カーテンの隙間から、夜の風が入り込む。部屋に飾られたランプの光が、制服の袖の刺繍を照らしている。
生徒会。
アルベルト。
アデリナ。
新しい舞台。新しい役割。そして、新しい人間関係。
「面倒なことばかり……」
そう言いながら、アンネリーエは再び机に向き直る。
今、アンネリーエにできるのは、与えられた役割をただ、完璧にこなすこと。
何も起きなければそれでいい。
「本当に、面倒なところに来てしまったわ」
独りごちる声は小さく、冷ややかだった。