十五話 器用な精霊
放課後の学園は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。図書室の閲覧禁止区画の件以来、アンネリーエ、アデリナ、リーゼロッテの三人は以前にも増して一緒にいることが多くなった。
「ねえ、アンネリーエ嬢」
アデリナが腕を組んで小声で囁く。「あの禁書の事件……先生たちには報告しなくていいのかしら?」
「……余計な騒ぎになるだけよ」
アンネリーエは穏やかに答える。その声には迷いもあったが、二人に心配をかけたくない気持ちが勝っていた。
その時、学院の中庭に設けられた魔法演習場から、けたたましい音が響いてきた。
「きゃあっ!」
悲鳴と共に、風にあおられた書類が宙を舞う。三人が駆けつけると、そこには見習いの下級生たちが慌てふためいていた。
「暴走してる!」
中央にいたのは、小さな召喚獣。授業で呼び出されたはずが、術者の制御を離れ、牙をむいて暴れていた。
「このままじゃ危ない!」リーゼロッテが声を上げる。
(フィンス)
(ああ、主)
(誰かが攻撃魔法をぶつけるのと同時にね)
フィンスが召喚獣まで飛んでいく。そして、召喚獣を倒そうとした一人の生徒に合わせ、フィンスは精霊魔法を放った。召喚獣は、そのまま倒れ、術者に戻っていった。側から見れば、その生徒が倒したと思うだろう。
フィンスは、なかなか器用なようだ。
周囲の下級生たちは「やった!」「すごい!」と歓声を上げ、その生徒の肩を叩いて讃えていた。
「……助かった……」と術者の少年が顔を青ざめながら膝をついた。
「怪我はない?」リーゼロッテがすぐに駆け寄り、ハンカチを差し出す。
「う、うん……ありがとうございます」
「リーゼロッテ・ローレ・アーベラインよ。大丈夫ならよかったわ」
その光景を眺めながら、アンネリーエはそっと胸の奥でつぶやいた。
(ありがとう、フィンス。……これで誰にも気づかれない)
けれど、心の底に微かな罪悪感が残った。真実を知らず「自分の力で倒した」と信じている下級生を見ていると、それが胸に刺さる。
歓声が少し落ち着いた頃、アデリナがアンネリーエの隣に立ち、小声で囁いた。
「ねえ……ちょっと不思議じゃなかった?」
「不思議?」アンネリーエはとぼけた表情で返す。
「うん。あの子の魔法、あんなに威力あったっけ? 普段の授業では全然当てられないって聞いたけど。あ、アンネリーエは魔法学専攻してないから知らないか」
アデリナは腕を組み、顎に手を添えてじっと考え込む。
そこにリーゼロッテが加わる。
「ええ、私もそう思いましたわ。今のは……偶然の一撃にしては、少し出来すぎているような」
「ほら!」アデリナが勢いよく頷いた。「私、何か別の力が加わったように見えたんだよね」
アンネリーエは一瞬だけ目を伏せ、虹色の瞳を隠した。
(やっぱり、二人は鋭い……。でも今はまだ、知られてはならない)
「……考えすぎよ。実戦になると、すごい急成長を遂げる人だっているでしょう」
アデリナは眉をひそめたまま唇を尖らせた。
「んー……まあ、そうかもしれないけど」
やがて下級生たちが散り、演習場には三人だけが残された。夕日が差し込み、長い影を地面に落とす。
「でも……」とアデリナが再び口を開く。
「私、思ったの。アンネリーエって、何だかいつも守られてる感じがするの。いや、逆かな……私たちが守られてる、って言った方が近いかも」
唐突な言葉に、アンネリーエの胸が小さく跳ねた。
「……どういう意味?」
「だって、そうじゃない? あの禁書の時も、今日の召喚獣の暴走も、アンネリーエが一緒にいたから助かった。偶然が重なりすぎてる気がするんだよね」
リーゼロッテも、慎重に言葉を選ぶようにして続けた。
「アデリナの言うこと、一理ありますわ。アンネリーエがいる時は、必ず危機が回避される。……まるで、あなた自身が幸運を引き寄せているみたい」
アンネリーエは静かに二人を見返した。
「まあ、公爵令嬢だから」
「それ理由になってなくない?」
「たまたまよ」
アデリナはやや不満そうだったが、アンネリーエが寮に向かって歩き出したので渋々着いてきた。
「……まあいいや」アデリナが急に笑顔を取り戻し、軽い調子で言った。「とにかく今日も助かったんだから、それでいいじゃない!」
「そうね」リーゼロッテも頷く。「偶然であれ必然であれ、無事でいることが一番大切ですもの」
まだバレなさそうだなと、アンネリーエは安堵した。
夕陽が落ち切る頃、学園の大理石の回廊にひんやりとした夜気が流れ込み始めていた。アンネリーエは、アデリナやリーゼロッテと寮の棟が違うので、アデリナとリーゼロッテと別れ、ひとり寮へ戻る道を選んでいた。
履いた革靴の音が石畳に規則正しく響く。
「クロイツェル嬢」
澄んだ声が後方から響いた。アンネリーエが立ち止まり、振り返ると、月明かりの下に立つ人物があった。アルバートだった。
「殿下」
アルバートは数歩近づき、アンネリーエの正面で足を止めた。
「先ほどの騒動を耳にした。召喚獣の暴走があったとか」
「ええ。ですが、下級生の訓練不足による些細な事故にすぎません」
「……そうか」
アルバートの眼差しは、アンネリーエの虹色の瞳をまっすぐに捉えていた。
冷静沈着なその男に似つかわしくない、一瞬の微かな柔らかさがその瞳に宿ったことに、アンネリーエは気づいていた。だがアンネリーエの顔には変化ひとつ生まれない。興味などない。
「クロイツェル嬢。レオンハルトのことについてちょっと言いたいことがある」
「はい、他の女子生徒と歩いていることですか?」
「そうだ」
「前にも言っておられませんでしたか?」
「ああ。だが……人数が増えていた」
精霊たちから聞かされて知っていたので、まったくもって驚かなかったが、アルバートからしたら心が痛む話らしい。別に、政略結婚と言うのはそう言うものだろう。
「クロイツェル嬢……」とアルバートが言いかけたその瞬間、背後から軽い靴音が響き、二人の間に割り込む影が現れた。
レオンハルトだ。金茶の髪を乱し、制服の襟をいい加減に着崩した姿。アルバートはきっちり着こなしているが、いかんせんこの兄弟は対照的すぎる。レオンハルトに清潔さを求めるだけ無駄だろう。腕には見目麗しい女子生徒を伴い、口元に不遜な笑みを浮かべていた。
「おやおや。兄上と俺の婚約者殿が、こんなところで逢瀬とは」
軽薄な声音に、連れの女子生徒がくすりと笑う。
「レオンハルト殿下」
アンネリーエは一切の感情を含まぬ声音で応じる。視線すらレオンハルトに向けない。
それが逆に、レオンハルトの癇に障るのだろう。レオンハルトは鼻を鳴らし、冷笑を浮かべた。
「ほんと、可愛げがない。公爵家の娘ともあろうものが、いつも仏頂面で……俺には退屈で仕方ない」
傍らの女子生徒が「まあ」と口元を覆い、愉快そうに目を細める。
「……カロリーネ・ゲルダ・メーベルト子爵令嬢」
「……っ!」
『どうせ公爵家なんて、子爵家のことは知らないんでしょ、でも、レオンハルト殿下は知っていたわ––––あなたは、無能なのね』と言いたかったのだろう。ものすごく悔しそうだ。
「……レオンハルト殿下に愛されていなくて可哀想。公爵令嬢でしょう? 婚約者を見つけなければならないのではなくて?」
「なにを言っているの? 私はレオンハルト殿下の婚約者よ。愛がなくても、政略結婚なのだから」
「……夢がないわね」
「夢なんていらないわ」
アンネリーエとカロリーネの会話を途切れされるように、「クロイツェル嬢」アルバートが口を開いた。その声は低く静かだが、氷を割るような鋭さを含んでいた。
「君に落ち度はない。自らを恥じる必要もない」
「承知しております、殿下」
アンネリーエは、ただそれだけを答えた。虹色の瞳には何の揺らぎも映さず、ただ冷ややかな静謐を湛えている。
「ふん……まあいいさ」レオンハルトは肩をすくめ、カロリーネを伴って歩み去っていった。その背中には、己の優越を誇示する軽薄さしか漂っていなかった。
「まったく……やはり、私の婚約者にならないかい?」
「ご冗談を」
いつもと変わらぬポーカーフェイスで、アンネリーエは寮までの道を歩いて行った。




