十話 怒りの行く先
昼下がりの学園中庭、レオンハルトは取り巻きと大声で笑いながら歩いていた。光の下で金髪が輝くが、その笑顔にはどこか傲慢さが漂う。
アンネリーエは書類を抱え、少し離れた位置からその姿を観察する。無邪気なふりをしているが、感情の波が荒々しく、時折、周囲の空気を震わせるような力を感じさせる。
近づくと、レオンハルトは振り返り、すぐに気づく。眉を軽く上げ、にやりと笑った。
「おや、アンネリーエ。こんなところで会うとはな」
取り巻きたちは半ば呆れたように距離を置く。アンネリーエは冷静な態度を崩さず、ただ短く答える。
「殿下。少しお話があります」
「話?」
その口調には挑発が混じるが、アンネリーエは無表情のまま記録した齟齬のことを伝える。
「資料室や書類に、計画的な齟齬が見受けられます。偶然ではありません」
レオンハルトは一瞬目を細め、嘲るような笑いを浮かべた。
「偶然じゃないのか? 真面目すぎる」
興味が入り混じった声に、アンネリーエは静かに頷く。感情的な相手だが、だからこそこちらの分析が試される。
午後の光が二人を照らす中庭で、互いに視線を交わす。レオンハルトの何も考えていないような答えに、アンネリーエは冷静に対応する。言葉には出さないが、王族として、そして彼の護衛として、この場で何をすべきかを考え続ける。
レオンハルトは再びにやりと笑い、肩をすくめる。
「アンネリーエ。お前の言う『計画的な齟齬』、本当に俺に関係するのか?」
アンネリーエは軽く眉をひそめ、冷ややかに答える。
「関係あります。あなたの立場も、この学園の秩序も、王国の未来も」
その言葉に、レオンハルトは少し目を見開くが、すぐに笑みを戻す。
「お言葉ですが、第一王子殿下にはもうお伝えいたしました」
「……生徒会室に行くぞ」
「はい」
なんとわかりやすい王子だろうか。人の心とは、思ったよりも単純であった。
生徒会室に入ると、レオンハルトはまず周囲の空気を振り回すように大きな声を出した。
「なんだ、これは! 一体誰がこんな混乱を起こしているんだ?」
アルベルトは眉ひとつ動かさず、資料を整頓したまま椅子に座っている。
「焦るな、レオンハルト」アルベルトの声は穏やかで、しかしその落ち着きには誰も抗えない説得力があった。
「焦るな……だと? 焦る? こんなに無駄な齟齬が散乱しているのに、どうして焦るなと言えるんだ!」
レオンハルトは机を叩き、拳を握る。金髪が光を反射し、感情の奔流がレオンハルトの全身から迸る。
(王には向いてないなあ)
こうして見ていると、国王がアルベルトを推す理由がよくわかる。
アンネリーエは一歩下がり、書類を手にそっと観察する。王族の一人が感情に振り回される瞬間は、国の秩序を揺るがしかねない。しかし、アルベルトがいることで暴走は最小限に抑えられる。
「無駄ではない。むしろ、これを利用して状況を整理することができる」とアルベルトは落ち着いた声で言い、資料を指さす。「ほら、記録の齟齬には一定の規則性がある。偶然の産物ではないことがわかるだろう」
「規則性? それを言うなら、もっと早く対処すべきだ! なぜ誰も気づかなかった! なぜ俺に報告が来ない!」レオンハルトの声はさらに大きくなる。
(副会長より会長に頼んだ方が合理的だし)
アルベルトは静かに書類をめくり、数字や名前のズレを指で追いながら答える。
「レオンハルト、焦っても事態は変わらない。感情的に動けば、齟齬の背後にある意図を見落とす。落ち着いて、分析する必要があるんだ」
「分析? 分析なんてしている暇はない! 俺は……俺は!」レオンハルトは言葉を詰まらせ、拳を机に叩きつける。その衝撃で資料の一部が床に落ちたが、アルベルトは目もくれず拾わない。丁寧なアンネリーエは、王族二人が拾わなかった書類をきちんと拾う。
(第二王子は感情の波が高い。だが、この高ぶりが、逆に敵の目を引きつけることもある。使い方次第で、私たちに有利に働くかもしれない)
アルベルトは足を組み直し、レオンハルトの目を静かに見据える。
「レオンハルト、怒りをぶつけるのは構わない。しかし、敵にこちらの動揺を見せるわけにはいかないだろう?」
「……うっ、見せるな、と言われても、俺は……」レオンハルトは荒い息をつき、しばらく黙る。感情が高ぶる中で、理性の声がアルベルトの冷静さとして届く。
「君の感情は確かに力だ。だが、力は制御されてこそ意味がある。無秩序では、ただ破壊するだけになる」
レオンハルトの金髪が揺れ、眉間に皺が寄る。
「俺は分析なんてしない! アンネリーエ、お前もお前だ、なぜ俺のところに相談しにこない! 兄上に相談する奴など、お前しかいない!」
「……」
「なんとか言ったらどうだ!」
「レオンハルト」
「黙れ! お前の言うことなど信用しない!」
「そちらこそ黙れ、レオンハルト。君の婚約者が困っているぞ」
「困っている? 困っているだと? アンネリーエは困ったりなどしない!」
「……」
(いや、困っていますよ)
「お言葉ですが殿下、おひとつよろしいでしょうか」
「黙れアンネリーエ!」
「殿下」
「黙れと言っているのが聞こえないか! いいか、もう俺に話しかけるな!」
(あ、失恋からか)
この前、教室に行った時にばっさり切り捨てたのだ。
「お前ら、どうせ俺のこと見下してるんだろ? 成績がいいからって、俺のことを」
「いいえ」
「違うね」
「アンネリーエ、そもそもお前は可愛げがない。俺はお前と婚約してから、一度たりとも笑顔など見たことがない」
レオンハルトは肩を揺らし、金色の髪が光を反射する。声には苛立ちと傲慢さが混じり、まるで全世界に抗議しているかのようだ。
「……殿下、それは……」
アンネリーエは無表情のまま、静かに答えを探す。しかし言葉を選ぶ前に、レオンハルトは身を乗り出し、机を指で叩いた。
「黙れ! 俺の感情を邪魔するな! お前の冷静さなど聞きたくもない! どうせ困ったように見せかけてるんだろ」
(いや、だから困っていますよ……)
アンネリーエの心の中で小さくため息が漏れる。冷静さを保つことこそ、自分の盾であり剣だ。
「それでも、婚約者として……」
「黙れと言っただろう! いいか、俺は自分の思うままにする! 誰も俺の前で理屈を言うな!」
レオンハルトは拳を握り、金色の瞳をぎらつかせる。怒りの熱量はまるで中庭の太陽のようで、周囲の空気まで焼き焦がす勢いだ。
「……見下してなどいません、殿下」
アンネリーエは静かに言葉を返す。だが、表情は変わらず、感情の波を読まれることなく、ただ淡々と存在を示す。
「そう見えるかもしれないが、俺はお前の内面など知るはずもない! 俺の婚約者だろうと、俺の前で笑う気配がない限り、俺は満足しない!」
この瞬間、アンネリーエは思う。
(怒れる王子に対して、これ以上感情で応じては、私が翻弄されるだけだ)
だから、顔色ひとつ変えず、ただ静かに書類を整理し、床に落ちた筆記用具を拾う。レオンハルトの怒声は止まらず、取り巻きも誰も止められない。
「笑え! 微笑め! 微笑んでるだけで、蝶よ花よと言われるんだから、微笑んでろ!」
アンネリーエは静かに机に書類を置き、レオンハルトに視線を向ける。
「女とはそう言うものだろう!」
「……微笑む、と言う感情はどう言うふうにくるのでしょうか?」
「ほんっとうに可愛げがないなお前は! もういい、俺は生徒会をやめる!」
(それは王族として問題になるのでは……)
レオンハルトは、胸元についていた生徒会役員を示す紋章をアルベルトの机の上に置いて生徒会室を出て行った。
「……紳士的じゃないな」
アルベルトは、生徒会室の扉を閉めながら言う。その声には、少し怒りが入り混じっていた。
「あのお方に、紳士的など求めておりません」
「身内にはこれなのに、外ではモテる美男子か……困ったものだ」
こればかりは諦めるしかないと、アンネリーエはつくづく思った。




