今日でお別れFINAL
今日でお別れ、これでおしまいです。
どこかで見た事ある展開だと思ったら、往年のドラマ「ありがとう」ですね。大して美人でもなく、頭がいい訳でもなく、色っぽい訳でもない主人公が何故かモテる。ああ、ごめんなさい、水前寺清子さん。
律子はOL。とても慌てん坊で、そそっかしい事この上ない。
同僚の香と共に訪れた、現在お付き合い中の藤崎君のアパート。当然の事ながら、ドロドロな展開になってしまった。
走り去った香を追いかけるも、体力知力共に自信がない律子は、たちまち突き放され、香は車中の人になった。
他にどうしようもないじゃないか。某SFアニメの名セリフを思い浮かべながら、律子は藤崎君のアパートに戻った。
「りったん」
中に入ると、藤崎君がゲホゲホと咳き込みながら、キッチンに現れた。
「ああ、寝てないと!」
律子はふらつく藤崎君を支えて、布団に連れて行く。
「どうして?」
「え?」
いきなりの律子の問いかけに戸惑う藤崎君。
「どうして香に連絡してあげなかったの?」
「な、何をさ?」
藤崎君は横になりながら尋ね返す。律子は憤然として、
「病気になった事をよ! 香、課長に教えられて、ショック受けてたわ」
「そうなんだ……」
藤崎君は病気で体力が落ちているせいか、いつもより弱々しく見え、律子の叱責にも酷く落ち込んでいるように感じられた。
「香は真面目な子なんだから、中途半端な気持ちで付き合ってはダメよ。そういうのは、私と真弓で十分でしょ」
律子は俯いて嫌味を言った。気持ちをしっかり持たないと泣きそうだ。
「付き合うって……。僕は香さんと付き合ってるつもりはないよ」
「ええ?」
律子は藤崎君のその返事に仰天した。
「だって香、合鍵まで持ってて……」
「あれは、香さんが勝手に作ったんだよ。僕が渡した訳じゃないよ」
律子は頭がクラクラして来た。今になって、徹夜明けが身に応える。
「でも、香は付き合ってると思っていたのよ。貴方がそう思わせる態度を取ったんでしょ!」
律子は藤崎君をキッとして見た。香の気持ちを思うと、藤崎君の態度は到底許せるものではなかった。
「確かに香さんには、『付き合って下さい』って言われたけど、僕は返事していないんだ。そしたら、いつの間にか、付き合ってるような感じになってさ……」
「あのねえ……」
藤崎君のあいまいな態度が、香を誤解させた。香も悪いかも知れないが、はっきり言わない藤崎君も悪い。律子はムカムカして来た。
「ごめん」
藤崎君が突然起き上がり、律子をグッと抱きしめた。
「やだ、ちょっと、何よ! 私にじゃなくて、香に謝りなさいよ!」
もがいて、藤崎君から離れる。心臓の鼓動が、彼に聞こえてしまうのではないかというくらい大きい。
「僕は、りったんと付き合ってるつもりだよ」
藤崎君は、寂しそうな顔でポツリと言った。
「な、何言ってるのよ! 私だって、合鍵もらってないのよ! ふざけた事言わないで!」
律子が大声でそう言うと、藤崎君は溜息を吐いて、
「やっぱり覚えていないんだね」
「へ?」
ギクッとする律子。藤崎君は律子を真っ直ぐ見た。
「僕らが初めて話した時って覚えてる?」
「新入社員歓迎会でしょ?」
律子は恥ずかしそうに答える。藤崎君は力なく微笑んで、
「そう。あの時、何だか知らないけど、りったんと僕、意気投合してたよね」
ああ、そんな事があったっけ。それで、私は勘違いして、藤崎君が自分に気があると思ってしまったんだ。律子にとっては、封印したい「黒歴史」だ。
「それから、何度か飲み会で語り合ったりして、初めて二人でデートしたのっていつだったかな?」
「部長のお誕生日会の時」
律子は恥ずかしいので藤崎君に背を向けて答えた。
「その時はお互い、随分飲んだよね」
「そ、そうね」
モジモジし出す律子。藤崎君はその様子を見てクスッと笑い、
「その時、りったんが『部屋に遊びに行きたい!』って言い出したので、僕はスペアキーを渡したんだけど」
あああああ! 思い出した! 確かに鍵を受け取った! でも、全然記憶になかった。言われるまで、忘れてた。で、その鍵は今どこにあるんだろ? 想像するだけで恐ろしい。
「ご、ごめん。私、すっかり忘れてた」
律子は藤崎君を見て頭を下げた。藤崎君は苦笑いをして、
「そんなに謝らないでよ。あの状況で渡した僕も悪いんだから」
優し過ぎるわ、藤崎君。律子はメロメロになりそうだった。
「だから、僕が付き合ってるのは、りったんなんだよ」
改めてそう言われて、いろいろと自分で妄想してしまい、別れようとしたり、また付き合おうとしたりした事を恥じた。
「あ」
「何?」
ふと思い出す。
「じゃあ、どうして真弓は部屋に入れたの? あいつにも合鍵?」
「ああ、それは違うよ。あの日は僕、本当に辛くて、誰が来たのかもわからなかったんだけど、その人が言うには、鍵がかかっていなかったらしいんだ。言われてみれば、鍵を出した記憶がなかったので、ああそうか、と思ったんだけど」
なるほど。辻褄は合う。
「それに、僕はてっきりりったんだと思ったから、他の誰かなんて考えもしなかったよ」
「危ないよ、ホントに。入って来たのが真弓だったから良かったけど」
「そだね」
ニコッとした藤崎君の顔をまともに見られない律子。
「僕の潔白は証明されましたか、りったん検察官様?」
藤崎君のジョークにも反応できないくらい、律子は恥ずかしかった。
「でもさ」
藤崎君は言った。律子は居ずまいを正して彼を見る。
「何?」
「どうしてすぐに来てくれなかったの? ずっと待ってたんだよ」
うわー、そのセリフ、今言いますか? 律子は倒れそうだったが、
「課長がね、教えてくれなかったのよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
この話はしない方がいい。律子はそう判断し、
「課長が忘れたの」
藤崎君は笑って、
「それは仕方ないね。でも、りったんの携帯にもメールしたはずだけど」
「ええええ!?」
慌てて携帯を見る。しかし、着メールはない。
「ないよ」
「え? そうなの? おかしいなあ」
藤崎君は自分の携帯を調べる。
「あ、ごめん、間違えて姉貴に送信してた。姉貴も律子なんだ」
「ふーん」
お姉さんと同じ名前かあ。何かプレッシャーだ。それも、もしかして私の方が年上?
「悪い偶然がいっぱい重なったんだね」
「そうみたい」
間近で見つめられると、まともに顔を見られない。
「でさ」
「何?」
ピクンとしてしまう。
「心細いから、このまま一緒にいて欲しいんだけど」
「え?」
この甘え上手めえ! やっぱりお姉さんがいる男は、年上キラーなんだね。
「ダメ、かな?」
熱で潤んだ眼で攻撃されたら、さすがに耐えられない。
「い、いいよ」
そこまで言ってしまってから、律子はハタと気づいた。
「ダメダメ、香と話さないうちは、そんな事できない!」
藤崎君は残念そうだったが、
「そうだね。僕も香さんに謝らないと」
「そうよ。香を泣かせる奴は、許さないんだから」
律子がそう言うと、藤崎君は笑って、
「親友なんだね」
「そう。戦友でもある」
香とは同期入社で、あらゆる事を共に乗り越えて来たのだ。まさに戦友と呼ぶのが相応しい。
律子は近所のスーパーに走って食材を買い込み、体力回復のための栄養満点料理を作って藤崎君に食べさせてから、後ろ髪を惹かれる思いで部屋を出た。
(私が本命……)
つい、ニヘラーッとしてしまう。
(とにかく、明日香と話さないと。藤崎君が出て来られれば一番なんだけど)
でもさっきの様子では、明日も無理だろう。
(やっぱり泊まって看病するべきだったかな?)
そんな事を考えてしまう。
「はあ」
溜息を吐くたびに幸せが逃げるって、真弓が言ってたけど。吐くなと言う方が無理。明日、どんな顔して香に会えばいいの? あまりの展開に、律子は精神崩壊してしまいそうだった。
そして翌日。どんな顔をして、と思っていたが、香は休みだった。平井課長も休みなのはちょっとビックリした。
「どうしたのかな、香?」
今日は出勤の真弓がボソリと言う。律子は顔を引きつらせて、
「どうしたのかしらね……」
とだけ言った。
(ダメージ大きいんだろうなあ。香って、負け知らずで生きて来たっぽいからなあ)
香はお嬢様だ。結構なお金持ちの家。父親は会社の経営者で、母親は経営コンサルタント。しがないサラリーマン家庭の律子とは、スタートラインが違っている。しかし、彼女は微塵も「お嬢様」ぶった態度がなく、本当に良い子なのだ。だから余計に心配だった。
(どうすればいいんだろ?)
その時、「真弓に相談」という選択肢が思い浮かんだ。でもそれも危険だ。二次遭難の恐れがある。
そんな事を考えていると、向こうから接触して来た。
「律子、今夜ちょっと付き合ってくれない?」
「え? どうしたの?」
律子の問いかけに、真弓は苦笑いをして、
「ちょっとね」
とだけ答えた。
(また難しい事じゃないでしょうね?)
律子は憂鬱になって来た。
そしてお昼休みも終わり、本日の業務は後半戦に突入した。
「先輩、コーヒーどうですか?」
須坂君が昨日に引き続いて何故か優しい。どうしたのよ、須坂君? 今は貴方に何をされてもなびかないんだから。それでも男子に優しくされるのは悪い気はしない。
「ありがとう、須坂君」
「へへへ」
妙に可愛い笑顔で律子を見ている須坂君。一体彼に何があったのか、律子は不思議だった。
(何か言っちゃったのかな、私?)
最近飲み会の記憶がない事が多いので、またおかしな事を言って、須坂君を知らないうちに翻弄しているのかも知れない。これは確かめる必要がある。
「ねえ、須坂君」
「はい」
須坂君はニコニコして近づいて来る。人なつこい小型犬みたいだ。
「私さ、何か須坂君に約束でもした?」
「は? 別にそんな事ないですけど」
須坂君はキョトンとして律子を見ている。
「最近、須坂君、気が利くなと思ったから。違うのなら、いいの」
「そ、そうですか」
あれ? 今度は急に暗くなったぞ? 一体どういう事だ? これだから若い男はわからない。だが、今はそんな事で悩んでいる暇はない。香との話をどうすればいいのか、そして今夜の真弓の「付き合って」はどんな内容なのか? 凄く考えてしまう。
いろいろ余計な事があったけど、仕事は滞りなく終わり、時間になった。
「律子」
逃亡するとでも思ったのか、真弓は定時になるとすぐに律子に張りついて来た。
「何?」
「一緒に来て」
真弓はかなり強引だった。律子の返事も待たないまま、彼女は律子を引き摺るようにしてフロアを出て行く。
「律子せんぱーい」
寂しそうにそれを見送る須坂君。
「逃げないから、手を放してよ、真弓」
律子は外に出てもくっついて離れない真弓に言った。
「ホント?」
「本当よ」
「了解」
ようやく解放された律子は、
「で、何?」
「取り敢えず、何か食べながら話しましょうか」
真弓は律子を伴い、駅前の居酒屋に入った。
「生中二つね」
何も聞かずに勝手にオーダーするところはいつもの真弓だ。
「それで?」
もう一度尋ねる。真弓はようやく、
「貴女、この前、駅で私と課長が一緒にいるところを見たでしょ?」
律子はもう少しで椅子から転げ落ちるかと思うほど驚いた。
「視界に入ったのよ、貴女によく似た人が」
「……」
律子は固まったように動かない。真弓は続けた。
「で、課長と歩きながら、私はホームの方を見たの。そしたら、酔っ払った貴女が歩いているのが見えたわ」
酔っ払ってはいなかったが、相当なショックを受けて、フラフラ歩いていたのは確かだ。
「はい、生中お待ち」
店員がジョッキを二つテーブルに置いた。
「はい、まずは乾杯ね」
「う、うん」
真弓は、律子が見ていた事を咎めようとしているのではないらしい。
「かんぱーい」
ジョッキをカチンとさせ、二人はゴクゴクとビールを飲んだ。
「うーん、うまい」
「そ、そうね」
真弓は開き直っているのだろうか? 何か吹っ切れたような雰囲気を漂わせている。
「貴女は私と課長の事をどんな風に思っているの?」
真弓は真っ直ぐな目で律子を見ている。
「どんな風にって、その……」
「不倫していると思ったでしょ?」
真弓は悪戯っぽく笑った。律子は気まずそうに、
「う、うん……」
と答えた。真弓は笑ったままで、
「もう二年になるの」
「ええっ?」
意外だった。そんな前からなの? それなら、課長が係長の時からじゃないの。
「別にいい男でもないし、一緒にいても楽しくないんだけど、何となく続いちゃったのよね」
真弓はそう言うとジョッキのビールを一気に飲み干した。
「あの日はね、別れ話を切り出したの」
「別れ話?」
律子が鸚鵡返しに言うと、
「生中もう一つと、唐揚げセットと、揚げ出し豆腐と、ホッケ下さい」
真弓は通りかかった店員にオーダーした。そして律子を見る。
「そう。もういいやって、思ってね。課長、最初は奥さんと別れるって言ってたんだけど、そのうちそんな事はできないって言い出して、じゃあ別れましょうって私が切り出したら、逆ギレした時があってね」
あの平井課長が逆ギレ? 想像がつかないけど、ああいうタイプが切れると一番始末が悪そうだ。
「でもあの日は、課長も私がお昼で早退していたから、結構何か感じるものがあったらしくて、抵抗しなかったわ。でもね、その冷めた態度に今度は私がムカついて、つい殴っちゃったの」
「ええ?」
うーん、凄い、真弓。仮にも上司なのに。
「それで?」
「何よ、楽しそうね?」
律子は興味津々の顔になっていたのを真弓に呆れられた。
「ごめん」
すぐに反省する。
「まあ、いいけどね」
真弓は生中を受け取り、ゴクリと一口飲んだ。
「気持ち良かったわ。課長のテンプルにガツーンて入ったのよ」
ああ、そう言えば、何年か前、真弓はボクササイズにはまってたっけ。それはそれは、平井課長は本当に御愁傷様だ。相当痛かったろうな。
「それで課長、まだ休んでるんだ」
「多分ね。顔が腫れてると思う」
真弓は愉快そうに笑った。
「大丈夫なの、訴えられたりしない?」
律子が心配して言うと、
「訴えられる訳ないでしょ? そんな事したら、どうして私に殴られたのか、全部裁判で明らかにされちゃうもの」
「ああ、そうか」
確かに課長にメリットはない。二度目の御愁傷様だ。
「奥さんにさえ、本当の事は言えないでしょうしね」
真弓はニヤッとした。
「でも、課長が復帰したら、真弓居辛くないの?」
律子が核心を突く質問をすると、真弓はニッコリして、
「ああ、私、明日辞表出すの」
「ええっ!? そんな事で辞めなくても……」
律子が驚いて言うと、真弓は笑って、
「違う違う。それで辞めるんじゃないわ。辞めようと思って、別れ話を切り出したんだから」
「そうなんだ」
真弓は急にしんみりして、
「田舎の父がね、具合が悪いの」
「……」
律子は言葉がない。そういう深刻な話は苦手だ。
「昨日は、そんな事があっていろいろ考えていたら、眠れなくなって、布団に入ったのが明け方近くだった。だから、貴女と香が来るまで寝ちゃったの」
「真弓……」
律子は涙ぐんでしまった。真弓はそれに気づき、
「何よ、律子。泣かないでよ。私までそんな気がしちゃうじゃない」
「ご、ごめん」
律子は涙を拭った。
「生中、もう一つね」
真弓がすかさずオーダーする。
「今日は付き合ってよね、律子」
「うん」
結局二人は、終電まで居酒屋で飲み明かし、最後は勝鬨をあげ、解散した。
律子は、香の事を相談しようと思ったが、会社を明日去る真弓にする事ではないと思い、諦めた。そして、真弓が何故藤崎君のところに行ったのかも訊けなかった。
(寂しくなるな、会社も)
華やかな真弓が去ると、まさに火が消えたようになる。休んでいた時でさえ、男子達は落ち込んでいる連中が多かったのだから。
そして、よもやとは思うが、香までいなくなったら、本当に困る。
(お願いだから、明日は出て来て、香)
律子は強く祈った。
藤崎君に連絡しようかと思ったが、時間が遅いので諦めた。
(明日は出て来られるかな?)
もし彼が来たら、三人で話そう。律子はそう思い、アパートに向かった。
そして、翌日。
律子はドキドキして出社した。
ところが、藤崎君は来ていたが、香はまた休みだった。平井課長も来ていない。
「おはよう」
藤崎君はすっかり復調したようで、元気な笑顔だ。律子は安心した。
「良かった、元気になって」
「りったんの料理が効いたんだよ」
藤崎君は小声で言った。律子はドキッとした。
「でも、香さん、来てないみたいだね」
「うん。ダメージ大きいのかも……」
律子がそう言うと、藤崎君は、
「責任感じてます」
「ホントよ」
小さく手を振り合ってお互いの席に着く。そこへ梶部係長が、真弓を伴って現れた。
「みんな、仕事を始める前にちょっといいかな?」
係長の話は、真弓の退職の件だった。正式な退社は、今月末日だが、真弓は消化していない有給休暇を使って、今日で出勤は終わりにするという。律子以外の全員が、驚いていた。特に真弓を密かに狙っていた男共は、衝撃を受けたようだ。
「真弓君の仕事は、主に律子君と香君で分担していたから、二人にお願いするとして……」
その時係長は、香が休んでいる事に気づいた。不安でいっぱいな目で、律子を見る。
(何なのよ、その目は!)
律子は係長のテンプルにコークスクリューをぶち込みたくなった。
「じゃあ、真弓君から」
係長は真弓を促し、一歩下がった。真弓はいつになく緊張しているようだ。
「こんな形で、皆さんとお別れするのは大変残念です。ご迷惑ばかりかけていた私でしたが、今まで本当にありがとうございました」
真弓は薄らと涙を浮かべ、お辞儀をした。女子社員の何人かがもらい泣きしている。律子は昨日知らされていたので、それほど悲しくならないと思っていたが、真弓が涙ぐんでいるのを見て、やっぱり悲しくなった。
「元気でね、真弓」
「いつでも戻って来いよ」
「残念だよお」
皆、口々に真弓に声をかけた。真弓は一通り同僚達の間を巡り、最後に律子のところに来た。
「香がいないのが残念ね」
律子が言うと、真弓は、
「香がいたら、私もっと泣いちゃったろうから、ちょうど良かった」
と言った。
「藤崎君とうまくやってね、律子」
お互いに抱きしめ合った時、耳元で言われた。律子はギクッとして、
「ど、どうして?」
「この前、藤崎君のところにお見舞いに行った時、彼、私の事をずっと律子だと思ってたのよ。妬けたわ、あの時は」
真弓がニコッとした。律子は顔が真っ赤になるのを感じた。
「じゃあね。元気でね」
「メールくらいちょうだいね」
「うん、もちろん」
真弓は係長に伴われて、フロアを出て行った。部長に挨拶に行くようだ。平井課長が休んでいるので、係長は大忙しだ。
「寂しくなりますね、先輩」
須坂君がまたコーヒーを入れてくれた。
「そうね。ん? 須坂君て、コーヒー係なの?」
律子は最近コーヒーつながりの彼に尋ねた。須坂君は、
「べ、別にそういう訳じゃないですよ」
と言うと、サッサと席に戻って行く。
「よくわからんな、あいつ」
律子は首を傾げて呟いた。
お昼は社員食堂。端のテーブルで一人で食べていると、
「相席、いいですか?」
と藤崎君が来た。
「え、ああ、どうぞ」
律子はビックリしてオロオロしてしまった。皆が二人を見ている気がする。
「あのね」
藤崎君が小声で切り出した。
「社内恋愛は禁止されてないんだから、隠すの終わりにしようよ、りったん」
「え?」
それは……。律子は言葉が出ない。確かにそうなんだけど、藤崎君と付き合っているのが知れると、業務に支障が……。
「りったんが嫌なのなら、やめるけど」
「嫌って言うか、その、もう少し待って」
「いいよ」
藤崎君の笑顔。これに落ちてしまったのだ。改めて自分は落ちやすい女だと思った。
何でお昼ご飯食べるのにこんなに緊張しなくちゃならないのよ! 誰のせいでもない。自分のせいである。
「藤崎さん、ちょっといいですか」
食堂を出ると、藤崎君は何故か須坂君に呼び止められた。
「何?」
二人は廊下の隅へと歩いて行く。律子はそれを見ていたが、やがて歩き出した。
そしてその日の業務は、何事もなく終了。律子は藤崎君に声をかけて、香との話の対策を練ろうと思った。
「あれ?」
藤崎君がいない。携帯が鳴る。藤崎君からのメールだ。
「今日は急用ができたので、先に帰ります」
何ーッ!? 何とかポコではないが、杵で餅を突きたくなった。
「どういう事よ!」
律子がムカムカしながらエレベーターを待っていると、
「先輩」
とコーヒーメーカー須坂君が現れた。
「何?」
ちょっとムカついていたので、怖い顔で須坂君を見てしまったらしい。彼はビビッていた。
「あ、あの、今夜、時間ありますか?」
「へ?」
律子は唐突な質問にキョトンとしてしまった。
うーん。律子は何かヘンテコリンな気持ちだった。
(どうして私、須坂君と一緒にいるの?)
二人は、夜の遊園地に来ていた。須坂君は律子にデートを申し込んだのだ。
「何かの予行演習?」
我慢できなくなって訊く。須坂君は律子を見て、
「どうしてですか?」
「だって、君、同期の蘭子ちゃんが好きじゃなかったの?」
「え?」
何故それを、という顔で律子を見る須坂君。私は何でも知ってるのよ、という顔をする律子。
「私を練習台にするつもりなら、なってあげてもいいけど、蘭子ちゃん、遊園地なんか来たがらないと思うよ」
律子はアドバイスのつもりでそう言ったのだが、
「ち、違いますよ。彼女には先月はっきり断られました」
「そうなの?」
あらま、それは古傷を突いてしまって申し訳ない。でも、だから私っていうのも、何かムカつく。
「私にだって、選ぶ権利があると思うんだけど?」
律子は腕組みをして言った。須坂君はその迫力にビビり、
「そ、そうかも知れませんけど、取り敢えず、藤崎先輩には許可もらったので」
「はあ?」
藤崎君の許可って何? どういう事?
「律子先輩、藤崎先輩と付き合ってるんですよね?」
須坂君の口からそんな言葉が飛び出すとは思っていなかった律子は、仰天した。
「な、な、な」
次の言葉が出ない。須坂君はニコッとして、
「わかりますよ。僕、律子先輩の事が好きだから」
「???」
ええええ? もう訳わかんない! 律子は暴発しそうだった。
「好きだから、その人が誰を見ているのかもわかるんです」
須坂君は真面目な顔で冗談みたいな事を言う。
「と、突然そんな事言われても……」
「この前、僕も突然、『私の事、好きなの?』って言われましたけど」
確かに言ったのだが、律子の記憶装置には書き込みされていない。
「な、何の事?」
律子は尋ねた。記憶にないからである。決してロッ○ード事件の被告人の真似ではない。
「やっぱり覚えてないんですか。先輩らしいけど」
「あのねえ」
律子が反論しようとすると、須坂君は深々と頭を下げて、
「お願いします! 今日だけ、何も言わずに付き合って下さい。明日になったら、きれいさっぱり忘れますから!」
それはそれで何となく嫌なんだけど。ああ、それから、藤崎君にお説教しなくちゃ。
「仕方ないな」
「ありがとうございます!」
須坂君は大喜びだった。何か可愛い、と思ってしまう律子である。
そんな事で、その日は須坂君と遊園地デート。お化け屋敷にジェットコースター、メリーゴーランド。そして、締めは定番の観覧車。
「今日はありがとうございました」
「お役に立てて何よりです」
お互い微笑んだ。
「残念だわ。藤崎君の前に、須坂君に出会えてたらね」
律子がお世辞でそう言うと、
「今からでも遅くないですよ」
と調子に乗る。
「無理です」
非情な答えが返り、ガックリする須坂君。
「まあ、君はまだ若いんだから、今年入社して来る新人の子にアタックしなさい」
「はい」
まだ悲しそうだ。律子は須坂君の手を握った。
「せ、先輩……」
ギクッとする須坂君。そして何故か目を閉じた。早合点に呆れる律子。
「こらこら、あんたは中学生か!」
え、という顔で目を開く。
「楽しかったわ。遊園地くらいならいつでも付き合うから、また誘ってね」
「は、はい!」
立ち直るまで、しばらく優しくしてあげようと思う律子だった。
(ごめん、藤崎君!)
心の中で土下座する。
須坂君とはそのまま現地解散し、律子はアパートに向かった。
「あれ?」
すると、アパートの前に藤崎君がいる。
「やあ、お帰り。デート、楽しかった?」
笑顔で訊かれてもねえ。
「もう。余計な許可、出さないでよね」
プリプリして言う。藤崎君は頭を掻きながら、
「いやあ、自分の彼女がモテるのって、何か嬉しいんだよね」
「バ、バカ!」
顔が火照るのがわかる。
「今日は泊めてくれない? もう僕のアパート、門限過ぎちゃってさ」
「そのジョーク、つまんない」
「アハハ」
二人はそんなやり取りをしながら、律子の部屋へと入って行った。
そして翌日。律子は藤崎君を先に送り出すと、部屋を片付けてアパートを出た。
「ふう」
突然泊まりたいとか言い出して、親戚の子じゃないんだから。ドキドキして、眠れなかったわ。
何もされなかったのは、何となく寂しいけど。
それより、香との話の対策が練れて良かった。
とにかく謝る。それしかないという事で完全に一致した。
「香、今日は来るよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
足が竦む。会社に入るのが怖かった。でも、ここで逃げても何も解決しない。
律子は決断し、ビルに入った。
ところが、香はいなかった。まだ来ていないのだ。休みなのかどうか、係長も知らないらしい。
「まさか、香君まで辞めてしまうのではないだろうな?」
係長は不安な顔でまた律子を見た。
(ホント、殴りたい、こいつ!)
確かに、真弓に続いて香まで退職してしまったら、律子も不安だ。業務量が一人でこなせる量ではないのだから。新人を使えばこなせるかも知れないが、それが元で新人まで辞めたりしたら、今度こそ係長に何を言われるかわからない。
「おはよう」
あれ、この声は? 意外な人物の登場に驚く。
「課長、どうされたんですか、その顔?」
係長が、左の目とその周辺を大きな絆創膏で覆われた平井課長を見て言った。フロアの視線が一斉に課長に向く。全部知っている律子には皆の半分も興味がない。
「あはは、熱があるのに無理して動いたら、階段から転げ落ちてね。このザマさ」
見え透いた嘘吐いて。律子は笑いを堪えるのが辛かった。
「それはご災難でしたね」
係長は口ではそう言っているが、できればずっと出て来て欲しくなかっただろう。何しろ、彼と課長は同期なのだ。生まれ月で言うと、係長の方が先である。課長は部長と親しいため、課長になれたのだ。
「さあさあ、仕事仕事!」
課長が迷惑そうにしているのに気づき、係長は部下達に言った。課長はその隙に課長室に消えた。
(普段はフロアをウロウロして、女子社員にセクハラ発言するのが課長の『仕事』なのに)
さすがに真弓に一発もらったのが効いたのか、今日の課長は大人しかった。多分、真弓が辞めたので出社したのだろうし。
「課長、大丈夫ですかね?」
何故か今日もコーヒーを入れてくれる須坂君。
「あ、ありがと。昨日できれいさっぱりじゃなかったの?」
律子は嫌味混じりに言った。すると須坂君は苦笑いをして、
「嫌だなあ、律子先輩は。コーヒーは、そういうつもりではないですよ」
「ふーん」
それはそれで寂しいと思う律子である。
「何か知ってますね、先輩?」
須坂君が小声で尋ねる。
「何も知らないわよ」
律子は惚けた。須坂君は残念そうに自分の席に戻る。
「おーい、藤崎。受付から連絡があった。面会の人が来ているそうだ」
「面会?」
藤崎君チラッと律子を見てから、フロアを出て行った。
(何だろ?)
律子が不思議に思っていると、携帯が震えた。メールだ。
(か、香?)
香からのメール。ロビーに来て欲しいとあった。
「ちょっと抜けるね」
律子は隣の新人女子に告げると、彼女の返事も待たないでフロアをそっと抜け出した。
(藤崎君を呼び出したのも香ね? どういうつもりなんだろう?)
律子はドキドキしながらロビーへ向かった。
ロビーに着くと、香は藤崎君とソファに座るところだった。
「あ、律子」
「香」
お互い気まずい。律子はそれでも、
「ごめん、香」
「私こそごめん、律子」
「え?」
律子はキョトンとして香を見る。
「私、律子が藤崎君と付き合ってるの気づいていたの」
「え?」
意外な事実だった。律子は藤崎君と顔を見合わせた。
「それでも、私は藤崎君が好きだから、告白したわ。でも藤崎君は私を見ていなかった」
「あ、その……」
藤崎君が何か言おうとすると、香は苦笑いをして、
「私が勝手に藤崎君に告白して、勝手に合鍵を作って、勝手に彼女気取りになってた。私、嫌な女よね」
「香……」
「香さん……」
律子も藤崎君も言葉が出ない。香は涙を流していた。
「僕の方こそ、香さんにはっきり返事しなくてごめんなさい」
藤崎君は頭を下げた。律子は、
「私も、隠したりしなければ良かったの。香、本当にごめん」
「謝らないでよ、藤崎君も、律子も。私、余計惨めになる」
香は泣き笑いをして言った。律子はそれでも深刻な顔で、
「そ、そう」
香は涙を拭って、
「あの日はどうかしてた。走って逃げたりして、バカみたいだった」
律子は藤崎君と顔を見合わせる。
「心のどこかで、『どうして藤崎君は私ではなくて律子を選んだの?』って思ってたのよ。だからあの時も、律子を騙さないでなんて言おうとしたのね」
それは私もそう思ったよ。律子はそう言いたかったが、嫌味に聞こえそうなのでやめた。
「思い上がってたわ。本当に恥ずかしい」
香は俯いてしまった。
「よし、行こうか、香」
律子は立ち上がった。香はキョトンとして、
「行くってどこへ?」
「仕事場によ」
「ええ?」
律子は半ば強引に香を連れてエレベーターに歩き出す。ビックリしていた藤崎君も慌てて二人を追いかける。
「もう全部終わったでしょ? 誤解も蟠りもないよね?」
律子はエレベーターを待ちながら、香に問いかけた。
「え、ええ。律子にないなら、私にはないわ」
「なら、問題なしよ!」
律子の笑顔に香は釣られて笑った。
「おお、香君、待ってたよ」
「香先輩、大丈夫ですか?」
同僚達が温かい言葉で香を出迎えてくれた。
「香ね、長く休んだので、顔を出しづらかったんですって。で、私が付き添いに行ったの」
律子はスラスラと嘘を吐いた。香と藤崎君は、その嘘に驚いてしまった。
「何だ、そうだったんですか。全然気にする事ないのに、香先輩」
須坂君はやけに嬉しそうだ。その笑顔にちょっとだけ嫉妬する。
「そうだよ、香君。君がいないと、律子君が業務を全部引き受ける事になってしまうんだよ。その方がずっと困るんだよ」
相変わらず酷い事を言う係長だ。私もボクササイズ、習おうかな? そう思う律子。そして藤崎君を見る。藤崎君はピースサインで答えてくれた。
しばらく香の「歓迎会」は続いた。律子がふと見ると、羨ましそうにこちらを見ている課長と目が合った。
(あんたは自業自得でしょ?)
律子はそう思い、クスッと笑った。
お昼休み。律子は香と藤崎君と三人で食事した。もうすっかりいつもの三人になっていた。
「真弓からメールがあったわ。あの子、実家に戻ったのね」
「そう。お父さんが具合が悪いとか」
「心配ね」
香はそう言いながらクスクス笑い出し、
「それにしても、課長の絆創膏、傑作だわ」
「真弓、その事も?」
「ええ、メールに書かれてた」
事情を知らない藤崎君は、律子と香がどうして笑っているのかわからない。
「ねえ、何がおかしいのか、教えてくれませんか?」
律子と香は顔を見合わせて笑った。
「ありがとう、須坂君」
コーヒーを持って近づいて来る須坂君に律子が言うと、
「残念でした、これは香先輩にです」
「ええ? 私には?」
「ご自分でどうぞ」
須坂君はニヤリとして香に近づく。
(変わり身が早い奴だな)
呆れながらもホッとする。
「はい、コーヒー」
代わりに藤崎君が入れてくれた。
「あ、ありがとう」
「でさ、そろそろ、公表しない?」
「うーん」
律子はそれに関してはまだ尻込みしてしまう。
「どうして知られたくないのさ?」
藤崎君の疑問は正論である。でも律子は、
「隠していた方が、ドキドキして楽しくない?」
「そうかなあ」
藤崎君は納得していなかったが、自分の席に戻って行った。
二人は知らないのだ。須坂君が、二人がロビーに行っている隙に、皆にばらしてしまった事を。
「知らぬが仏」であった。
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