6-9: だいすきのキス
本当はアタシのことなんてとっくに諦めてしまっていても不思議じゃないのに、来てくれてうれしいだなんて言ってくれる。その優しさについ甘えすぎてしまっていたのが、アタシの悪いところだろう。だけど、頬を拭ってくれるような優しい声に、余計にアタシの目からは涙がこぼれ続けた。
「セナ」
「あ、ダメっ!」
「え?」
何ならもう、こっちを向かないで居て欲しいくらいだった。さっきの演奏会直後みたいに、自分の気持ちに抑えがきかなくなっている。『気持ちが溢れる』っていうのは、もしかするとこういうことなのかもしれない。今はきっとアタシの想いの代わりに、涙があふれてきてくれている。間違いなくぐしゃぐしゃになってしまっている自分の顔を、薄明かりの下だとしても見られたくは無かった。
「アタシからそっちに行くから、さ。アストはまだ、こっち向いちゃ、ダメだから」
「……オルフェウスみたいだね」
アストは月明かりくらいに薄らと笑った――ような気がした。顔は見えないけれど、その雰囲気がふんわりと丸くなったように見えた。
「でも、それを言ったのって、オルフェウスでもないし、エウリュディケ……だったっけ? それでもないでしょ?」
「あ、覚えててくれたんだ」
「それは、もう。覚えちゃうよ。あれだけアストがいっぱい、楽しそうに教えてくれたんだもの」
ダブルデートの日、アストがアタシを助け上げるみたいにして連れてきてくれた大学博物館。その展示の中には『夏の大三角』についての項目もあった。よく教科書にも載ってるし、テストなんかにも出やすいアレだ。
「内容が、ちょっと切なかったもの」
「『オルフェウスの竪琴』とかもそうだけど、ああいうお話多いんだよね、神話って」
そう言ってアストは笑う。
『夏の大三角』を構成する星座は、はくちょう座、わし座、こと座。その中のひとつ、こと座に関する話が、アストが今言った『オルフェウスの竪琴』。
蛇の毒にやられて死んでしまった、オルフェウスの奥さんであるエウリュディケ。彼女の死をあまりにも悲しんだオルフェウスは、彼女を黄泉の国から連れ帰ろうと死神・ハデスにかけあった。オルフェウスの予想に反して、ハデスは意外にもオルフェウスの頼みを了承したが、その見返りとしてなのか彼に対してこう告げた。
――『現世への帰り道では、お前は絶対に後ろを振り向いてはいけない』、と。
だけれど、誘惑に負けてしまったオルフェウスは、一瞬だけ後ろ――エウリュディケが付いてくるその方を見てしまう。当然ながら、エウリュディケはその直後に再び黄泉の国に引き戻され、オルフェウスは永劫エウリュディケに会うことはできなかった――そんなお話だ。
「だから、アストは絶対にこっち見ちゃダメだからね」
「二度と会えないのはイヤだね、さすがに」
「アタシだってイヤだよ。アストが、……いなくなるなんて」
エウリュディケに二度と会えなくなってしまい、悲しみに暮れたオルフェウスは、そのまま自死を選んでしまう。
オルフェウスの父親であるアポロンは、息子が愛用していた、かつて自分がプレゼントした竪琴を空へと掲げることにした。それが今空に浮かんで見える、それがこと座なんだ、って――。
切ないなぁ、なんて思いながらアストの追加説明を聞いていたあの日の自分に、ちょっとだけ感謝だ。ちょっとわかりづらいときもあるけれど、案外冗談も好きなアストのとびっきりの天文ツッコミをスルーしないで済んだ。
「……でもさ。アスト、ちょっとズルい」
「何が?」
だけど。まずはちょっとだけ、アタシに余計なことを考えさせてくれたことを詰ったとしても、きっとバチは当たらないと思う。
「『煌星の丘伝説』ってさ、ホントは無いんだって?」
「……バレちゃったか」
「うん。……あれって、なんとかアタシが食いついて、元気になりそうな話題を作ろうって思って言ってくれたんでしょ? アタシ、すっごい落ちてたもんね、あのとき」
同じくダブルデートの日の、その帰りの電車の中。煌星祭の話を振ってきたアストが持ち出した話。――『煌星祭の最終日の夜、丘の上から花火を見ると幸せになれる』という話だ。そういうタイプの噂話が好きそうな上級生――というか、テニス部の先輩と、学校祭実行委員の先輩にもちょっと訊いてみたところ、みんなが口を揃えて『知らない』と言った。そもそも陸上グラウンドあたりからでも花火は充分見えるので、その丘に上って見るという発想が無かった人までいたくらいだった。
「あー、そこまでバレてたの?」
「ごめんね。その手のネタとかゴシップが好きな人とかに訊いちゃった」
「……カッコつかないなぁ」
言いつけを守るアストは、アタシに背を向けたままでガリガリと頭をかく。照れくさいような笑みを浮かべているのが、彼の背中からでもわかってしまう。基本的にポーカーフェイスの雰囲気が強いアストが恥ずかしがっている姿なんてちょっと珍しい。
「まぁ、誰かに訊かれた後のこともロクに考えないで、そういうことを言ったボクがダサいだけの話なんだけどね」
「ううん、そんなことない。全然ダサくない」
照れ隠しで言っているつもりなのかもしれないけど、それだけは絶対に否定する。強い口調で言われたからか一瞬だけこちらを向きそうになったアストは、すぐに思い直して花火が上がる方を見つめた。
「あの時のアストは、間違いなくアタシを支えてくれたんだもん。それだけは絶対に間違いないから。……だから、絶対、ダサくなんてないんだから」
――前にアストは、アタシのことを『星の光みたいに真っ直ぐ』みたいなことを言った様な気がするけれど。
「……違うね、あの時だけじゃないね。アストはいつだってアタシのことを見てくれてて、いつだって暖かいことを言ってくれてさ」
アタシにとってアストは、その星の光を真っ直ぐに、いちばん近いところまで見に来てくれる宇宙飛行士みたいな存在。どんなに遠いところにあるものだって、自分の足で近づいて、自分の手をしっかりと伸ばせる人。だからこそアタシにとって、アストはいちばん近くて、いちばん近くにいて欲しい人になっていた。あまりにも静かに寄り添っていてくれていたから、鈍いアタシが気づかなかっただけ。こんなにも優しい力で守られていたことにようやく気づくことができて、本当に幸せだと思えた。
「ねえ、アスト」
声の大きさにまでは気を遣っていなかったけれど、それでも極力気付かれないように、足音だけは立てないように近付いてきた。
あと少しで、彼に触れられる。
「この花火をアタシと見てさ。このままアタシが『アストと付き合いたい』って言ったら、アストは幸せかな?」
――触れる。
線は細く見えるけれど、結構ハードなトレーニングをすることで有名な吹奏楽部員、実は筋肉質なアストの背中に抱きつくようにして、彼に触れた。
「……幸せに、決まってる」
「ほんとに?」
「本当に」
はっきりと答えたアストの声も少しだけ震えて、その震えを隠すようにアタシが回した手を力強く握ってくれる。
「……アタシも幸せだからね」
アストが頷いた。回した腕に、アストの頷きも気持ちも伝わってくるようだった。
「じゃあ、もういっこ。アストがもうちょっと幸せになってくれそうなこと、していい?」
「なに?」
回した腕を少しだけ緩めながら、それでも密着したままで彼の前の方に回る。見上げればそこには、今はもうかけがえのない、アタシが心の底から大好きになった人の笑顔があった。
「あ、もう見てもいいんだ」
「うん。……だってアスト、振り向いてはいないでしょ」
「……それもそうだった」
――だからきっと、もう離れることはない。
身体に回していた腕をアストの首に回し直す。
「セナ?」
「うん。……アスト、だいすき」
思いっきり背伸びをして、それを察してくれたアストが少しだけ屈んで。
今度はアタシから、彼の唇へと、『だいすき』をいっぱいに込めたキスをした。




