6-1: 開幕直前、学園祭
目覚まし時計が鳴るのと同時に止める。身体を起こす午前五時。
まぶただけは開いていたものの、寝起きのアタマはまだ完全に身体にまで意識を向けられないらしく、ちょっとだけふらついた。とはいえ、そのまま目をつぶってしまったら今度は二度寝では済まない状態になるのもわかっていたので、関節ひとつひとつの動かし方を確認するみたいにゆっくりと立ち上がって自分の足を階段へと向けることにした。
あれだけあったはずの準備期間も今日の午前中で終わり。夜からはいよいよ煌星祭が開幕する。そんな週末だ。
途中何度か眠気をごまかすように立ち止まりながら何とか階下へと降りれば、リズミカルにまな板を叩く包丁の音が耳に入ってくる。
「あら、おはよう」
「おはよー……」
母・白水萠美が一瞬だけこちらを向いたが、すぐにまな板の上のニンジンに集中し直した。アタシのお弁当なのか、それとも今日の朝ご飯なのかはわからないけれど、少なくとも有り難いということだけは解る。――うん、やっぱりアタシのアタマはそんなに正常に動いていないらしい。
「とりあえず顔洗うなりなんなりしといで」
「んー……」
「亡霊かなんかか」
情け容赦ない母からのツッコミを背中に受けながら、とりあえず言われるがまま脱衣所へと向かうことにした。
○
シャワーの温度設定を忘れて思いっきり首筋に冷水を浴びたせいか、やたらとしっかり目が覚めてしまったのは、全くもって内緒に出来なかった。家の外にも聞こえたんじゃないかと思えるくらいに『うひゃああああ!?』と叫んでしまったので、どう足掻いてもキッチンの母には筒抜けだったわけで、そのあたりは諦めるしかなかった。何かを言われたとしても取り繕う気は全くなかったし、取り繕えるモノもない。
「それにしても案外しっかりと続いたわね」
「何が?」
再びキッチンに戻ると、朝ご飯の用意を終えていた母が意外そうな顔をしながら言ってくる。
「早朝出勤」
「出勤て」
「あ、そっか。……出社?」
「いや違うし。意味同じだし」
――意外と母上もまだ寝ぼけていたりするとか? 朝ご飯の味にはちょっと気を付けた方がいいのか、とかいう失礼なことを思ってみたりする。
「出校?」
「登校でしょ」
「それ」
文字的に『出校』ならギリギリで合ってるとは思うけれど、その発音だとどちらかと言えば『出向』とか『出航』っぽさがある気がしてしまった。
「とくに今日なんて始発でしょ?」
「まぁ一応、学祭の実行委員ですし?」
「よく務まったわね、アンタに」
「あ、それ失礼」
あんまり否定はしないけれど。でも、みんなの協力もあってクラスの騒動を収めたりしたわけで、そのあたりはちょっとくらい誇りに思ってもいいのかな、なんて思っている。きっと少しくらいなら罰も当たらないはずだ。
「今日で終わり?」
「そう……なるかな? 明日の準備は今日中に終わらせないといけないことになってるから」
雰囲気としては土日の二日間が祭りの本番で、今日はいわば前夜祭。今日は夕方までは準備で、五時を回ったくらいからいろいろなイベントが始まり出すという日程だった。
「そっか。明日と明後日ってお昼要らないんでしょ?」
「うん」
「ぃよっしゃー! ワタシは久々に寝坊できるー!」
力強いガッツポーズをアタシに見せつける母。ウィンブルドンとか四大大会のひとつでも制覇したくらいのテンションだ。そこまで全力で寝坊する宣言をされてしまっては、娘としてかけてあげられる言葉は――。
「ここ数日間、まことに、ありがとうございました」
「いえいえ、なんもなんも」
ぺこりぺこり、とお辞儀をし合う。普段じゃあり得ないくらいの早起きをし続けたのはアタシだけじゃない。それに合わせてお昼のお弁当を作ってくれた母もだ。アタシよりはもう少しだけ朝に強いタイプとはいえ、恐らく他の子のお母さまたちよりは弱いと思う。前にアタシが朝の弱さを指摘されたときにやけっぱちで「じゃあ、お母さんはどうだったの?」と訊いたところ、思いっきり話を逸らしてくださったあたり、恐らく弱かっただろうとは思っている。他にも、中学時代の部活のときに友達から聞いたみんなのお母さんの話と、ウチの母とを比べたときにも察してしまっていた。
「家出るのは遅いの? 明日とか」
「たぶん普段の授業あるときとかと同じで大丈夫のはず。何かあったら教えるね」
「ん、おっけー」
そんなことを話している間に、もうそろそろ始発にギリギリな時間帯が近付いてきていた。以前聞いた話によると、今年の三月あたりから始発の発車が今までよりも二十分ほど早くなったとか。有り難いような迷惑なような、よくわからない話だった。
○
ほとんど人影のない久方駅のホームに立つ。季節はだいぶ夏になっているとはいえ、この時間帯だとまだ風も冷たい。この地域では夏真っ盛りでも深夜や早朝だけは風が冷たい。気を抜いて窓を開けたまま寝ようものなら夏風邪まっしぐらみたいなところはある。ちなみにアタシはそれでもちょっとだけ窓を開けたままで寝る派だ。
まもなくして列車が入ってきた。乗客の数もホーム上の客と同じように少ない。余裕で座れる。何なら隣の席に荷物を置いたって絶対に文句を言われないくらいだ。実際、どこぞのサラリーマンがそうしていた。幸いアタシはそこまでの荷物ではないので、いつも通りに座ることにした。
煌星祭の準備があるから、始発に乗って学校へ行く――。それは決して間違いでもウソでもない。事実の一端である、ということだけは確かだ。
「……くふぁ」
ただ、もちろんだが、それだけのためにこんな時間の電車に揺られているわけではない、というもまた事実なわけで。アタシは何度目かわからないあくびをしながら、何とか眠気をごまかすようにスマホをいじった。
アストとフウマとの一件以降、アタシは自発的に二本ほど早い時間の電車に乗るようにしていた。煌星祭の準備だったり部活の朝練だったりとそれなりの理由をつけることで、アタシなりに自然な形に見えるようにしながら三人と距離を取ることにしていた。
その理由は、ほとんど結論は出ているとはいえ、その上で自分の気持ちを落ち着いて見直すためだった。あの日フウマに言われたことが果たして本当なのか、紛れもない自分の気持ちなのかを見直す良い機会だと思ったのだ。
――だけど残念なことに、そんな理由付けでの早出が出来たのも最初の内だけだった。
テニス部の朝練があるからと偽ったものの、テニスコートに行ってないと辻褄が合わないと勘付かれるのが嫌だったので実際に向かってみたのが、ある意味では運の尽き。煌星祭の準備でいつも通りの練習時間が取れないことを危惧していた先輩たちが、本当に自発的な朝練をしていた。
ウソをついても仕方が無いので当たり障りの無い範囲で本当のことを伝えると、にっこり笑顔になった先輩たちは『やる気があるのは良いこと』『ただ言い訳に使われるのはイヤだなぁ』『ってことなので、明日からはもう三十分早く来てね』という、朝に弱いアタシにはなかなかの死刑宣告レベルな内容のことを告げてくれた。
これにしてアタシは、問答無用でアストたちとは距離を置く羽目になってしまったのだ。――本当はそこまで本気で離れるつもりはなかったんだけど。
今週になってからはとうとう『朝早く来られる人は学祭準備をしましょう』ということになってしまったので朝練は無くなったのだが、今更早朝登校を変えることもできず、今日に至った、というお話だった。
ちなみに、夏休み後も朝練は存在するそうだ。頭と胃が痛くなってきそうな話だった。