十二時の鐘が鳴ったあと
「マリエル・アトレ侯爵令嬢。きみにはもううんざりだ。早々にここから出て行きたまえ」
お城の大広間でひらかれていた舞踏会のさなか。コルティエ国第一王子であるアルベール殿下のお声が突然響きました。
殿下の麗しい碧眼には、冷たい怒りが滲んでいます。わたくしは驚きのあまり、その場に立ちすくんでしまいました。
「な、なぜですの? わたくしは殿下の婚約者」
「候補だ。まだ婚約はしていない」
「でも」
「きみがシュゼット嬢にした数々の振る舞いを、私が気づかないとでも思ったか? たったいまも、彼女のドレスの裾をきみの足が踏みにじったのを、私はしっかり確認した」
そんな! すばやくやったつもりなのに、バレていたなんて……!
「しかもこれがはじめてではない。何度も何度もだ。見よ、おかげで彼女のドレスの裾は破れてしまった」
「わ、わざとではありません。それにその裾はきっと最初からほころびかけて」
「そのほか、昨日までの数々の嫌がらせについてもちゃんと調べはついているのだ」
殿下の後ろにたたずんでいる、楚々としていかにもしとやかな風情の娘がシュゼット・マルロー伯爵令嬢です。不安そうな彼女を気遣い、やさしく寄り添いながら殿下は続けました。
「このシュゼット嬢が、先日ひらかれた園遊会を無断欠席したのは、きみが招待状を別の日時に書き替えたからだ。また晩餐会を途中退席したのは、きみが彼女のスープに大量のマスタードを混ぜたからだ。そして今日の舞踏会、遅刻せざるをえなかったのは、きみが彼女の靴に釘を入れたせいであやうく怪我をしかけたからだ。幼子か、幼子のいたずらなのか? 幼稚すぎて断罪するのもどうかと思っていたが、もう我慢できない」
「殿下、こんなところで仰らなくても。マリエル様がお気の毒ですわ」
眉を寄せたシュゼットがひかえめに口をはさむと、殿下は感動したように彼女を見下ろしました。
「シュゼット、きみはやさしすぎる。だがきみだって、いつまでも我慢しなくていいんだよ」
わたくしはたまらず叫んでいました。
「お待ちになって、殿下。シュゼットは、たまたま魔女の加護を受けて舞踏会に入り込んだだけのつまらない娘ですのよ。それなのに」
わたくしの指摘を、殿下は完全に無視なさいました。
「黙りたまえ。はっきり言っておくが、私がきみを愛することはない。私の愛は」
一呼吸おき、つまらないはずの娘を熱くみつめる殿下。
「すべてきみのものだ、シュゼット。私は本日この場で、シュゼット・マルロー嬢に求婚する!」
大広間につどっていた大勢の客たちは、みな一様に息を呑みました。そんな中で、わたくしはただ呆然と立ち尽くしていたのでした。
ああ、あのときのことを思い出すだけで、いまも胸がつぶれそうになりますわ。
いつもやさしくておだやかなアルベール殿下が、あんなにも感情的なお声を出されるなんて。
あんなにも浅はかな発言をされるなんて、夢にも思いませんでした。
シュゼットのせいですわね。あの娘のせいで、わたくしの殿下はすっかり変わってしまわれた。
いままでは、わたくしがどんな我儘を申し上げても笑って受け入れてくださいましたのに。
たしかにわたくし、殿下の仰るとおりシュゼットにいくつかの意地悪をいたしました。でもそれは無理ないことだったと思うのです。
だって彼女は、仲睦まじかったわたくしと殿下の間に突然割り込んできて、そして盗んでいったのですもの──殿下のお心を。
あの晩、気まぐれな老魔女がシュゼットに情けをかけたりしなければ。
かぼちゃを馬車に、ねずみを馬に、とかげを御者に変身させてお城に連れていったりしなければ。
そうすれば、わたくしも意地の悪いことをせず、楽しい毎日を過ごしていられましたのに。
わたくしが生まれたアトレ家は、代々国王陛下にお仕えしてきた由緒正しきお家柄。侯爵である父は私生活でも陛下と親しく、わたくしも幼いころより王家のかたがたと懇意にさせていただいていました。
特にアルベール殿下とは年齢も近かったので、お話しする機会も多かったのです。
そんなわたくしが殿下の婚約者候補に名を連ねたのは、当然の成り行きというものでした。
わたくしは、幼少時より妃教育を受けて研鑽を積んでまいりました。
王族にふさわしい知識を得るために、苦手な数字も一生懸命暗記しましたし、外交になくてはならない外国語の習得も欠かしたことがありません。
生まれついてのはなやかな容姿にはさらに磨きをかけましたし、舞踏会では誰より上手に踊れるよう、日々鍛錬いたしました。
アルベール殿下も、そんなわたくしにことのほか目をかけてくださって。
おかげで舞踏会で殿下と踊る回数は、どの令嬢たちよりもわたくしが多かったのです。
それなのに。
あの夜の舞踏会にシュゼットがあらわれたときのことは忘れられません。
開催時刻からかなり遅れて到着した彼女は、エスコートもなくたった一人で、心細げにきょろきょろとあたりを見回していました。
まるで田舎から出てきたおのぼりさんのような風情です。そのため、大広間の端にいたにもかかわらず、彼女の姿はやけに人目を引きました。
ええ、おのぼりさんだから目を引いたのです。けして美しかったからではありません。
わたくしと踊ろうとしていた殿下が、ふいに動きを止めて彼女の姿に見入ったのも、別に見とれたからではないのです。
シュゼットは、華奢な身体に海のように青いドレスをまとい、ゆたかな金褐色の髪を背中に流した姿でたたずんでいました。
「あの令嬢はどなただろうか」
と、殿下がたずねられました。わたくしは答えられませんでした。はじめて見た顔だったからです。
すると殿下は仰いました。
「とまどっておられるようだ。ちょっと声をかけてさしあげよう」
わたくしは嫌な予感がいたしました。殿下の口調がいつになく早口でしたし、止める間もなく彼女のほうに歩いていってしまわれたからです。
もしかして、あの青いドレスがお気に召したのでしょうか。
わたくしが着ているドレスは淡いけれどつややかなピンクで、今日のために何度も染め直して仕上げたものです。
殿下もとてもほめてくださいましたし、青がお好きだなんて聞いたこともありませんのに。
それとも髪がお気に召した?
わたくしの栗色の髪は、細いリボンを絡ませながら丹念に結い上げられ、巻き毛のふさが肩にかかるよう絶妙に調整されています。
あの子の髪などただ垂らしただけで──まあよく見れば淡くきらめくクリスタルを散らしているようですが──特に時間をかけたスタイルだとも思えません。
一方アルベール殿下は、その美貌と黒髪を十二分に引き立てる純白のテイルコートに身を包んでおられます。
白い衣装は大広間でも殿下だけ。最高に高貴なご身分だと一目でわかる殿方に、ふいに声をかけられて、シュゼットも驚き当惑しているようでした。
けれど、彼女があとずさりしたとき、ちょうど音楽が変わりました。
壁際にいる楽団が奏ではじめたのはスローワルツ。殿下がもっとも得意とされる、ゆったりした三拍子の調べです。
殿下はごく自然に歩を進められると、彼女の手をやさしくとっていざないました。殿下の誘いをことわる女性がいるはずもなく、彼女もおずおずとワルツの体勢に入ります。
ふたりは最初は、何か短い会話をかわしながら、波間をただようように軽く揺れているだけでした。
ですが音楽の高まりとともに熱が入ってきたらしく、やがて海原に出ていくように、大広間の中央へとすべり出ていきました。
高い梁から吊り下げられた蝋燭のシャンデリアが、ふたりの姿を照らし出します。磨き抜かれた大理石の床に、明かりとともにその姿が映り込みます。
広間で踊っていたたくさんの人々は、いつしか踊るのをやめてふたりのために場所をあけていました。
なんて素敵なおふたりでしょう……。そんな感嘆の呟きが、広間のあちらこちらから聞こえてきたのは、聞き違いにちがいありません。
だって素敵に見えるのは殿下のリードが素晴らしいからであって、シュゼットがうまいわけではないのですから。
練習を重ねてきたわたくしにはわかります。
あの娘は殿下にうながされるまま、前に、後ろに、そして左右に揺れてはターンをくり返しているだけ。
そのたびに青いドレスの裾が水輪のようにひろがり、内側にたっぷり重ねられた白いチュールがひろがり、そのあでやかさに人々が息を呑んでも……それは単なるドレスの効果であって、本人の力ではないのです。
ダンス自体はわたくしのほうがずっとずっと上手です。そもそも殿下があれほど巧みなリードをなさるのは、わたくしが過去に何度も助言を差し上げた成果にほかなりません。
殿下と彼女は手を離さないまま次の曲も一緒に踊り、大広間の視線を独占し続けていました。
さすがに三曲目も踊るような無作法はしませんでしたが、相手を変えてもすぐまたもとに戻ってしまい、最初は曲目を数えていたわたくしも、途中でやめてしまいました。
仕方なく、誘ってくださる別の殿方と踊って過ごしましたわ。気乗りしませんでしたが、大広間で壁の花になるわけにはいきませんもの。
そうこうするうちに、いつのまにか時刻は夜中の十二時に。
夜中と言いましても、舞踏会は夜にはじまり、日をまたいだ三時頃まで続くもの。わたくしも後半戦に望みをつなぎ、気を取り直そうとしていました。
ところが。
大時計の鐘が時を告げ始めたとたん、シュゼットの様子が変わりました。どういうわけかアルベール殿下の手を振りほどき、いきなり外に向かって走り出したのです。
待ってくれと叫びながら追いかける殿下。青ざめたシュゼットは、返事もせずにドレスの裾をからげて逃げていきます。
わたくし? わたくしもあわててあとを追いました。
何が起きたのか、見定めないわけにはいきませんから。
真夜中の庭園にはいくつもの外灯が輝いていて、走り出た彼女がころぶようなことはありませんでした。けれど男性の足にかなうはずもなく、殿下はほどなく彼女をとらえました。
言い合う声が、灌木の後ろにかくれたわたくしのほうまで聞こえてきます。
「行かないでくれ、シュゼット」
「殿下、お許しください。十二時を過ぎると魔法がとけてしまうのです」
「魔法?」
「お聞きにならないで。今日はとても楽しかったですわ。さようなら」
あぜんとしている殿下の手から逃れると、彼女はふたたび走りはじめました。あらわれたときもそうでしたが、これはまたずいぶんと唐突な去り方です。
けれど、何も残さなかったわけではありません。
彼女が去ったそのあとには、主をなくしたガラスの靴が、片方だけぽつんところがっていたのでした。
アルベール殿下は、彼女の置き土産を拾い上げると、ご自分の部屋で大切に保管なさいました。
そして切ないため息をもらしつつ、心ここにあらずの日々を過ごすようになられたのでした。
わたくしの心のほうは、おだやかではありませんでした。
でも、殿下がどんなに彼女を気にされていたとしても、しょせん一夜限りの短い出会いです。名前のほかには何ひとつ知れないような娘より、侯爵令嬢であるわたくしのほうが、王家にはずっと魅力的。そうに決まっているはずです。
けれど……。
ほどなくして、彼女の身分はあっけなく判明いたしました。
平民ならよかったのですが、まずいことにシュゼットは伯爵家の娘でした。若干落ちぶれた家柄とはいえ、マルロー伯爵家の三女だったのです。
名乗り出たわけでもないのになぜわかったかといえば、それは殿下がことの元凶──ええ、元凶ですとも──である老魔女を、お城に呼び寄せたからです。
魔法がとけるという言葉から魔女を連想するのは、王家の方々にとっては自然なことでした。
これは市井にはほとんど知られていませんが、コルティエ王家は代々、魔法を使う不思議な人々といくつかの契約を結んでいます。
王家の慈善事業を魔法で補助してもらう、というのがその契約です。
たとえば聖誕祭の晩、空飛ぶソリに乗ってやってくる、あの陽気な老人たち。彼らは魔法を駆使して子どもたちにプレゼントを配達しますが、その資金が王家から出ていることを、わたくしは妃教育の中で学びました。
それと同じように、貧しい娘に一夜の夢をさずける老女たちもいて、たいていの場合、それは舞踏会に出席するというかたちで実現します。
ですから、シュゼットがその恩恵を受けたというのは、たやすく想像できることなのでした。
ただ、この際の人選が魔法使い次第だというのが問題で、どのプレゼントをどの子に配るのか、どの舞踏会にどの娘をつれていくのか、それは魔法を使う本人にしかわかりません。
王家もそこまでの興味はないので、いちいち彼らに報告を求めたりしません。
そのため、魔法使いたちは仕事を終えると、自由気ままにどこかに旅立ってしまいます。今回も、目当ての魔女と連絡をとるために、殿下はかなり苦労されたようでした。
とにかく、老魔女がシュゼットの家を覚えていたため、殿下は大急ぎで使者を出し、正式に彼女を招待されました。
それ以来、催しがあるたび彼女はお城に招かれるようになったのです。
シュゼットが不遇な身の上だったのはたしかなようです。マルロー伯爵は妻の死後再婚したのですが、継母と連れ子二人は、先妻の子に毎日つらく当たっていたとか。
舞踏会に連れていくこともなく、灰がいっぱいのかまど掃除などをさせていたのですから、よほど目障りだったのでしょう。
けれど、状況は一変しました。コルティエ国第一王子からのご指名となれば、継母たちも黙らざるを得ません。
いままで後妻に家庭をまかせきりだったマルロー伯爵も、ころりと態度を変えて、シュゼットがお城に上がる後押しをするようになりました。
伯爵にしてみれば、三人いる娘のうちの誰が見初められてもいいのです。後妻と連れ子たちの抗議を無視して、彼はさかんに王家に取り入るようになりました。
そんなわけで、シュゼット・マルローは誰はばかることなく、お城に出入りするようになり……そして慣れないはずの社交の場で、みるみる頭角をあらわしはじめたのでした。
最初はぎこちない動きだった舞踏会で、彼女が素晴らしいステップを見せるようになるのに、そう時間はかかりませんでした。
園遊会では、国王陛下と王妃様の難しいご質問──たしか諸国の作付け面積の比較でした──によどみなく数字を羅列して、人々を驚かせました。
かたわらには常にアルベール殿下がいて、やさしくほほえんでいらっしゃいます。
婚約者候補はわたくしを含めて数人いましたが、シュゼットがあらわれてからというもの、どの令嬢も殿下の隣に立つことはできませんでした。
わたくしも……いえ、わたくしはほかの令嬢よりはましなのです。ときどき呼びかけていただけましたから。
でも、以前にくらべればまったく足りないのは当然です。
特に舞踏会。あの場所で誰よりも輝いていたのは、このわたくしでしたのに。
数字を覚えるのは不得手でも、ステップを覚えるのだけは得意で、殿下にほめていただけるのが喜びでした。けれど、もう、わたくしの新しいステップに殿下が気づかれることはありません。
ええ、はっきり申し上げますわ。
わたくしはあの娘が大嫌い。
だって、わたくしにはわかるのです。見るからにたおやかで、はかなげで、野心など何一つないような顔をしながら、実は彼女が用意周到に殿下を狙っていたのだということが。
人目を引くよう、わざと遅れて舞踏会にあらわれて。
十二時で魔法がとけると知っていながら、ぎりぎりまで引き延ばして。
そうして殿下を十分に引きつけてから、いきなりの逃走。
しかも片方だけのガラスの靴を、自分がいた証として置いていく。
靴が残れば心も残るのは当然です。おかげで殿下は、シュゼットの思い出から離れられなくなってしまいました。
そのように正体をかくしてじらしたあとに、満を持してご登場とは──。
きっと彼女は、いつお城に招待されてもいいように準備をととのえていたにちがいありません。
待っている間に死ぬほどダンスの練習をしたでしょうし、王妃になるにふさわしい知識も身につけたのでしょう。
殿下のリードのおかげですわ。たまたま覚えた数字がお役にたってよかったですわ……口ではそんなふうに言い、恥ずかしそうにほほえみながら。
そう、彼女は策士です。
殿下もみんなも、すっかり彼女にだまされているんです。なぜ誰も気がつかないのか。
このことは無論、殿下に進言しましたけれど、まったく取り合っていただけませんでした。
だからわたくし、彼女に意地悪をすることに決めました。ほかにやりようがありませんでしたので。
幼子のような意地悪だというのは、言われなくても知っていました。
でも、仕方ないではありませんか。
わたくし、誰かに意地悪をしたことなんて、生まれてから一度もないのですもの。
そもそも、誰かを大嫌いだと思ったことさえ一度もありませんでした。
だから、あの意地悪を思いつくのが、わたくしにできた精一杯。
おかしいでしょう? 殿下にあきれられて当然ですわね。
さあ、おしゃべりはこれでおしまいです。
みっともないことはすべてをお話しいたしました。もう、わたくしのことは放っておいてくださいませ。
わたくし、舞踏会には戻りません。明日にもお父さまにお願いして、修道院に入る手続きをとっていただこうと思います。
殿下にはそうお伝えしてくださいね。
★
「しゅ、修道院?」
と、ルナンがあわてて訊き返した。
「いや、何もそこまでなさることは……。アルベール様はもう怒ってはいらっしゃいませんよ」
「殿下はおやさしいのよ。でも、わたくしは決めたんです」
ルナンは当惑した。
ここはアトレ侯爵家の庭園。手入れの行き届いた広い庭を、月の光があまねく照らし出している。
細い柱に吊られた瀟洒なランタンが、ベンチにすわっている令嬢を、月光と合わせて明るく照らす。
ルナンは先ほどから、舞踏会を退席してしまったマリエル嬢の話に、耳をかたむけていたのだった。
彼は、何人かいるアルベール王子付き侍従のうちのひとりだ。
すっきりした長身と澄んだ瞳が印象的な青年で、人柄もたいへん誠実であったため、日頃から王子の厚い信頼を得ている。
今夜は、マリエル嬢の様子を見てきてほしいという王子の個人的依頼を受けて、アトレ家に赴いていた。
アトレ侯爵家では今宵、大々的な舞踏会が催されている。大広間がある窓はいまだ明るく輝いて、優雅な音楽がかすかにここまで聞こえてくる。
侯爵の目的はもちろん、マリエル嬢の次なるお相手を探すことであり、令嬢も乗り気になっているように見えた。
殿下は、あのときはきつく言い過ぎてしまったと反省しておられたが、そこまで心配する必要もなさそうだ。
これなら自分も、一曲くらいはダンスに参加していいかもしれない。
もちろん観察は続けなければいけないが、先ほどから何人ものご婦人に声をかけてもらっているし──。
若い男性らしく、ついそんなことを考えていたルナンだが、それが実行されることはなかった。件の令嬢が大広間から抜け出していく様子が、目に入ったからだ。
すぐに考えを中断して、あとを追う。
御不浄だろうかという予想に反して、マリエル嬢はどんどん歩を進め、なぜか屋敷の外まで出てしまった。
そして庭園内のベンチにたどりつくと、崩れるように腰をおろし、しくしく泣きはじめたのだった。
驚いたルナンは、あわてて近づき、なんとか彼女をなぐさめようとした。
あれこれ話しかけて気持ちをほぐしているうちに、彼女が語り出したのが、長い長い本音だったのである。
「と、とにかく涙をふいて大広間に戻りましょう。あなたを待っている男性たちがたくさんいます。ずっと見ていましたが、引く手あまただったではありませんか」
あせりながらルナンが言うと、マリエルは大きな瞳を彼のほうに振り向けた。
潤んでいるせいでますます大きく、吸い込まれてしまいそうだ。
「どんなに引く手あまたでも、殿下はいらっしゃいませんわ」
「そそ、それはそうですが……」
「わたくし、もう舞踏会を楽しむことはできません。いままではダンスが大好きでしたけど、それは殿下の存在あればこそだったのだと、先ほど気づいてしまいました」
少し間をあけて隣にすわっていたルナンは、令嬢の姿をまじまじとみつめた。
マリエル嬢がこんなに打ちひしがれているとは、想像だにしなかった。そもそも彼女がそこまで王子を好きとは、いままで思っていなかったのだ。
いや、好きだったのは知っているが、王子だけが好きなのではなく王城のきらびやかさに心奪われているように見えたし、これは王子も同感のようだった。
マリエルが力を入れていたのは、舞踏会のダンスやドレスや髪形で、失礼ながらこの国の政務に関心があるようにはあまり見えない。
一方王子は、政務だけに関心があるといっても過言ではなく、婚約者選びにはたいして興味がなかった。
マリエル嬢のことが嫌いだったわけではない。明るくて可愛らしい令嬢だったし、アトレ侯爵の娘というのも魅力だったので、婚約者候補たちの中では一番気に入っていたのではないだろうか。
けれど、それもかつての話だ。いまの王子はもう以前とはちがう。
本物の恋がどんなものであるのかを、王子は知ったのだ。
王城の大広間で、青いドレスのシュゼット嬢に出会った、その瞬間に。
「……魔女」
しどけなく泣き濡れているマリエルの姿に、自分でもとまどうくらい動揺しながら、ルナンが思わず呟いた。
「彼女の話は本当なのか? その……つまり、シュゼット嬢が野心を持っていたというあのあたりは……」
少し離れた木のそばで、黒猫に餌をやっていた老魔女が、マントの肩を軽くすくめる。
「まあ本当だねえ。女ってのは誰でも野心を持っているもんさ。そこの娘っ子も持っていただろう? 王子と結婚するという野心を」
娘っ子に元凶と言われた老魔女は、今宵の舞踏会でも何人かに魔法をかけていた。
そして魔法がちゃんと効いているかたしかめるため、屋敷をのぞきにきたところを、偶然ルナンが発見。この場に立ち会わせていたのである。
ルナンは苦い顔になった。
「そうかもしれないが、しかし……だいたいどうしてシュゼット嬢に白羽の矢を立てたんだ。普段は平民しか招かないのに」
「見どころがある娘だったからね。あの子は王家のためになる。王家はあたしらの大事な資金源だから、すたれてもらっちゃ困るのさ」
「どうせ、どうせわたくしなんか、王家のためになりませんわ……!」
叫んだマリエルの瞳から、またもや大粒の涙があふれた。
ルナンがあわてふためいて彼女の背に手をまわしつつ、非難の眼差しを魔女に向ける。
「魔女、なんとかしろ。涙を止める方法はないのか。こんなときのための魔法だろう」
やれやれ、と呟きながら、老魔女はこちらに近づいてきた。ちょっと首をひねってから、手にしていた杖を持ち直す。
「しょうがないねえ、特別だよ」
魔女は杖の先をふたりがすわっているベンチに向けると、大きく振った。すると先端から光があふれて、みるみるベンチを包み込んだ。
ルナンは、かぼちゃが馬車に変わるのと同様の魔法を、目の当たりにした。
木製のベンチが、またたくまに細長い小舟に変化したのである。
三日月のように両端が細く反った、銀色の優美な小舟。しかも地面からわずかに浮き上がっている。
ベンチにすわっていたふたりの身体を、もちろんそこに乗せたままだ。
これには、さしものマリエル嬢も泣きやまずにはいられなかった。船べりを両手でつかんで目をみはっていると、魔女の足元にいた黒猫が、船尾に飛び移ってきた。
杖がふたたび振られるのに合わせて、黒猫の姿が洒落た上着の船頭に変わる。
船頭は、手にしたオールで地面を軽く突いた。
すると、小舟はふわりと浮かび上がり、大きく揺れながらさらに高く上がっていった。
マリエルが小さな悲鳴を上げて、ルナンにしがみついた。ルナンもしっかりと彼女を支える。
遠ざかっていく地面を驚きながら見下ろすふたりに、魔女が声を投げかけた。
「気晴らしに出掛けておいで。ただし魔法が効くのは十二時までだ。忘れるんじゃないよ」
マリエルとルナンは、思わず顔を見合わせた。声もなくみつめあってから、ふたり同時に魔女のほうに視線を向けた。
マリエルが魔女に向かって大きくうなずき、かたわらのルナンも、了解を示すために手を振ってみせる。
それを合図とするように、ふたりを乗せた銀の小舟は、月が輝く夜の海へと漕ぎ出した。
そして夜風を受けながら、ゆるやかに進みはじめたのだった。
若いふたりが遠ざかっていくのを、老魔女は興味深げに見送っていた。
月の夜空を背景に、銀の光がどんどん小さくなっていく。自分で魔法を使っていながら毎回思ってしまうことだが、まるで夢のような光景だ。
そう、魔法は十二時までの短い夢。夢が終わればまた現実がやってくる。
けれど本当の魔法がはじまるのは、十二時の鐘が鳴ったそのあとなのだ。
シュゼット嬢はそのことを知っていたにちがいないと、老魔女は思った。
かまど掃除をしていた灰かぶり姫。彼女に声をかけたときの様子を、魔女はよく覚えている。
お城に連れていってやろうかと言ったときの、その目のきらめきを。
この機会を絶対に逃さないと決めた、あれは意志のきらめきだった。
彼女は、王子と出会うただ一度の可能性に賭けたのだ。
魔法は十二時でとけてしまったが、シュゼット嬢の仕事はそれ以降にはじまる。おとなしい外見の内に秘めた「強さ」をもってして、彼女はアルベール王子の心に魔法をかけた。
王子にしてみれば一目惚れだったのかもしれないが、それがこれほど長続きしているのは、彼女の力ゆえのこと。
マリエル嬢には気の毒だが、勝負は最初からついていたのだ。
とはいえ──。
夜空を見上げていた老魔女は、首をまわしてこりをほぐしながら、にんまりとほほえんだ。
マリエル嬢に魔法が使えないわけではない。
というより、彼女はすでに使っている。
相手はルナン。自分の「弱さ」を力にした彼女の魔法は、若い侍従の心をしっかりととらえた。
さて、それがいつまで続くか。
十二時を過ぎたあと、あのふたりがどうなるか……?
まあ何にしても、と魔女は思った。
女というのは誰だって、自分だけの魔法を使えるものなのだ。
その夜──。
マリエル嬢の求めに応じて遠くに行き過ぎた小舟は、十二時までに侯爵家に戻ることができず、街中にあえなく不時着してしまう。
難破こそ逃れたものの、その際にマリエル嬢は足を痛める。
彼女をおぶったルナンは、苦労しながらアトレ家までたどり着き、彼女の心に深い印象を残すことになるのだが──。
その印象が恋として花開くには、まだまだ時間が必要なのかもしれない。
(バナー作成 あき伽耶さま)
お読みいただき、ありがとうございました。
シュゼットのドレスの色は、ディズニーの実写映画から取っています。
アニメ版では白っぽいドレスですが、青ってとても綺麗ですね。
※ブクマや広告下のお星さまで応援していただけると、執筆の苦労が報われて元気が出ます。
よかったら、よろしくお願いいたします。