葬礼
霧雨に打たれつつ近所の鬱蒼とした森、鳥居の奥へと足を踏み入れる。古びたスニーカーで水溜りを突っ切り、一路小さな拝殿を目指す。伝えるべき内容は未だ脳内で組み上がっていなかったが、一分一秒を無駄にせんと引き戸をノックした。
「ナッちゃん。俺や。帰ったで」
細かな雨粒が覆い隠してくれる程度の声量で呟きかけると「帰ったで」の「で」を発声し終えるよりも早く、勢いよく引き戸が開いた。
「ヒナタ、おかえり! 久しぶりじゃな、まったく待ちくたびれたわ」
「こら、大声出すな。ただいま。中入るぞ」
「土産話も楽しみじゃが、わしの方も話したいことが山積みなんじゃ。いつまで滞在できるのかのぅ。そうじゃ、タケはどうした。あやつは元気にしとるか」
遮光カーテンが閉ざされ薄暗い拝殿内を照らさんばかりの喜色満面で屈託なく、タケの所在を訊ねる。
今頃は火葬炉で原形を失いつつあるタケの姿を、鳴き声を、手触りを回想しながら、俺は極力感情を込めずに答えた。
「タケなら、昨夜死んだ。その葬儀のために、急遽帰ってきたんや」
普段であれば何を話しても豪快に笑い、大袈裟に泣き喚く彼女は、今日ばかりはそうしなかった。
返事は長い沈黙と、その静寂を埋めんとばかりに突如勢いを増して屋根を叩く雨音だった。そこに雷鳴が混じることはなかった。
拝殿の外ではざあざあと雨が降りしきり、床板にもぼたぼたと幾つかの染みが生じた。わなわなと震える唇から時折、押し殺した嗚咽の声が漏れる。十数年間にもわたる彼女との交流のなかで、初めて目にする彼女の静かな泣き顔であった。
小柄な躯体を一層に縮こませ、ぺたりと力なく床に座り込む。壁に背中を預け、袴履きの膝を頼りなげに抱える彼女の隣に、俺もまた腰を下ろした。「病気や事故ちゃうで。苦しむことなく眠るように息を引き取ったそうやから、まあ幸せな部類や」と言い添えたところで瞬時に悲しみが晴れる筈もない。彼女ははらはらと涙を零し続けながら「犬の寿命とは、斯様に短いものじゃったか」と大息混じりに呟いた。
「知っておるか。ここに身を隠す前のわしは、これでも魂振りの神だったんじゃぞ」
「魂振りって、鎮魂の儀式みたいなやつか。灯籠流しなら俺も見たことあるわ」
度々日本神話における重要舞台となる土地に生まれ育ち、ましてや幼馴染みに珍妙な水神を持つ立場である。殊に宮司氏から彼女の正体を知らされてからは、各地の神社に残る伝承や神代の実態に興味が湧き、大学時代は方々の神社を参拝して回ったものだ。
数多の光が川を流れる幻想的な光景を思い浮かべながらの回答は「厳密には異なるが、まあ、似たようなものじゃな」と部分点を貰った。
「鎮魂が言葉通りに魂を鎮めて体内に留まらせるものとするならば、魂振りとは衰弱した魂に活力を与えて再生させるものじゃ。かつては出産や延命を祈る人間が絶えず来訪したものよ」
「幽体離脱しかかっとる魂を押し戻して、めっちゃ励ますんやな。まだ死ぬなー頑張れー、って」
「そんなところじゃ。身振り手振りも用いてめっちゃ励ます」
俺のとぼけた調子に合わせてくれたのか、彼女も僅かに口元を綻ばす。だがそのささやかな笑顔もすぐに憂いに染まった。「だが実際はどうじゃ」と呻く彼女の声はいつになく低かった。
「タケや、世話になった歴代の宮司の墓前に立つこともできぬ。なあ、ヒナタ。わしは歯痒い。悔しくて仕方がない」
怨嗟さえ感じさせる苛立ちを伴った涙声で吐き出すと、そのまま彼女は袴の膝に顔を埋めた。長く艶やかな髪が、すべての災厄から彼女を防護せんとばかりに小さな体躯全体を覆う。顔を隠し、声を殺し、膝を抱えてさめざめと泣く彼女は、そのときばかりは千年以上もこの土地に住まう女神ではなく、親しい友人を亡くして消沈する普通の少女に見えた。
俺もあと五、六十年もすれば命が尽きるのだろう。彼女の最大の理解者たるかの初老の宮司氏に至っては、それよりもずっと早くそのときを迎えるに違いない。タケの死を嘆く彼女の姿は、いずれ俺と彼女が迎える永遠の別れのリハーサルにも等しかった。
傍らでつむじを覗かせる小さな頭を、そっと撫でる。神様の頭を撫でるなど、世が世であれば万死に値するに違いない。だが、雨に包み隠され外界から隔絶されたこの拝殿は、俺たちだけの小さな世界であった。
艶やかな黒髪をできるだけ優しく撫でる。幼少期の妹を慈しんだのとも、大学時代の彼女に触れたのとも異なる手付きで彼女を慰めながら「ナッちゃんは、とっくにタケを延命させとるよ」と忌憚なき意見を告げた。
「ナッちゃんがおったから、ここに森が、鳥居が、神社があったから、タケは雨宿りできた。ナッちゃんもあのときタケの身体を温めとったの忘れたんか」
「……わしはただタケを抱いて撫で回したに過ぎん。あやつを生かしたのは、引き取って老いて死ぬまで面倒を見続けた、ヒナタと家族の力じゃろう」
僅かに顔を上げ、幼い仕草でかぶりを振る。例の雨の日の出会いを回想したのだろう。揺れる黒髪の隙間から覗く目は真っ赤に濡れていたが、当時を懐かしむが如く柔和に細められていた。
「あんとき、タケは赤ん坊やった。雨の中無理に連れ帰っとったら、余計に弱ってすぐに死んどったかもしれへん。あの日雨宿りさせてくれたことに、俺も、多分タケも感謝しとるよ」
タケと彼女が邂逅しなかったパラレルワールドを観測する術などないのだから、ここで議論することに意味はない。「まあ、なにを言うても全部結果論やけどな」と以降の水掛け論を封じた。
「今時のペットの葬儀はごっついで。タケの骨はちゃんと骨壷と桐箱に入れて返してくれる手筈になっとるし、位牌も作ってくれる。一部を分骨してアクセサリーにしてくれるとも言っとった」
「むむ、基準が分からぬぞ。では人間の葬儀はどれだけ派手なのじゃ」
「逆に地味なのが流行りやけれど、中にはぶっ飛んどるのもあんで。骨をロケットに乗せて宇宙に飛ばして散骨したりすんねん。ロマンチックやろ」
「なんと。子孫は如何様に墓参りすればいいのじゃろうなあ」
撫で回す黒髪が揺れる度に隙間から覗く瞳は、未だ艶やかに濡れてはいたが好奇心の光を湛えている。屋根を叩く雨音は穏やかさを取り戻しつつあった。
すんすんと鼻をそそりながら「葬式というのも悲しいだけのものではないのじゃな。わしは魂振りを成功させねば恨まれる身ゆえ、失念しておったわ」と独り言ちる。今で言うところの難手術に挑む執刀医の立場に近いのかもしれない。散々重荷を背負わされた双肩をぽんと叩く。現代の葬儀へと思いを馳せる彼女に「せや」と提案した。
「タケの骨の一部は、ナッちゃんにやるわ」
「骨?」
まるで小学生がダブりのトレーディングカードを差し出すような口調だな、と我ながら苦笑してしまう。このような提案を受けたのは初めてだったのだろう。ひたひたに涙の膜が張った双眸を限界まで瞠る彼女に、俺は頷き返した。
「ずっと持っておってもええ、気が済んだら土に還してくれてもええ。よう懐いとったからな、ナッちゃんに供養してもろたらタケも喜ぶわ。……なんや、骨は嫌か」
大きく見開いた目から、収まりつつあった大粒の涙が再びぽろりと溢れる。同時にぱたぱたと屋根を叩く音もテンポを増す。無神経な提案であったかと内心焦る俺に、しかし彼女は「違う」といとけない仕草でかぶりを振ってみせた。
「嬉しいのじゃ。魂振りどころか、友の弔いですら千年以上も適わなかった」
喚きもせず、床を転がることもなく、微笑を湛えて静かに流すそれは嬉し涙だったのだろう。慈雨が屋根を優しく打つ音と、小さく鼻を啜る音が途切れた会話の間を埋めた。
遮光カーテンの隙間から細く薄く光が注ぐ。そのささやかな白光が彼女の足袋を履いた爪先を照らすのを眺めながら「ナッちゃんはいつまで経っても泣き虫やなぁ」と軽口を叩いた。
「このままじゃ、いつまでもここで雨宿りせんとあかんなぁ」
「ならそなたが実力で笑わせてみればいいじゃろう」
「お、言ったな」
正直なところ「ならいつまでも雨宿りしておればいいじゃろう」と拗ねられるものと予想した。更に本音を言うのであれば、そうして引き止められることを僅かに期待もした。
だが上機嫌な彼女が爛々と輝く瞳をこちらに向けるものだから、芸人魂に火が付いた。演芸場のステージに立つ度に突き刺さる、観客たちの好奇と期待に満ち満ちた熱視線。それと同じ眼差しを向ける彼女の濡れた結膜も目尻も頰も、小学三年生の初夏と変わらぬ鮮やかな朱色に染まっている。俺はいつものように、密かにそれに見惚れた。
「雨、やんだなぁ」
より正確には天気雨と言うべきか、カーテンの隙間から覗く青空と微かな雨音は共存していた。
久々の新作ネタの余韻に酔っているのか、彼女は床板に突っ伏したまま荒い呼吸を続けている。抱腹絶倒しては備品に体当たりし書籍や映像ソフトの山を崩す悪癖も変わらず、台風の直後とばかりに床中にばらばらと散らばっている。出会った当初は涙を誘う童話や映画のVHSばかりだったコレクションの大半は棚に死蔵されているらしい。床に転がっているのはギャグ漫画やお笑いのDVDの比率が高いように見受けられる。俺は己の足元に転がっていたDVDのパッケージを拾い上げ、座卓に置いた。
静かな拝殿内に時折微かな思い出し笑いが漏れ、その度に格子窓から差す陽光が眩しさを増す。スマートフォンに表示された時刻は、タケの火葬が終わる時刻をとうに過ぎていた。俺はマナーモードさながら小刻みに震え続ける彼女に暇を告げた。
「明日も仕事があるから向こうに帰らなあかんけど、その前にまた顔を出すわ。タケの骨とか、遺品や写真も形見分けせんとな」
「名残惜しいが仕方がないのう。ヒナタの芸をわしが独り占めするのは傲慢というもの、人の世における才能の損失じゃ」
思いつく限りでも最大級の称賛の言葉を受けて気恥ずかしくなり、照れ隠しに「ほんなら次からは他に観客を入れるか」と軽口を叩く。存在そのものが重要機密である彼女と同席できる人物など宮司氏以外に思い付かないが、彼女の脳内では満員御礼の客席が再生されたらしい。大の字に寝転がった彼女は頰を丸く膨らませ「それは嫌じゃ。他の客の笑い声で、わしの声が聞こえなくなるではないか」と抗議した。
「連休が取れたら、また帰ってくるわ。マンツーマンのワンマンライブ開催したる」
盆休みが取れるかは定かではないものの、秋の単独ライブ終了後にはスケジュールも落ち着くことだろう。なんなら食料や寝袋を持ち込んでオールナイトで喋り尽くしてもいい。受験期に度々そうしたように。
引き戸を開ける。薄暗い屋内に、幾分か西に傾いた日の光が差し込む。日向雨も既に上がりつつあった。六月の空は暮れる気配を見せず、散り散りになりつつある灰色の雲と鮮やかな青空が共存していた。
忍び笑いで肩を揺らしつつ状態を起こす彼女に「ほな、後でな」と背を向ける。踏み出した古びたスニーカーを、空を反射して色鮮やかな水溜りが濡らす。引き戸を閉ざそうとした背中に、心底愉快そうな声がかかった。
「失敗した。もう少し、降らしておけば良かったのう」
「もっと俺と一緒にいたかったんか。モテる男は辛いわ」
「たわけ者め、自惚れおって。そうではなくて、例のあれを生で聞く機会を逸したわ」
俺は座卓に置いたDVDを見遣り、そのまま彼女へと視線を移す。笑いの余韻で未だ頰を上気させている彼女に「ほんならもっかい降らしてもかまへんで」と気障ったらしい声で求められた台詞を口にした。
「濡れてもええねん。水も滴るええ男やからなぁ」
昨秋に小さな演芸大会でささやかな賞を授与された四分足らずのネタは、所属事務所の若手芸人と抱き合わせではあったが動画配信サービスやDVD向けにも新録された。その販路に乗ったDVDを知ってか知らずか宮司氏が手に取り、彼女に与えたのだろう。悠久に等しい時間を軟禁されている彼女へのささやかな暇潰し、せめてもの慰めとして。卓上の見慣れたパッケージを眺めながら、俺はそんなことを思った。
「あはは、そうじゃなぁ。ヒナタは本当にいい男になりおった。あははははっ」
彼女は再び床へと豪快に転がり、両手を叩いて至極上機嫌に笑ってみせる。
森に響く笑声は、アマガエルの雨鳴きが覆い隠して暮れるに違いない。それでも俺はその朗らかな声が極力漏れ出ぬようにと、外から引き戸をぴたりと閉ざした。
彼女の笑い声を俺が独占するのは傲慢というものだが、このくらいの寵愛は享受してもいいだろう。
誰にも悟られぬように、元来た道を引き返す。
長年彼女を覆い隠して来た森と蛙と虫の声に見送られ、鳥居を潜り、濡れた舗道へと帰還する。
すっかり雨は上がり、霧は晴れ、雲は流され、濡れたアスファルト全体が蒼天を移す水鏡と化していた。夏の匂いと虫の声が広がる世界の一角、先刻まで雲で覆われていた空の一部に消しゴムでもかけたが如く青空の区画が生まれる。
タケと、彼女と出会った日と酷似した光景がそこにあった。
少年時代を想起させる帰路を、愛犬の思い出と共に歩き出す。
晴間と雨雲にかかる七色の橋が広大な空を彩っていた。
【完】