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回想(2)

 その日以来、俺は人目を盗んで神社の拝殿へと足を運ぶようになった。

 大抵は朝夕のタケとの散歩に乗じての密会であったが、如何せん田舎だけに顔見知りの視線が気にかかる。近所の爺婆が野良仕事をしているタイミングで神社に出入りするのは憚られ、また地元の中学校に進学してからは部活の都合もあり、一週間以上も間が空くこともままあった。

 すると不思議なもので、会えない日数に比例して天候が崩れていくのだ。一度などバケツをひっくり返したような豪雨の日に会いに行き、ほんの一時間足らず世間話を交わした帰りにはすっかり晴れ渡っていた。


 タケがあんまり彼女に懐くので、何度か「ナッちゃんも一緒に散歩せんか、服を着替えて夜か早朝に出掛ければそうそう見つからんやろ」と提案したことがある。

 だが「いかん。前にも言ったじゃろう。わしがここにおるのも、ヒナタと会っているのも秘密じゃと」と彼女が頑なに固辞するので、先に折れたのは俺の方だった。それが彼女との密会における、数少ないルールの一部であった。


 彼女が定めた約束事とは別に、俺が独自に課したノルマもある。

 毎回、彼女と会うたびに新しいギャグをひとつ披露する。その中にはいわゆるすべり芸扱いされているギャグも含まれたが、テレビや演芸場でしらけがちなそれにも彼女は涙を流して抱腹絶倒した。

 やがて単発のギャグも尽きてきて、自宅で録画したお笑い番組を繰り返し再生し、自分のお気に入りの漫才やコントを片っ端からノートに書き写して暗記した。うっかりそのノートを教科用ノートと間違えて教師に提出してしまい「お前は本当にお笑い好っきゃなぁ。これ暗記しようとしとるんか」と問われたので、教師と級友たちの視線が突き刺さる中で一本ネタを暗唱したことがある。テンポも抑揚もすっかり記憶したネタの受けは上々で教室は沸き立ち、教師も「ネタより英単語を憶えてや」と苦笑しつつも宿題ノート未提出の減点をチャラにしてくれた。

 既存の漫才やコントのネタを書き起こす作業はいつしか日課となり、それはやがて別の意味も持つようになった。

 ネタの端々に散りばめられた笑いの起点、緻密な構成と張り巡らされた伏線、漫画の決めゴマさながらに一際目立つ必殺のボケとツッコミ。それらが文章に起こすことで可視化され、データとして蓄積された。気付けば俺はお笑い芸人たちの構築した作品を分析することに夢中になっていた。


 中学三年生の夏、俺は初めて自作の漫才を彼女の前で披露した。

 決して俺の手製なのだとは明かさず、例の如く「最近人気急上昇中の漫才コンビのネタなんや」などとうそぶいて、納屋から拝借した箒をマイクに見立てて披露した。コンビ漫才向けのネタなのでボケもツッコミも自分ひとりで演じ分け、俺の理想の間とテンポで、俺の理想の構成を、俺の理想のオチへと導いた。

 ネタを完走したとき、既に彼女の正体はなかった。小柄な体に似合わぬ豪快な引き笑いを拝殿中に響かせながら床を転がり回る。すっかり成犬となったタケやブラウン管テレビや座卓に衝突しまくった挙句、案の定書籍と漫画とVHSの積層に突っ込み山を盛大に崩していた。


「あははっ、いかん、今までの中でも一等面白い。ヒナタの雰囲気や話すときの抑揚が、いつになく嵌まっておった。待て、涙が出てきた。ひーっ、ひーっ」


 彼女が涙を零しつつ童顔に屈託のない笑顔を浮かべる傍らで、俺もまた瞼の裏で決壊しかけた熱いものをひっそりと飲み込んだ。

 ——今までの中でも一等面白い。

 目的を自覚せぬままに作り上げたネタに、彼女が明確な答えを与えてくれた。俺は他の誰よりも笑えるネタを作りたい。そして彼女の楽しい、面白いという感情を更新していきたい。適うならば彼女のみならず、もっと大勢の観客にも披露してみたい。それまで漠然と抱いていたお笑いへの興味が、確固とした目標へと変化した瞬間であった。







「初めまして。ヒノクマヒナタさんですね」


 高校二年生の夏。陽光が無慈悲に突き刺してくる炎天下の八月に、その人物に声をかけられた。

 一見柔和だが、どこか厳かな雰囲気を纏う初老の男性だった。自転車で隣町まで出かけて買い物を済ませ、帰るべく駐輪場へ向かおうとした矢先に声をかけられたのだ。

 良くも悪くも近所付き合いが活発な田舎ゆえに、自宅から最寄り駅までのルートであれば顔見知りの人間は多い。だがその男性に見覚えなかった。「そうですが、どなたですか」と警戒しつつ問う俺に、彼はもまた姓名を告げる。やはり彼の名前に聞き覚えのない俺が首を傾げるより早く、静かな口調で情報が付け足された。


「■■■神社の宮司です。もっとも、そちらよりも、あなたが足繁く足を運ぶ神社の管理者と言った方が分かり易いでしょう」


 その瞬間、真夏日にも関わらず全身の血が冷えていくのを感じた。

 ■■■神社は実家とは別区画にある、有人の神社である。俺も小学生の頃に郷土学習の一環で見学したことがあった。決して派手な観光地ではないが、御朱印を貰えるだけ無人の神社よりは客入りが良いに違いない。

 宮司氏は「話せませんか。彼女のことで」と率直に切り出した。『彼女』というのがナッちゃんを指しているのは瞭然であった。しらを切っても仕方ないと判断して即時首肯し、彼の運転する乗用車に同乗することとなった。幸い自転車は車両後部に収まったため運んでもらった。

 車内で冷房の風に当たり人心地が付く。その気配を察してか宮司氏は「今年は熱いですね。雨量が少なくて知り合いの農家も困っていました」と口火を切った。


「昔であれば、旱魃(かんばつ)が続けば雨乞いが行われました。神仏に芸事を捧げたり、祈祷をして雨を呼んだ。今でこそ人工降雨の研究が世界中で進んでいるので、オカルトと言われそうですが」

「オカルトやないんですか。諸葛亮孔明が赤壁の戦いで祈祷して東南の風を吹かせたのやって、現地の気象に明るかったからってのが今の定説でしょう」

「質問を変えます。彼女と会った直後は晴れ、彼女に会えない日が続けば雨が降る確率が高いと感じたことはありませんか」


 実際、幾度となくその感想を抱いた俺は逡巡した。返答に詰まった一瞬の隙を突き、宮司氏は更に言葉を重ねた。矢継ぎ早のテンポは漫才向きだな、と場違いに感心したのを憶えている。


「薄々勘付いていると思いますが、彼女はただの巫女ではありません。古事記にも名を記される紛うことなき神様です」


 氏曰く、彼女は水と降雨と延命長寿の神である。

 創祀(そうし)の年代ははっきりとは記憶に残っていない。だが万葉集にて神社の存在が歌われており、飛鳥時代から当地で祀られているものと推察される。

 神話に語られたという彼女の出生と神格化に到るまでの顛末を教授されても、俺は一笑に付すことも適わずにいた。古事記や日本書記にも記され、神社仏閣や神話や伝承の類には事欠かぬ土地である。運転席でじっと前を見据える宮司氏の真剣さも相まり、俺は茶々を入れずに傾聴した。

 車はどちらの神社に向かうでもなく、信号も碌にない舗装路の路肩で停車した。高層建築物などない田舎町で唯一のオアシスである木陰に陣取り、尚も密談は続く。彼女と交わした数々の会話とはまったく異なる、ただひたすらに緊張を伴う至極つまらない内緒話であった。


「彼女が泣けば天も泣き、彼女が泣き止めば空は晴れる。驚くほどシンプルなんです」

「それで、あなたが彼女を軟禁しとるんですか。泣けと言わんばかりにバッドエンドの本や映画までしこたま与えて」

「仰りたいことは分かります。人道的な行為とは到底言えません。ですがそれを、歴代の宮司たちは行使せねばなりませんでした。この土地と、彼女自身を守るためにも」


 氏曰く、彼女はその能力の有用性から争いの火種となる。

 水不足で旱魃となれば農作物は枯れ果て飢饉(ききん)が訪れる。大雨で水害が起こればやはり農作物は死滅し衛生環境が悪化して病気が蔓延する。水害を防がんと堤防を作れば、田に引き込む水量も減る。雨量をコントロールできたならひとつの土地を繁栄させることも、逆に滅ぼすことも可能なのは想像に難くない。

 ゆえに歴代の宮司たちは、彼女の存在をひた隠しにした。彼女を降雨のスイッチとして扱わせぬために。彼女を奪って他より優位に立ちたいという利己心と悪意から彼女を保護するために。


「あの拝殿の本やビデオは、代々アップデートされているんです。千年以上も同じ書物を読むわけがありませんから。彼女は悠久に等しい時間をあそこに軟禁されているので、ささやかな暇潰し、せめてもの慰めです」

「その割にはテレビも見られへんし、インターネットとも無縁やけど」

「彼女の存在は最高機密(トップシークレット)ですから、テレビ端子やネット回線の工事をするにも業者を入れられないんです。あとは単純に予算不足です」

「それになんですか、あのラインナップ。本もビデオも思いっきり泣かせにかかっとるやん。本当はできるだけ泣かせて水不足を解消したいっちゅう人間側のエゴが入ってません?」

「そりゃあ適度に泣いてくだされば人間としては願ってもないことですがね、それは彼女の自由意志であるべきです。本やビデオのセレクトは完全に私の趣味でありオススメ作品ですね。昔からバッドエンドが好きなんです」


 穏やかな笑顔を保ちながらも「滅びの美学、散りゆく花ほど美しいじゃないですか。本当はもっと後味が悪いエログロ映画も彼女にオススメしたいのですが、流石に好みが分かれるので自重しました」と早口に語る。この宮司氏もなかなかどうして人間であった。

 ここまでの会話でふと疑問が生じる。俺は彼に訊ねた。


「今、俺に密談を持ちかけているのは、これ以上ナッちゃんに接触するなっちゅう警告やなかったんですか?」


 俺は彼女との密会時に、笑わせることに重きを置いている。

 この数年間の交流で笑顔が増えたのであれば、代償として涙は減っている。事実、その年は歴史的猛暑により水不足が危ぶまれていた。地元の農家が収穫量激減に喘ぎ、人々が熱中症で倒れ、蛙が干からびていく様を見たくはない。

 しかしながら宮司氏の主張を聞く限り、彼女に泣くことを強要しているとも思えない。真意を確かめるべく睨んだ視線を、彼は真っ向から受け止めた。穏やかに目を細めて「そうですか、あなたはナッちゃんと呼んでいるのですね」と呟く声は至極優しかった。


「先ほども申し上げた通りです。泣くも笑うも彼女の意志次第ですよ」

「ほんなら、今日あなたが俺に接触した理由は」

「理由はふたつです。まずは、釘を刺しにきました。彼女をあの拝殿から連れ出さないようにと」


 俺と彼女が会っていることも、彼女の存在そのものも秘密。それが彼女との密会における、数少ないルールの一部だ。今更無理に外へと連れ出す気もない俺は「もうひとつは」と先を促した。


「もうひとつは、あなたの協力を得るためです。劉備玄徳だって諸葛亮孔明を自軍に引き込むのに三顧の礼を尽くしたでしょう」

「高校生相手なら一顧で充分やっちゅう腹積もりかい。素直に値切られたるとは限らへんぞ」

「私が彼女のもとへ定期的にお伺いしているのは、あなたもご存知でしょう。その度に、犬やお笑いの話をされるのです。それはもう楽しそうに」


 そして宮司氏はこれで本題は終わりだ、とばかりにゆっくりと車を発進させる。陽炎揺らめく無人の交差点を右折する。その道の繋がる先は俺の実家と通い慣れた無人の神社であった。


「私には彼女を大笑いさせるような話術はありません。どうかこの土地に住んでいる間だけでも、あなたが彼女の支えになってくださいませんか」

「支えっちゅうても、俺はお笑いのネタを披露して、犬と遊ばせる程度のことしかできませんよ」

「充分すぎます。千三百年分笑わせて、ついでに平和的に泣かせてください。笑い泣きなら人道的にも問題ないでしょう」


 一介の高校生相手に、飛鳥時代からの人間のツケを払えと涼しい口調で無理難題を言う。やはり人間とは身勝手な生き物だ。俺は双肩にのしかかる責任の重さに逆らわず「今回は値切られといたるわ」と助手席のシートに体重を預けた。

 悠久を生きる神様の暇潰しと慰めになり得るような、恒久に笑えるネタを作りたい。

 その衝動は、プロの芸人となった今も尚ネタ作りの根幹として息衝いている。



【続く】

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