回想(1)
小学校三年生、九歳といえど、さほど昔という印象はなかった。俺がまだ若いのも理由のひとつだろうが、それ以上に土地柄変化の少ない風景によるところが大きいに違いない。
今も小学生時代も、自宅近辺から見渡せる範囲内に高層建築物は存在しなかった。広大な田畑と住宅地、野山ばかりが延々と広がる。俗に言うガラパゴス携帯が概ねスマートフォンに置き換わったり、それに伴いインターネット通販がこの十数年で急速に普及したという生活上の変化は多々あるものの、田舎は田舎に過ぎない。なんなら古いアルバムにある父の幼少期の写真と見比べても、さして風景は変わらない。そんな昭和平成令和における視覚上での変化が極めて希薄な土地で、俺は少年時代を過ごした。
ダンボールに入ったその子犬は、鳥居の足元で頼りなげに震えていた。
未明から早朝にかけて振り続けた雨が、ダンボールの縁を湿らすに留まったのはもっけの幸いであった。鳥居の柱を支える台石は地面より一段高く、箱の底をしとどに濡らすこともなかった。それに加えて鬱蒼と伸びた木々の枝葉は天然の庇となり、まだ体温調節もままならぬ子犬を雨粒から守った。これらの小さな庇護の積み重ねが、飼育責任を放棄した元飼い主のちっぽけな慈悲によるものとは思いたくもない。それならばいっそ、この神社に祀られた神様の慈悲の方が幾万分も信じられた。
近所の年寄り連中も朝の野良仕事を早々に切り上げるような、霧と雨に包まれた早朝であった。肌寒さすら覚えるような悪天候の中、外に飛び出したのもまたささやかな偶然の集積によるものだった。前日に遊び疲れて早々に就寝したこと、買ってもらったばかりの長靴を履いてみたかったこと、両親がまだ眠っており咎める者がいなかったこと。かくして俺は傘も持たずにしんと静まる雨天の舗道へと飛び出し、真新しい長靴の赴くままに神社方面へと歩き、そこで不憫な子犬と出会ったのだ。
子供の好奇心と後先考えぬ温情から、箱の底で丸くなる子犬を拾い上げた。子犬は寒さに小さく震えていたが、手の中で体温を有して蠢き、生きていた。
子供の足でも数分の実家まですぐさま連れ帰らなかったのも、僅かな奇跡の結果である。
突如上空に閃光が走り、ほんの一呼吸ののちに耳をつんざく轟音が響いた。突然の雷鳴に立ち竦んでいる間に雨粒は大きさを増し、静寂で満ちていた世界は突如、枝葉とアスファルトを叩く水音で溢れた。
傘を持っていなかった俺は、犬を抱えて最も近い軒下へと走った。田舎の町は家屋同士も遠い。鳥居から一番近い軒下は、鳥居の更に奥、無人の小さな社であった。
神社や民話神話の類も、信心深い年寄り連中も多い土地柄である。俺もまた物心ついた頃から「神社で悪戯をしてはいけない」と口酸っぱく言い聞かされて育った。だがやんちゃ盛りで、少年特有の好奇心と全能感も有していた。子犬を雨から守らなければという大義名分と、正真正銘の正義感も働いた。
参道を駆ける俺の身に、雨粒が直接当たることはなかったように記憶している。頭上を覆う木立は、俺を奥へと誘う半ばトンネルであった。
正面に進めば狛犬が鎮座するちっぽけな八幡宮が建っていた。短い石段を駆け上り、入口の引き戸に手を掛けるもがちゃりと鍵に阻まれる音がするばかりであった。当然ながら管理者である近隣の神社の宮司によって施錠されていたのだ。俺は慌てて方向転換した。
その神社には本殿こそ存在しないものの、ご神体へと続く小さな拝殿があることは知っていた。駄目元で扉が開くか確かめ、中に入れないのであれば軒下で小降りになるまで凌ごう。子供の浅知恵でそんなことを考え、やはり小さな建屋の引き戸に手を掛けた。
がちゃり、と抵抗があったのはほんの一瞬であった。
次の瞬間ばきり、と不穏な音を発して扉は細く開いた。
ろくに整備されず新調もままならなかった錠が経年劣化で壊れたのだと、今であれば理解ができる。神社の台所事情など露知らぬ当時の俺は、一も二もなく引き戸を全開にした。
一般家屋の一室とさして変わらぬ、小ぢんまりとした拝殿であった。湿った空気の中では埃ひとつも舞わなかったことを憶えている。雨と黴とがうっすらと混じり合う匂いは、決して不快ではなく子供心にも懐かしさを呼び起こす心地がした。
だが、抱えた子犬には刺激が強かったのか、或いは純粋に寒かったのか。子犬はぷしゅんと幼いくしゃみを漏らした。
「あやつとは足音が違うと思ったが、初顔じゃな。地元の子か」
その声をどう例えようか。俺は今だに彼女を的確に表現する語句を知らない。
蛇口やポンプから落ちた一粒の水滴が、凪いだ水面に触れた瞬間の音。あまり正確とは言えないが、そんな風景を想起させられる声音であった。透明感と幼げと、それらと相反するどこか湿っぽい憂いや気怠さを孕んだ女性の声で、その人物は薄暗い拝殿の隅から動いた。
「そこに抱えておるのは犬の子か。本物は見るのは久々じゃ。近頃は狼も野犬もすっかり姿を消してしまった」
その人物は照明のない屋内の隅から、僅かながらに外の光が差す引き戸の側へと歩み寄った。言わずもがな、拝殿から一歩踏み入れた場所に立ち尽くす俺の眼前に、である。
現れたのは俺と上背もさして変わらぬ、赤い目の少女であった。
彼女の容姿の第一印象を振り返るならば、真っ先にその目の色が思い浮かぶ。赤い目というとアルビノやカラーコンタクトといった角膜部分の色彩を連想しがちだが、彼女の場合は違う。黒目部分は日本人によくある暗褐色であり、赤いのはそれ以外であった。
泣き腫らした後とばかりに、白い結膜上に毛細血管が繊細に筆を走らせていた。上下の瞼から目尻にかけても目張りさながらに鮮やかな朱色に染まっている。他にも艶やかな黒髪や整った顔立ち、透けるような肌との対比が鮮やかな緋袴の巫女装束など外見的な特徴は幾らもあるのに、俺が真っ先に思い出すのは常にその双眸であった。
声に含まれた湿度も鑑み、彼女が泣いていたのは子供心に想像がついた。だがそれに反して彼女の立ち振る舞いは落ち着き払っており、幼い容姿とは似合わぬ威厳すら纏って見えた。
「わしに用事というわけではないのだろう、雨宿りか。そなた、名前は。齢は」
「ヒノクマヒナタ。弱いってなんや、俺は強いっちゅーねん。跳び箱も八段は余裕で跳べる」
「齢とは年齢のことよ。跳び箱とはなんじゃ。その子犬はそなたの飼い犬か。そやつの名前は」
「一気に質問すな。先週、九歳になった。跳び箱はなんかこうガガガッと助走つけて箱をボーンと飛び越えるやつ。犬はさっき拾った。名前はまだない」
「なんと」
鳥居の下に犬が捨てられていた件を手短に話すと、彼女は途端に目を潤ませた。ひたひたに涙の膜が張った瞳で犬を見詰め「かわいそうに。斯様な幼子を捨てるとはまっこと罰当たりな輩じゃ。よしよし、わしが天罰を食らわせてやるからな」と涙声で物騒なことを呟く。雨脚が強まったのか、拝殿の屋根を叩く雨音が一層強くなった気がした。それが気のせいなどではなく事実であるのを知ったのは、もう少しだけ後の話だ。
彼女は俺の手から子犬をひったくると「愛い奴よのぉ」と巫女装束が汚れることも厭わずに抱き締め、袖で全身をくまなく擦った。体温を分け与えられて安心したのか、子犬は「くぅん」と甘えた鳴き声を発した。小さなしっぽを懸命に振る仕草に俺もまた安堵しながら、当然の疑問を口にした。
「で、お前は誰だよ。この神社は普段は無人だってみんな言ってたぞ。泥棒か」
「泥棒とは失敬な。うん、まあ、あれじゃ。一身上の都合により、神職以外には内緒でこっそり住み込みで働いておる。ヒナタにも周りに明かせぬ秘密のひとつやふたつ、あるじゃろう?」
父親の作ったプラモデルを誤って棚から落とし、壊したパーツを糊でくっつけて何食わぬ顔で元の位置に戻したことを思い出した俺は「ある」と同意し、彼女は泣きながら器用に相好を崩した。実に表情が豊かなのが印象的な少女であった。
「名前は、まあ適当に呼ぶが良い」
「ふーん、じゃあ妖怪赤目女」
「却下じゃ。人の容姿を揶揄うなと学校で習わんかったのか、まったく近頃の餓鬼は」
「お前もガキじゃん。で、住み込みで働くって具体的になにしてんの」
少なくとも彼女が屋外作業をしている姿を目にしたことがない俺は、薄暗い拝殿内にくまなく視線を遣った。暗さに慣れてきた目でひとつひとつ確認する。
事務机も椅子も書類ケースもパソコンも電話も、その他の一般的な事務作業で用いるだろう備品もとんと見当たらなかった。まず目に入ったのは床に直置きされた家庭用のテレビである。それも薄型ではない、昔ながらのブラウン管テレビにVHS機能が内蔵された、いわゆるテレビデオだ。とはいえ当時が地上アナログ放送から地上デジタル放送へ、VHSからDVDへの変遷期であったのを加味すれば、特に不自然なことはない。
テレビの前には小さな座卓と座椅子が一台。その周囲には所狭しとなにかが積層を成している。目を凝らして見れば、書籍とコミックとVHSが乱雑に積まれて無数の塔と化していた。
「漫画とビデオ見る仕事か、楽しそうやなぁ」
「違う! いや、違わんが、楽しくないぞ。現にこれとか凄く悲しいからのう」
俺の言葉が不服とばかりに頬を膨らませた彼女は、手近な本の山から一冊手に取ると俺の眼前に突き付けた。表紙には『フランダースの犬』というタイトルと、犬と少年が仲睦まじげに遊ぶイラストが描かれている。言わずと知れた名作童話であった。
「これも、これも、これもじゃ。どれも凄く心が痛む」と次から次に山を崩して手当たり次第に見せ付ける。泣いた赤鬼、かわいそうなぞう、ごんぎつね、幸福な王子、星の銀貨、よだかの星……。幼少期に読めば少なからずショックを受けそうなラインナップが並ぶ。当時の俺は、目の前の少女の趣味嗜好に難癖をつけた。
「なんや、湿っぽいのばっかやないかい。もっと笑えるのはないんか、お笑いのビデオとか」
「お笑いとは大衆演劇のことかのう。知識としては知っておるが、ここには置いておらん」
「じゃあ吉木新喜劇も見たことないんか。エモワンも、ガギ使も、すべれない話も」
「全部見たことがない。このテレビは電波を受信しないとかで、ここにあるVHSしか見られんのじゃ。あの若造が言っておった」
曰く『若造』が近隣の神社の宮司であることを知るのも、これよりもう少し後の話になる。
ともかく、テレビのお笑い番組やたまに両親に連れて行ってもらえる演芸場が大好きな俺にとっては衝撃だった。小学校の同級生にしても、幼少期からテレビのお笑い番組に触れている連中ばかりだったのだ。
俺は「じゃあこれも知らへんの」と当時流行っていたピン芸人の一発ギャグを披露した。
途端に、彼女は笑い転げた。文字通り背中から床に豪快に転がり、げらげら泣きながら笑った。
「あはは! なんじゃそれは。くだらぬ、まっことくだらぬぞ。あはははは!」
あまりに快活かつ豪放な笑い声に、驚いた子犬は彼女の腕の中で目を白黒させながらじたばた暴れていた。反応の良さに味を占めた俺は、すかさず別の流行ギャグを披露する。彼女の笑い声は引き笑いへと変化した。
「ひーっ、こんなに笑ったのは初めてじゃ。笑い過ぎて腹が苦しい。ひーっ」
「俺もこんなに笑ってる奴初めて見たわ」
彼女の豹変に怯える子犬を避難させんとばかりに抱き上げる。両手を解放された彼女はばんばんと床板を叩き、ごろごろと床を転がり、そのまま書籍と漫画とVHSの積層へと突っ込みどんがらがっしゃんと山を崩し、ついでに座卓に足の小指をぶつけて悶絶した。
ぱっと見は神秘的な美少女のあまりにも身体を張ったリアクションに、俺もまた愉快になってしまった。俺がぷっと吹き出すと、それが呼び水となって更に彼女は抱腹絶倒した。
真っ先に目を引いた、特徴的な結膜と目尻の赤。それと溶け合うばかりに紅潮した彼女の頬の色に見惚れたことを、俺は今でも憶えている。
「その子犬はどうするのじゃ」
「また捨てるっちゅうわけにもいかへんからな。うちで飼えるか親に頼んでみるわ。あかんかったら、学校の友達にも当たってみる。それで駄目ならおとんに頼んでインターネットで里親探しするわ」
「いんたーねっと、というのは分からんが心意気やよし。犬ころ、いい奴に巡り会えたのう」
気付けば雨は上がり、雲の隙間から朝の陽光が差し込んでいた。暇を告げる俺とすっかり元気を取り戻した子犬を、彼女は晴れ晴れとした笑顔で見送った。つい先刻までの憂いを孕んだ面持ちも涙声もすっかり抜け落ちていた。
「こいつの行き先が決まったら報告に来るわ、お前にも世話になったからな。ほんまおおきに」
「一宿一飯の恩義というわけか、良い心掛けじゃ。じゃが、来るときは誰にも見つからんようにな。それからわしの存在を誰にも明かさぬように」
「周りに明かせぬ秘密、ってやつやな」
「そういうことじゃ。ヒナタは話が早くて助かる」
秘密の共有が楽しくて仕方がない、といった様子で白い歯を見せ破顔する。ころころと変わる泣き顔と笑顔のギャップが愉快この上なく、俺もまた「忙しいやっちゃな」と軽口を叩き、笑った。
薄暗い拝殿から、真新しい長靴で陽光に煌めく水溜りへと踏み出す。そのまま帰路へと踏み出しかけるも、忘れ物をしたことに気付き「なあ」と振り返った。
「さっき、言うとったやろ。お前のことは適当に呼んでええって」
「ふむ。呼び名がなくて不便なら好きにするといい」
「じゃあ、ナッちゃんにするわ。泣き虫のナッちゃんや」
学友たちがそうするような、名前や特徴の頭文字に敬称を付けるだけのありふれたニックネームでしかない。だがその陳腐な命名方法に、彼女は大袈裟に面食らってみせた。
「うーん。泣き虫のナッちゃん、のぅ……」
「なんや、嫌なんか。なら次までに別のを考えてくるわ」
「いや、うむ、先の言葉に二言はないぞ。せっかくヒナタが考えた名じゃ、好きにするがよい」
そして俺は、彼女に『ナッちゃん』という名前を付けた。
彼女は戸を開け放した拝殿の入口で、ぶんぶんと手を振っていた。揺れる巫女装束の袖が朝日に照らされて白く映えていたことを思い出す。俺もまた幾度も振り返り、拝殿が濡れた草木に遮られて見えなくなるまで手を振った。
共に子犬を守った協力者、誰にも知られてはならない秘密の友人。達成感と背徳感の入り混じった奇妙な興奮に突き動かされ、俺は子犬と共に殊更に意気揚々と帰路へとついた。
すっかり雨は上がり、霧は晴れ、雲は流され、濡れたアスファルト全体が蒼天を移す水鏡と化していた。夏の匂いと虫の声が広がる世界の一角、先刻まで雲で覆われていた空の一部に消しゴムでもかけたが如く青空の区画が生まれる。
晴間と雨雲にかかる七色の橋が広大な空を彩っていた。
あの日、後にタケと命名される子犬と共に見た虹の色を、俺は今でも克明に憶えている。
【続く】