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帰省

 タケが死んだ、と実家住みの妹から連絡が入ったのは深夜のことだった。

 タケは実家に置いてきた飼い犬だ。俺が小学三年生の初夏に拾った子犬は、十八歳にして天寿を全うしたことになる。犬にしてみればかなりの長寿、大病を患ったわけでもなく眠るように亡くなったということなので、大往生と言って差し支えない。

 それでも飼い犬の訃報にショックを受けたことには変わりない。実家の両親もひどく落ち込んでいると妹は言う。無理もない。雑種だが愛嬌のある顔立ちと性格をしたタケは、家庭内にとどまらず近所の人気者であった。

 幸い、翌日はオフだった。次の舞台までに仕上げるべき新ネタの台本は完成前だが、部屋で机に向かったところでタケの面影がちらつくに違いない。俺はテキストエディタを閉じ、妹に日帰り帰省する旨を告げた。

 地元は隣県なので地図上はさして遠くない、が、新幹線の駅も、なんなら空港も存在しない。

 かくして俺は早朝から在来線を乗り継ぎ、たっぷり二時間近くかけて地元へ帰還した。県境を越えた辺りから車窓の景色は急速に彩度を失い、やがて灰色の空から降り注ぐ雨粒が窓硝子を濡らしていく。タケを拾った日もこんな天気だったな、と涙雨の風景を眺めながらぼんやり思った。






「おや、ヒナちゃん帰ってきたんか。この前テレビで見たで、頑張ってんなぁ」


 券売機と改札機がひとつきりしかない木造平屋の無人駅を出れば、早速顔見知りと出くわした。いかにも人好きのする田舎町のおばちゃんといった風態の年配女性。俺は彼女の名前を知らないが、タケの散歩中や高校時代の登校路で幾度も挨拶を交わしたことがあった。


「聞いたで、タケちゃん亡くなったんやろ。昨日の朝まで普通に散歩しとったのになぁ、寂しなるわ」


 田舎だけに噂が早い。俺は敢えておどけた調子で返した。


「もう十八歳やから大往生や。おばちゃんにもよぉ散歩中におやつ貰ったな。世話になったわ」

「タケちゃん、ちくわ好きやったもんなぁ。ところで傘持っとらんのか。風邪ひくで」


 既に雨脚は弱まり小糠雨(こぬかあめ)と化していたが、空は見渡す限りの曇天であった。六月の大気は温く、肌を刺す冷たさが心地よくすらある。親切な年配女性はビニール傘を差し出してくれたが、俺はそれを丁重に辞退した。どのみち濡れて困るほど上等な服も着ていない。


「濡れてもええねん。水も滴るええ男やからなぁ」

「それ、あのときのネタやん。ほんまにおもろかったなぁ、家族で爆笑したわ」


 昨秋に小さな演芸大会でささやかな賞を授与された四分足らずのネタは、ローカルとはいえ公共の電波に乗り、所属事務所の若手芸人と抱き合わせではあったが動画配信サービスやDVD向けにも新録されている。それまでは所詮前座の域を出ない無名芸人だった俺と相方は、受賞を機にテレビやラジオの仕事を回してもらえるようになった。言うならば凱旋であったが、愛犬の訃報を受けた今は浮かれる気にもならなかった。

 年配女性に会釈し、別れる。一路、実家へと歩を進めた。







 碌にコンビニも見当たらぬ、戸建と田畑ばかりの地元の町を歩く。年末年始は仕事で都合がつかなかったため、前年のお盆以来の帰省となる。その頃、タケはまだ元気だった。

 田畑の中の集落を幾度か通過し、ようやくよく見知った一角へと辿り着く。

 この町は至極退屈な平地で、その大半が農地であるため田舎のくせして樹木が少ない。一方で、そこばかりが人が手を加えることを憚られたような鬱蒼とした森が忽然と姿を現す。大概は神社仏閣の類であった。

 駅から俺の実家を結ぶ通り道にも、その手の森は存在した。物心がついた頃から雑草と木々に覆い隠されたその社は、常駐の宮司(ぐうじ)はおらず常に静まり返っていた。否、昼は蝉と野鳥、夜は蛙が絶えず鳴くので梅雨明け以降は至極賑やかなものである。

 一方で六月の雨の日には、青々と色づいた木々たちが濡れた葉が重たくて仕方ないとばかりに一斉に項垂(うなだ)れる。それが幼少期に親戚の葬式で見た葬列のようで、気味が悪いと感じたのもとうに昔の話だ。

 通り過ぎがてら、ちらりと鳥居の奥へと視線を遣る。濡れた境内(けいだい)は相も変わらず無人の様子であった。


「おう、ヒナ坊帰ってきたか。タケ亡くなったんやろ、残念やったなぁ」

「おっちゃん、久し振り。もうええ齢やったからな、大往生や」

「ところで傘はないんか。うちの玄関にあるの適当に持ってってええで」

「濡れてもええねん。水も滴るええ男やからなぁ」

「おっ出た。テレビで見たネタや」


 雨合羽で野良仕事をしていた顔見知りの老人をひと笑いさせたのち、俺は生家へと帰り着いた。

 従来であれば、玄関の引き戸を開けたときに真っ先に出迎えるのはタケであった。箒にも似た尻尾を千切れんばかりにぶんぶんと振り、俺の足にまとわりついて歓喜するのだ。だが今日はその熱烈な歓迎もなく、冴えない表情の妹が「おかえり兄貴」と出迎えた。

 見慣れたリビングに敷かれた見慣れた犬用毛布の上で、タケはお気に入りのタオルケットを纏い眠っていた。元より閉じていたのか、或いは家族が閉ざしたのか、瞑目した寝顔が思いの外安らかなことに安堵した。午睡中だと言われたら信じたに違いなかった。傍らに膝を付き、いつものように頭をひと撫でする。剛毛のおかげか、死を突き付けるような体温の冷たさは感じなかった。

 散々泣き通したのだろう、母は(しゃが)れた声で「昨日の夜、寝たまんま息が止まってたんや」と呟き、麦茶をグラスに注いだ。普段は明るい母の萎れた様子に、俺は初めて老いを感じた。


「ほんまにびっくりして、こっちが息が止まるかと思ったわ」

「病気で苦しみながら逝くよりはずっとええよ。こいつはほんまに頑丈な奴やったわ」


 老いてなお快食快便、医者の世話になることもなく苦しまずに生涯を終えるなど全生命の憧れに違いない。出生こそ捨て犬というベリーハードモードではあったが、トータルで見れば幸福に違いない。少なくとも俺はそう信じた。


「なんにせよヒナタが帰って来れて良かったわ。あんたの拾ってきた、あんたの犬やからなぁ。見送れないのは寂しいやろ」

「もう葬儀屋は頼んだんやろ。いつ引き取りに来るんや」

「あと一時間くらい。ペット用の火葬車で来るから、その場で焼いてお骨も貰える。おとんも昼休みに抜けて来る言うとったわ」


 俺の問いに答えたのは妹だった。突然の愛犬の死に消沈する母に代わり、手早く俺とペット葬儀社に連絡してくれた妹には頭が上がらない。「今時のペット葬は凄いわ、全国チェーンで二十四時間受付やで。人間よりサービス行き届いてるんちゃうか」と軽口を叩きながら、一緒に火葬してもらうのだろう犬用のおやつを選り分けていた。

 それからは人間の葬儀でも度々そうであるように、愛犬の亡骸を囲みながら近況報告や思い出語りに花を咲かせた。拾った日に空に虹がかかったこと、散歩中に迷子になり一週間後に泥まみれでしれっと帰ってきたこと、俺が実家を出てからしばらくは夜泣きが続いたこと。話題には事欠かなかった。

 やがて雇用主の計らいで少し長めの昼休みを頂戴した父が帰宅し、それから間もなくペット葬儀社の職員が訪れた。喪服姿で、かつて人の葬式で目にしたのと同じ手順で合掌し、死に水を取る。穏やかに淡々と火葬の準備が進められた。

 冥土の土産にと厳選した犬用おやつや玩具と共に、火葬車の炉へと送り出す。数少ない田舎の特権、広い前庭に停められた火葬車には社名ロゴなどは入っておらず、一見ただのワゴン車に見えた。


「火葬に二時間半ほどかかります。お骨の準備ができましたらお知らせします」


 家に上がってお茶でも飲んでは、という母の提案を丁重に辞した葬儀担当者はワゴン車で待機することとなり、父は昼食をかっ込んだのちに職場へ戻って行った。家族を失えど腹が減るときは減るのだ。俺もまた久々に家族と食卓を囲んだ。普段なら俺の足元に鎮座しておこぼれを狙うタケが不在なことに違和感を拭えずにいた。

 母と妹と三人で、どこか晴れ晴れとした寂しさを伴う会話を交わす。俺の出演するテレビやラジオ番組はかかさずチェックしている様子で、近況を深く語らずとも通じるのはありがたかった。


「ヒナタ、今日は泊まってくん。晩ご飯は食べてくんか」

「いや、明日も仕事あんねん。電車あるうちに帰るわ」


 朝夕のラッシュ時であっても一時間あたり二本しか電車が来ない路線である。当然終電の時刻も都会のそれより早い。それを熟知する母と妹は特に引き止めることはしなかった。

 タケの遺骨が帰って来るまで幾分か時間があった。俺は「少し散歩してくる」と席を立った。


「傘持ってき。今日は一日中雨やってテレビで言っとったで」

「言うても小雨やからなあ。濡れてもええねん。水も滴るええ男やからなぁ」

「兄貴のそのネタ、友達が馬鹿受けしとったわ。後でサイン書いたってや」


 結局傘は持たなかった。都会から履いてきたそれなりの靴ではなく、靴箱の奥から引っ張り出したくたびれたスニーカー履きで外に出た。

 佇むワゴン車に会釈し濡れた舗道へと向かう。立ち込めるような雨と緑の匂い、霧雨に煙る障害物のない広々とした雨空、方々から微かに聞こえる蛙の声。それらに故郷の初夏を実感しながら、先ほど駅から歩いた道を引き返した。時間の流れが緩やかなこの田舎町では、子供の頃と風景も匂いもさして変わらない。せいぜいが成長に伴い視点が上昇し、リードを力強く引っ張る同行者が消えてしまった程度の違いでしかない。

 実家から数分の位置にある鬱蒼とした森が徐々に近付く。草木に覆われた古びた鳥居と小さな社。そこが俺の目的地であった。

 未だ記憶に鮮やかな小学三年生の初夏。その森で俺とタケ、そして彼女は出会ったのだ。



【続く】

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