8.心の拠り所
オディリアはずっと気になっていたが遠慮して聞けなかったことをイデリーナに聞いた。
「ねえ、リーナ。聞いてもいい? リーナは王太子殿下のことが好きなの?」
「ぶっ!」
「ちょっと汚いわよ」
イデリーナは飲んでいた紅茶を吹き出した。オディリアは慌ててハンカチを差し出す。側にいたメイドが卒なくさっと汚れたテーブルを綺麗にした。
イデリーナはローデリカ王国の筆頭公爵家の娘だ。早くに婚約者が決まっていてもおかしくないが、現在は王太子殿下の婚約者候補にいる。カロリーナ様やディック様はイデリーナをとても愛しているから権力の為に殿下の婚約者候補にはしないだろう。それならば候補でいるのはイデリーナの意志なはずだ。その真相を聞きたくて仕方がなかったのだ。
「リアが突然そんなこと聞くからびっくりしたの!」
イデリーナは首から上の全てを真っ赤にしている。それほど好きなのか。こんな楽しそうなこともっと早く聞けばよかった。
「王太子殿下のどこを好きになったの?」
オディリアはわくわくが止められない。イデリーナをじっと見て答えることを強要する。う――と唸りながらも教えてくれた。
「お兄様と仲が良くて昔から私にもとっても優しいの。アルさまはサラサラでキラキラな金色の髪もエメラルドのような瞳も綺麗でドキドキするわ。勉強が出来なくてもイデリーナは可愛いからそのままで大丈夫だよって言ってくれるし」
「あら、駄目よ。リーナ。殿下が好きなら勉強はしっかり頑張らないと。殿下がそれで良くても周りの人がいろいろ言うわ」
イデリーナはぷっと頬を膨らませた。
「少しずつでいいって、待っててくれるって言ってたもん」
可愛いけど、もんじゃなくて……。
「ウルリカさまに取られてもいいの。リーナの次に有力な婚約者候補なのでしょう?」
「絶対に渡さないわ。だから最近はお勉強頑張っているでしょう? 今お兄様と一緒に留学中だから帰国するまでにはしっかりお勉強して驚かせて見せるわ。その時には私、コーンウェル語がペラペラになっているはずよ!」
イデリーナは王太子妃になりたいのではなく殿下の婚約者になりたいんだと分かった。イデリーナらしくていいなと思う。
「じゃあ、明日から先生にお願いしてもっと厳しくしてもらいましょう!」
「え―! リア虐めないで~」
イデリーナが眉を下げ涙目になっている。オディリアが見る限りこのままのペースだと婚約者になってからの王太子妃教育できっと苦労するだろう。オディリアがシュミット侯爵家で学んだ半分も到達していない。イデリーナの恋を応援するためにもオディリアが率先してサポートをすることを決意した。オディリアは自分が異常なペースで勉強をしていたことには気付いていなかったので、イデリーナは随分ゆっくり学んでいるなと心配していた。
イデリーナは拒絶反応でなかなか最初の所を飲み込めないが、一度分かるとどんどん理解を深めていける。優しい性格はきっと慕われる王太子妃になるに違いない。あとはもう少し強気で人と対せればいいのだが、優しいのがイデリーナの良さだからきっと殿下もそのままでいいというのだろう。二人は相思相愛かあと思えばちょっと羨ましくなった。自分にもいつかそんなことを言ってくれる婚約者が出来るといいなと淡い期待を胸に抱いた。
時間が経つのは早くオディリアがローデリカ王国に来て三年が過ぎた。公爵夫妻やイデリーナとの関係は良好でオディリアは本当の家族のように過ごしている。イデリーナと出席する子供同士のお茶会で会う令嬢たちとも仲良くなった。毎日が充実していてこんな日々がずっと続くと思っていた。いずれ自分がウィルダ王国に戻らなければならない日が来ることをすっかりと忘れてしまっていたほどだ。
だから突然両親からシュミット侯爵家に戻るよう手紙が届いた時には絶望的な気持ちになった。今は元気になったが、あの家族の中で上手くやっていけるのか不安だった。
手紙には婚約者が決まったのでシュミット侯爵家を継ぐための勉強も戻って再開するよう書かれていた。オディリアを案じる文面はなく、やはりと思いながらも失望は隠せなかった。
「オディリア、また遊びに来て。手紙書くから返事を書いてね。絶対よ。風邪ひかないで。困ったことがあったらもどっでぎでぇ……」
イデリーナは別れ際、涙を流しながらオディリアを案じてくれた。血の繋がっただけの冷たい家族とは雲泥の差だ。
「ありがとう。リーナ、私も絶対手紙を書くわ。だからお勉強怠けないで頑張ってね」
「え゛?! この感動的な場面で勉強の心配なの?」
イデリーナの涙が引っ込んで顔を見合わせて笑い合った。
「オディリア。もし、耐えられないことがあったら我慢せず必ず知らせて頂戴。出来る限りのことをすると約束するわ。もうあなたは私の娘なのよ。忘れないで」
「っ……」
カロリーナ様の言葉に怖気づきそうな心が奮い立つ。カロリーナ様は逃げていいと許してくれる。ここに逃げる場所があると思うとオディリアの心は救われた。ここに自分の心の拠り所が存在する。だからきっと大丈夫。シュミット侯爵家に戻っても自分はうまくやれる。婚約者になった人だっていい人かもしれない。イデリーナのような恋ができる可能性もあるのだ。
「ありがとうございます。その時は……そうならないといいのだけど、……お願いします」
深く頭を下げ、滲む涙を誤魔化した。
そうしてオディリアはウィルダ王国へと帰って行った。