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 教師をしていた私の父が適応障害という病気になって、勤めていた学校を休職したのは、この話から三年前の秋である。私は当時小学五年生だった。


 父は数日間精神病院に入院し、ひどくやつれて退院してきた。そうしてしばらくの間、病に臥せっていた。


 するとある日、川崎に住む父の長兄(私にとっての伯父)が、「光雄(みつお)(私の父)が大変だ」ということで栃木の私たちの家まで見舞いに来てくれた。見舞いそのものはありがたいことだったが、良くないことに、伯父が当時はまっていた新興宗教の講師を引き連れてきた。講師は東南アジアのどこかの国の山奥から出てきたような怪しげな外国人で、ほとんど日本語が通じなかった。伯父は父のために大金をはたいてこの講師を連れてきてくれたのである。


 講師は客間で父と対面すると、「紙と、ペンを」とおごそかに言った。母がそれを持ってきた。すると講師は紙に黒いペンでぐるぐるぐるっと円のようなものを何重にも描き、その紙を燃やした。あとは燃えて出来たその灰を、持参したビン入りの水に漬け、やはりおごそかに言った。「飲みなさい」


 父はよっぽど精神を病んでいたのだろう、ありがたくその灰の入った水をごくごく飲んだ。この一部始終を見ていた母がうんざりして、「人の主人が大変な時に!」と怒って伯父と講師を帰らせてしまった。この灰が入ったビン詰めの水は、「ありがたい水だから」と父が言うのでしばらく客間の床の間に置いてあった。


 それから父は迷走して、「お父さんは教師になんかなりたくなかったんだ、本当は詩人になりたかったんだ」と言い出して、家のリビングの電話台のそばに置いてあるメモ用紙に詩をどんどん書きはじめた。相田みつををもじっているのか詩の最後に必ず「みつお」と書き添え(繰り返すが父は光雄という名前なのである)、どうだ、どう思う、と言って私たち家族に見せてき、その全てが恐ろしく下手なので、家計を父の給料一本に頼っていた私たち家族は本気で不安になった。


 結局父は詩人にはならず、数週間ほどして職場に復帰した。私たちもひとまず安心したたが、事はこれでは終わらなかった。この時父の看病に追われた母のほうがすっかり参ってしまい、躁鬱病を発症してしまったのだ。


 鬱は一生ものだという。母の場合も病気はなかなか治らず、今現在もこの時負った躁鬱病と闘っている。


 つまり、父が適応障害になってから三年後――Ⅰさんと私がすき焼きをつついている時――も、当然母は鬱を病んでいた。彼女は専業主婦だったが、病気のために、日々の家事と育児をまともにこなせるかどうかすら怪しい、といった状態だった。このころ、父は適応障害から回復したものの職場の人間関係は良好とはいえず、日々ストレスをためて、毎晩ひどく酔うまで焼酎を飲んでいた。高校生の兄と私はそんな両親を嫌って反抗期をこじらせ、時には物を投げつけたりして父母に反抗した。小学二年生の弟は学校でいじめられていた。


 私がⅠさんの家におじゃましたこの日、家で私が夕飯に食べたのは親子丼だった。母が病気と闘いながら作ってくれたそれは、かちかちに卵が固まり、ひどく味が薄くて、付けられていたミニサラダのレタスには泥がついたままだった。そんな食事を、私たち家族はなんの会話も無く、もそもそとまずく食べた。


 こんな、めちゃくちゃだった自分の家庭の状況や、先ほど食べた親子丼のことを思うと、私はⅠさんの情のこもったすき焼きがうれしく、つい涙がこぼれそうになったのだった。

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