5
Ⅰさんの家は街外れにある神社の近くにあった。神社から細道を北へ少し行くと見えてくる、二階建てのやや古ぼけたアパートがそれだった。
「汚いけど、気にしないで。ごめんね」
アパートの駐車場の隅にある駐輪場に自転車を停めると、Ⅰさんはそう恥ずかしがりながら私を家に案内した。
アパートの入り口のドアをⅠさんが開けて、私が続いて中に入ると、生ゴミのような臭いがかすかに鼻をついた。
ぱち。Ⅰさんが電気を点けると、玄関から上がってすぐのそこはキッチンで、ねずみ色の肌の冷蔵庫が、奥でぶーんと小さく音を立てていた。シンクには相当な量の洗い物が溜まって、フローリングの床の隅の方にはゴミが入った大きなゴミ袋が三つ、置いてあった。
キッチンを抜けて、居間に案内された。居間は十畳ほど。Ⅰさんが言った通り、床の上には脱ぎっぱなしの服や広告紙や学校でもらうプリントや、ポテトチップスの紙製の缶や雑誌やカップラーメンの空き容器などが撒き散らかされていた。
「ふふふ、ごめんごめん」
Ⅰさんはそう言いながら、それらゴミに見えないこともない雑多な物を、さっさと床の隅に移動させ、部屋の中央に位置しているコタツの周りに、何とか人ふたりが座れるスペースを作った。そうして、
「適当に座って。悪いけど、私、とりせんに――うわっ」
私の方を振り向いて叫んだ。
「え?」
「誠己、顔。血、血、すごいよ」
「ああ」
私は自分で顔に血を塗ったことを、すっかり忘れていた。
「バットで殴られたから」
「バットで?」
「うん」
当時私には物事をおおげさにする虚言癖があった。
「ひどいね。ちょっと待ってて」
Ⅰさんはそう言って居間を出、キッチンのほうへ行ってしまった。水を出す音がしたかと思うと、濡らしたタオルを片手に持ってきた。
「ほら、拭いて」
「だいじょうぶだよ」
「いや、ひどいよ、ほら」
有無を言わさず、私の隣に立って、空いている方の腕を私の背に回し、私の顔をぬぐいはじめた。タオルは、熱いお湯で濡らしたのだろう、とても温かかった。その温かさは先ほどまで外に居て冷たかった私の肌に染みて――なぜだか二十年近く経った今も、鮮やかに私の記憶に残っている。
「じゃあ、私とりせん行ってくんね」
私の顔をきれいにぬぐい終えると、Ⅰさんが言った。
「とりせん?」
「さっき、とりせんに行く途中だったんさ、夕飯買いに。テレビでも観ててくんね? 『学校に行こう』がやってるんじゃない? あ、冷蔵庫にコーラだったらあるから」
忙しそうにそう言って、アパートを出て行ってしまった。
私はⅠさんに言われた通りこたつに入って、テレビを観た。先ほど家で起きたことへの興奮が去って、代わりに、生まれてはじめて夜に女子の家に自分が居ることへの興奮が沸き起こってきた。本当に、今日、自分はこの家で泊まるのだろうか。泊まるとすれば、Ⅰさんの部屋で一緒に? それとも別の部屋で? Ⅰさんの親は帰って来ないのだろうか? Ⅰさんは円香には黙っててくれるだろうか……。そんな疑問が次々頭の中に湧いてきて、テレビの内容はまるで頭に入ってこなかった。
小一時間してⅠさんがスーパーの袋を両手にがさがささせて帰ってきた。片方の袋からはネギが飛び出ていた。玄関まで出迎えた私に、
「いいよいいよ、さっさと作っちゃうから、テレビ観てて。お腹空いてる?」
「ああ、ごめん、食べてきちゃったんさ」
「マジで? あーあ、行く前に聞いとけば良かった、二人分買ってきちゃった。買い物しながら思ったんさ、誠己夕ご飯済ませてたらどうしようって。でももし食べてなくて、それで一人分しか無いよりはいいかと思って――」
ぺらぺらしゃべりながら、スーパーの袋から野菜や肉を取り出し、キッチンの台の上に次々置いていく。その様子がどこかおばさんくさかった。
夕飯を済ませてきたとはいえ、当時私は食べ盛りの中学生である。お腹にはまだ余裕があった。Ⅰさんが作ってくれるものを私も食べられるだけ食べる、ということに決まり、居間でテレビを観て食事が出来るのを待った。
Ⅰさんが作ってくれたのはすき焼きだった。コタツの天板に載せられたすき焼き鍋は、熱々の具材と割り下が煮立って、ぐつぐつぐつぐつ、美味しそうな音を立てていた。醤油と砂糖が、湯気になって立ちのぼり、甘辛い匂いが居間に立ちこめた。ちゃんと、少なめに盛られた白飯となめこの味噌汁までついていた。不良娘のⅠさんが、こんなにまともな料理を作れるなんて、とても意外だった。
「どう?」
「美味いよ、美味い」
「良かった。食べれたらいっぱい食べてね」
「うん。これ、つゆも自分で作ったん?」
「そう。『夜にも奇妙な物語』ってあるじゃん? あれのすき焼きの話に出てきたヤツを真似して作ってんの。それ観るまでは売ってるつゆをそのまま使ってたんだけどね」
「もしかして、すき焼きにすごいこだわりのある男の人が、付き合ってる彼女の実家ですき焼きをごちそうしてもらう話?」
「そう、それそれ」
「俺も観たよ、それ。あれさ――」
そう言いながら、新しい肉を鍋から取ろうとしたら、ふっと、右目から涙がこぼれかけたので、自分でもびっくりした。慌ててわざと咳をひとつしてごまかし、
「あれ、うまそうだよね」
と何気なく言葉を継いだ。




