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円香と付き合いはじめて一ヶ月ほど経ち、二月がもう終わりに近づいたある日のことだった。その晩私は、二つ年上の兄と兄弟喧嘩をして、それがきっかけで家を出た。
喧嘩の発端は実にくだらない。
夕食後、私は家の電話の子機を自分の部屋に持ち込み、いつものようにⅠさんに電話をしていた。その電話の声がうるさいと、兄が部屋に怒鳴り込んできたのである。私の部屋は兄の部屋と隣り合っていて、そのころ兄は、私が円香やⅠさんと電話をする声にしょっちゅう悩まされていたようだった。その鬱憤がこの時爆発したというわけだ。
私は電話をやめず、兄を避けるため一階の客間へ行った。しかし兄の怒りはおさまらず、客間まで私を追いかけてきて子機を奪い取り、有無を言わさず電話を切ってしまった。そうして子機を放り投げると、おもむろに私に殴りかかってきたのである。
醜い兄弟喧嘩が数分間繰り広げられた。やがて、兄のサッカー部仕込みの頭突きが私の口に炸裂し、次の瞬間、慌ててあげた私の声で喧嘩が中断された。
「ちょっと待った、歯が折れた」
頭突きをもらった瞬間、私は口腔内に異変を感じたのである。舌で確認すると、正確には折れたわけでは無かった。上の前歯が一本、口の内側に向かって九十度倒れて、地面と平行の角度になっていた。鉄臭い血の味が、口の中に広がった。
兄もびっくりしたようで、掴んでいた私の襟元を放した。私はじんじん痛む歯の先を、左手の親指で押さえ、歯先が垂直になるように、指でぐいっと起こしてみた。するととりあえず、元に戻った。
「いってえ……」
歯は戻ったものの、弱虫な私は痛みと動転したのとでもう泣き出していた。兄はそんな私を無視して、喧嘩を終わりにしてさっさと自分の部屋へ行ってしまった。
客間に残された私は、それから愚劣な行為をした。洗面所に歯を確認しに行き、鏡に映った自分の顔を見て、泣きながら、前歯の歯ぐきからまだ口の中へ滴り落ちている血を、指でもって口の周りの皮膚に塗りはじめたのである。ただただ事を大きくして、周囲に自分を憐れんで欲しいがための行為だった。
しばらくその行為を続けて、あたかも頭突きを食らって顔中に血が散ったように見える状態になった時、私は誰かに憐れんでもらい、兄を糾弾してもらいたくて、リビングへ行った。すると父が食卓に座って一人で晩酌していた。私はここだとばかりに、
「痛い、歯が折れた、痛い」
と痛がってみせた。すると父は、そんな私を眺めながらしばらく晩酌を続けていたが、やがてひと言、
「誠己、うるさい!黙りなさい」
と、実に面倒くさそうに言い捨てたのである。
この時私は、(ああ、一方的に喧嘩を売られて歯まで折られても((正確には折れたのではなく曲がったのだが))、親は少しもかわいそうだと思ってくれないのか)とうんざりし、こんな家、出て行ってやる、と心に決めたのだった。
数分後、私は例の「青タイ」にウインドブレーカーの上下を重ね着して、ポケットに財布だけ入れ、そっと家を出た。
家の前を通る商店街の上の夜空には、星が冷たく輝いて、下弦の月が懸かっていた。私はじめじめ泣きながら、あてもなく商店街を南に歩いた。車道を走る車が、そんな私をときどき追い抜いた。
隆明の家の電話番号を控えてくれば良かった、と私は後悔しながら歩いていた。家を出たのはいいものの、泊まるところが無い。隆明ならきっと私を泊めてくれるだろうが、私は彼の家を知らなかった。となれば、向かうべきは他の友人の家、だったが、ここ最近急激に不良化して隆明とばかりつるむようになった私は、それまで仲の良かった友達と疎遠になっていて、この急場に泊めてもらえるような友人が思い当たらなかった。
こんな時頼りにできるような友達が一人もいない、ということも、私の身にひしひしと辛く、より絶望感を加えた。まあいい、いざとなったら公園ででも寝ればいい、ホームレスの人だってそうしているんだから、と考えた。
商店街のはずれまで歩き、酒造会社が角に建っているわき道へ、なんとなく右に折れた。そのわき道には右手に酒造会社の塀が続き、左手は空き地である。酒造会社の塀が尽きたところで、ぽつぽつ、人家が現れはじめ、やがて住宅街になる。
住宅が建ち並ぶなかを、狭い路地へ左に折れた。すぐ先に、大きな楠が中央に植わっている、「木の公園」と呼ばれているこぢんまりとした公園がある。私はそこへ向かった。とりあえず、ベンチで休みたい。
暗い夜道の脇に、楠の陰が見えてきた。すぐに、公園の敷地を囲っている植え込みも見えた。その植え込みが途切れている部分が、公園の入り口である。
――と、私がその入り口に辿りつく手前で、前方から一台の自転車のライトが近づいてきた。私は自転車を避けるため、身を路地の端に寄せた。自転車は通り過ぎていく。通り過ぎた、と思った瞬間、
キッ
と音を立てて、すぐそこで停まった。自転車の上の人は振り返った。見慣れた、セミロングの直毛の髪が揺れた。
「誠己?」
Ⅰさんは、驚きを含んだ声をあげた。真っ赤なPUMAのセットアップ・ジャージを着ているのが、夜目にも目立った。
「ウケる、誠己だ。何してるん? 散歩け?」
そう言いながら、サドルにまたがった両脚の、足の裏で、後ろから前へ交互に地面を蹴って、自転車をバックさせてこちらへ近づいてきた。
「ああ、うん。あ、さっきごめん、電話」
唐突に起こった偶然に、私はちょっと動転して、当を得ない答えをした。答えながら、泣いていたのがⅠさんにばれないよう、慌てて目を拭った。
「いや、いいんだけどさ。どうしたん?」
「ああ……。なんていうか、電話、兄貴に切られちゃって。家、出て来ちゃった」
「え?」
私は、さきほど家で起こったことを簡単にⅠさんに説明した。
「それは、ひどいね。歯はだいじなん?」
「だいじ。別に殴られたのはいいんさ。ただ、親父が『うるさい』って言ったのが許せなくて」
「そうなん。……で、これからどうするん?」
Ⅰさんが聞いてきた。
「どうするかな。とりあえず、家には帰りたくないから、野宿でもするかな。ははは」
私は空元気を出してわざと明るく笑った。その笑い声は、公園の楠にたっぷり茂った葉たちに、虚しく吸い込まれていった。Ⅰさんはそんな私の笑い声をやりすごし、一拍置いてから、
「じゃあ、うちに来れば?」
真面目に呟いた。
「え?」
「行くとこ、ないんだべ? うち来ればいいじゃん。うち、親も居ないし、だいじだよ。ほら、乗れば」
と言いながら自転車を180度方向転換させて、私のそばまでやってき、とんとんと鉄製の荷台を叩いた。そこに乗れ、という意味なのだろう。
「いや、だいじょうぶだから」
私は当然遠慮した。ありがたい気持ちもわき起こったが、女子の家に泊まりに行くなど、考えられなかった。それに、円香に伝わったらどう言い訳すればいいのか、ということも頭の隅に浮かんだ。
「だいじょうぶじゃないべ。野宿なんて、まだ寒いし」
「いや、どうしようも無かったら電車で栃木か小山辺りに行って、ホテルにでも泊まるから」
「中学生が一人で泊めてもらえると思ってるん? だいたいそんな金あるん?」
「……」
「ほら、早く乗って」
また、とんとん、とやる。私は相手に聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で、「……じゃあ。……ありがとう」と呟き、荷台にまたがった。
「よし。……きゃははは、重い重い」
Ⅰさんは自転車をこぎ出したが、自転車はすぐにバランスを崩して倒れかけ、私たちは片足を着いた。
「誠己、細いのにね。やっぱり男は違うね。よっと、……きゃはは、だめだ」
二度目の挑戦も、あっという間に左に倒れかかって数メートルで止まってしまった。
「だめだー、誠己、前乗って!」
「ああ」
私たちは席を交換した。Ⅰさんが荷台にまたがったのを確認すると、私は勢い良くペダルをこいだ。最初少しふらついたが、すぐにスピードに乗って安定した。Ⅰさんは後ろから私に「そこ右」「次また右ね」などと道案内をし、踏み切りを渡るときには、「ガタガタして股に響くんだけど」と騒いで私を苦笑させた。
住宅街を抜け、空き地や田畑が目立つ真っ暗な田舎道に出たころには、私は泣いていたことを忘れていた。




