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 五時前、Ⅰさんが帰ってきた。暇だったのと今夜以降どこに泊まるかという不安とにさいなまれていた私は、彼女の帰宅がどうにも心強く、素直にうれしかった。Ⅰさんはコンビ二で菓子を袋いっぱいに買ってきてくれていて、居間で二人、それを食べた。


「うちに誠己がいること、円香には黙っておいたからね」


Ⅰさんはコタツに入って、ポテロングをパリポリかじりながら言う。


「ごめん」


私もコタツに入り、ピザポテトを口に含んで答えた。


「いいっていいって、泊まったこと言うと私も微妙に気まずいから」


 それからⅠさんは続けて何かを言いかけた、その時だった。


ガチャ、バタン


 玄関の扉の開く音がし、僕と愛さんはぎょっとして口をつぐんだ。とんとんとん、と荒々しい足音が玄関から台所、そして居間の方へと向かって来た。居間の入り口の扉が勢いよく開いた。


「ただいま。ほら、やっぱり、誰かいた」


 四十歳前後と見える、小柄の、パーマをかけた髪を茶色に染めた女性が入り口に立って、言った。女性はベージュ色のトレンチコートの下に、紫のひらひらした、齢に似合わないスカートをのぞかせていた。脚には黒のストッキング。一目見て、夜の仕事をしているのだろうと想像させる派手な風貌だった。低い鼻と細い眼が、Ⅰさんとの血のつながりを感じさせた。化粧はしておらず、顔中のそこここに露わになっている皺に、生活の疲れと齢がにじんでいた。


 Ⅰさんのお母さんはふっとひとつため息をついて、Ⅰさんに、


「あんた、どうしてこうなん? ここはラブホじゃないんよ。受験、もうすぐなのに勉強はどうしたん? 本当、だらしないったらありゃしない」


と、酒焼けしたひどいしわがれ声で言った。「ありゃしない」と言い終わるか終わらないかという時に、Ⅰさんが突如キレた。


「……るっせえんだよ!」


 短く叫ぶと、そばにあったクッションを掴み、母親に向かって投げつけた。クッションはⅠさんのお母さんの左側に逸れ、壁に当たって虚しく落下した。


「だらしねえのはお前だべ! いつも佐々木さんの家に入り浸ってるくせに、親づらすんな!」


 そう言って今度はコタツの天板に載っていたテレビのリモコンを掴み、再び投げつけた。リモコンはⅠさんのお母さんの胸の辺りに当たり、お母さんは「きゃ」と小さく声をあげた。


「痛っ。なにすんのあんた、親に向かって」


「親じゃねえし」


「何言ってんの、誰がそこまで大きくしてやったと思ってるん」


「誰もあんたに育ててくれなんて頼んでないんね」


「あっそう、じゃあ出てけばいいじゃん」


「ふざけんな、お前はいつもそうやって、私がガキだからって弱みにつけこんで嫌味言って――」


 それから二人の罵詈雑言の応酬が続いた。さすが親子、と思わせる、似たような高いテンションで、お互いをののしり合う。私は二人に挟まれて、どうしようもなく、ただおろおろとⅠさんの顔とお母さんの顔を交互に見ていた。するとしばらく経ったところで、お母さんが私のまごついた表情に気づき、


「ああ、ごめんなさいねえ」


喧嘩をしているところを他人に見られていることが急に恥ずかしくなったらしく、唐突に矛を収めた。Ⅰさんと戦うのをやめ、私の方を向いて、


「びっくりしちゃうわよね。せっかく来たんだから、ゆっくりしていってね」


とってつけたように笑顔を作って言うと、


「私疲れてるからちょっと寝る。夜ご飯できたら起こして。ほとんど寝てないんさ」


今度はⅠさんの方を向いて言った。膨らんだ風船から空気が抜けてしまったように、すっかり冷静になっていた。


「朝までヤッてたから?」


 お母さんはⅠさんの嫌味には答えずに、居間の入り口の扉の向こうへ戻って行ってしまった。廊下の向こうに自分の寝室があるのだろう。


 Ⅰさんはコタツに入ったまま、上半身をねじって、お母さんの消えた扉の方を向き、扉を数秒間睨みつけていた。しかしやがて上半身を戻すと、私を見て、


「ごめん。ふふふ。うち、だいたいこんな感じ」


恥ずかしそうに笑った。


 二人の喧嘩が終わった居間には、間の抜けた沈黙が漂った。部屋の南側の窓から射し込む夕陽が、部屋をオレンジ色に染めていた。Ⅰさんが投げつけたクッションから立ちのぼったのだろうか、白い細かな埃が、その陽射しの中を舞っている。


 見てはいけないものを見てしまったような気まずさから、私は黙りこくっていた。Ⅰさんは両手をお尻の後ろの床につき、上半身を後傾させて、天井を見て「はあっ」と明らかなため息を吐いた。それから彼女の体の後ろ側に位置している窓の方を振り向くと、「あ」と何かに気づき、こちらを向いて言った。


「誠己、ちょっと外に行かねえ? 近くに夕焼けの綺麗な丘が――丘って言うほどのものじゃないんだけど――私がそう呼んでるところがあるんさ。多分、この感じなら、綺麗な夕焼けが見れると思うんね」


 そう言いながら、また後ろを振り向いた。どうやら窓の外からの陽射しを見ているらしい。


 私は別に、異論は無い。彼女に従うことにした。

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