私ならできる
ブライダルカメラマンに就職して、4か月ほどが経ちました。最初は会場にも連れて行ってもらえなくて、先輩の撮った写真をパソコンで見るだけだった。その次は型撮りのアシスタントだった。会場に行けるだけでも楽しくて、電車に乗ることもあまりないから、プチ旅行に行ける気分だった。前撮りのアシスタントに行かせてくれるようになって、先輩のとても楽しそうに撮る姿がかっこよくて、キラキラしていて眩しかった。パソコンでの事務作業を頼まれるようになって、「もしかして役に立っているのか」と初めて思った。そう思えたのは、就職して1ヶ月が経ったころだった。
8月から、初めてカメラを触らせてもらえるようになった。
8月5日、初めて婚礼に入った。「カメラ持ってるだけで許可証になるから」Canonのカメラが偉大だと思えた瞬間だった。挙式ですでに感動しすぎて震えていた。ベールダウンの時に思わず泣いてしまった。バージングロードを歩く花嫁の姿は何とも言えない感情で、切なく悲しく、でも美しく逞しかった。退場する新郎新婦の顔は入場する時とは違い、楽しい未来を見ているようで、チャペルの中の誰よりも幸せそうだった。披露宴では最初はすごく場違いな気がして、そわそわした。そこには笑顔が飛び交っていて、私も思わずシャッターを押していた。「楽しい」なんて言葉では足りないくらいの空間で、こんな幸せの場所にいられていることが幸せだった。新婦から家族への手紙は、自分と重ねてしまって泣いた。お母さんお父さんへ感謝の気持ちが溢れ出すその手紙に、私の涙も溢れ出していた。おひらきまでの2時間半、本当にあっという間だった。胸が締め付けられっぱなしだった。どっと疲労感がやってきたことは言うまでもなく、家に帰ってすぐに寝た。こんな幸せの空間にいられる仕事なんだと、改めて感動した。
それからカメラを持って、婚礼で撮影させてもらえるようになった。最初は1台だったカメラも、今じゃ当たり前のように2台持って、ストロボも2台つけている。先輩たちと同じ、カメラマンみたい。
ようやくお母さんと話してきた。3か月ぶりの対面。緊張した。普通に会話ができたことが何より嬉しかった。「応援する」と言葉聞けただけでじゅうぶんだった。
カメラマンしたい思いはずっとあった。でも反対を押し切ってしたことがもやもやあったのは事実で、誰よりお母さんに応援してもらいたかった。お母さんに聞きたいこといっぱいあって、お母さんの好きそうな空もご飯も服も伝えたくって、恋愛話も仕事の話も聞いてもらいたかった。冷戦はつらくてたまらなかった。お母さんの美味しいご飯が食べたかった。何度涙しただろう。子離れできていないんじゃなかった、親離れできてなかったんだ。もう親離れできていなくていいから、お母さんが死ぬまでずっと一緒にいてほしい。なんてね(笑)
気がつくと、もう24件の婚礼に入らせてもらった。正直婚礼に入るだけでしんどい。先輩について行くだけでかなりへとへとになっている。先輩の目や画角を気にして、サービスマンの動きを気にして、トークもして、ずっと笑顔でいるなんてもうすでに容量を超えている。それでもいい写真を撮る先輩たちはすごすぎてたまらない。超人だ。
カメラよりも私の最大の壁に既にぶち当たってしまったらしい。笑顔とコミュニケーションという私の最大の敵。「おまえならできる」そう先輩の言葉を信じて、私は笑う。「私ならできる」もう逃げない。笑え、笑え、笑え、地球の裏側の人にまで届くくらい笑い続けるんだ。そして私は一人前のカメラマンになる。親を認めさせるカメラマンになる。自慢してもらえるようなカメラマンになる。