第七十六話 長い時の中で願うのは
蘭華に会えなくなって、自分は何もかもがどうでもよくなった。
街に幽鬼が現れ、人を襲っていると聞いても、蘭華と引き離した奴らの言うことなど聞きたくなかった。
そんな時に、とんでもない情報を耳にしたのだ。
幽鬼を恐れず、その声を聞く少女がいる、と。
少女の名も聞いていないのに、自分はすぐに蘭華だと思った。
役に立つのかもわからない道具しか作れない自分に何ができるのか分からなかったが、その話を聞いてすぐに神殿を飛び出した。
そして、力の感じるままに走り、蘭華と初めて出会った森にたどり着いた。
彼女は少し見ない間に神々しい力に満ち、強大な力を持つ神のお気に入りになっていた。
神の名は、蒼華大神。
「わたしに力を授けてくださったの」
久しぶりに会った蘭華は、歳を重ねただけではなく、自分が見たこともない表情をしていた。
そう、蘭華は恋をしていたのだ。
それは、自分がずっと、蘭華に向け続けていたもの。
臆病だった故に伝えることができなかった想い。
蘭華も自分と同じ気持ちでいてくれる、そう信じたかった。
しかし、蘭華にとって自分はただの友達。その親愛が恋情に変わることはなかったのだ。
その現実が、あまりに重く、自分にのしかかった。
蘭華に会えない寂しさ、独りではないことを知ったからこそ強くなった孤独感、それらをずっと抱え込んでいた自分は、あまりに愚かだった。
彼女は、本当に自分を愚弄していたのかもしれない。
自虐的に自分から名乗ったくせに、ひねくれた思いは膨らんでいった。
寂しく思っていたのは、自分だけだったのだ……そう思うと、蘭華を思う気持ちの分だけ悲しみと嫉妬は大きくなった。
いつしかその思いは自分の中だけに収まらず、蘭華を蒼華大神から奪うために神殿に来る者たちを利用した。
あの神から幽鬼を癒す力を授かったのが悪いのだ。
蘭華は自分だけを見ていればいい。
そのために、幽鬼からも蘭華を奪いたかった。
幽鬼が蘭華を守ろうとして、蘭華は幽鬼たちを救おうとする。
苛立ちが増し、自分は人々の不安と闇を煽り続けた。
そして、悲劇が起きたのだ。
ただ、もう一度自分を見てほしかっただけなのに、蘭華は死んでしまった。
この世から、消えてしまった。
その命を奪ったのは、自分。
優しい光を奪ったのは、自分。
歩み寄ろうとする蘭華を嫉妬ゆえに拒絶したのは、自分。
何もかも、自分のせいだった。
馬鹿で、愚かな自分のせい。
自分には、愚弄、という名が最も相応しい。
幽鬼たち闇の者を救う姫、〈幽鬼姫〉になった蘭華は、最高神である蒼華大神を愛していた。
そしてまた、蒼華大神も蘭華を愛していた。
幽鬼姫である蘭華を失った幽鬼と、愛する蘭華を失った蒼華大神の悲しみが同調し、そのすべてが髃楼に向けられた。
髃楼の心もまた、蘭華を死に追いやったことでボロボロに崩れていた。
――どうせ独りになるならば、死んだ方がましだ。蘭華のいない世界を、生きていくことなどできない……。
髃楼は死を望んでいた。
だからこそ、髃楼の命は蘭華のいない世界を永遠に生きることになった。
幽鬼の闇に呑みこまれ、蒼華大神の力に魂を引きちぎられ、髃楼の魂に残ったのは負の感情と〈幽鬼姫〉への執着だった。
髃楼は、死ぬことなく転生して〈幽鬼姫〉を探した。
しかし、どの幽鬼姫も髃楼が求める〈幽鬼姫〉ではなかった。
その違和感は大きくなるばかりで、髃楼は完璧ではない〈幽鬼姫〉を許せなかった。
幽鬼姫を殺し、再びその力を受け継ぐ者が生まれるのを待つ。
そして、その幽鬼姫が完璧ではないと分かると、また殺す。
髃楼を癒そうとする幽鬼姫たちに、苛立ちが増した。
完璧ではないくせに、彼女たちは髃楼の心に寄り添おうとした。
もう、髃楼に心など存在しないのに。
いつまで待っても、髃楼の求める完璧な〈幽鬼姫〉は現れない。
幽鬼姫の力は、蒼華大神の力でもある。
ならば、蒼華大神の血筋である皇族に近づけばいい。
髃楼はそう考え、皇族に転生した。
偶然か必然か、妹として生まれた凛鳴は幽鬼姫だった。
しかし、凛鳴もまた完璧ではなかった。
だから、髃楼は自分で作り出すことにしたのだ――完璧な幽鬼姫を。
皇帝となり、髃楼は自分がまだ「若様」だった時の記憶が少しずつ蘇った。
誰も自分を見ず、その立場だけを見て媚びへつらう人間たち。
まだ人間らしかった過去と、〈幽鬼姫〉以外には心動かされない現在の自分。
自分が何を求めているのか、どうしたいのか、数千年の時の流れにより、髃楼は何もかも分からなくなっていた。
ただ幽鬼姫を殺し、幽鬼姫を求めるだけの日々にはもううんざりだった。そして、闇の中を生き続けることにも。
「瓏珠様、そんな悲しいお顔をしないでください」
ただのお飾りの皇帝として、髃楼は朱紅城に存在した。
そんな置物同然の髃楼に、婚約者だと紹介された美しい女性は笑いかけてきた。
その容姿、雰囲気、声は、とても蘭華に似ていた。
その瞬間、髃楼は蘭華を愛していたことを思い出した。
蘭華を愛した自分が、蘭華の命を奪い、蘭華のいない世界で、蘭華の守ろうとしたものをすべて壊している。
もう死にたい。蘭華の手で殺して欲しい。
蘭華に殺されるために、髃楼は〈幽鬼姫〉を探していたのだ。
その女性は、泣き続ける髃楼の背を優しく撫で続けた。
美しい声で歌い、髃楼を慰めた。
いつしか、髃楼はその女性に心を寄せるようになっていた。
取り戻したばかりの、人間の心を。
闇を少しずつ払いながら、彼女を守ろうとした。
〈幽鬼姫〉に執着するのはもうやめよう、とさえ思った。
このまま、彼女と平凡で幸せな生活を……そう願っていた。
しかし、彼女が髃楼の子を宿した。
それも、まだ腹の中だというのに〈幽鬼姫〉の力を感じさせる、娘だった。
どうせなら、自分の娘に殺されたい。
これは、蘭華を死に追い詰めた罰なのだ。
娘に自分を恨ませ、憎ませるために、過酷な運命を強いた。
母となった彼女は、そんな髃楼を止めようとした。
娘を殺すのではなく、殺されたがっているのだと彼女だけが気付いていた。
「あの子を巻き込めば、またあなた様は後悔し、闇に沈むことになります」
彼女は元々身体が丈夫ではなく、〈幽鬼姫〉の力を宿す娘を生んだことで日に日に弱っていき、最期にこの言葉を残して亡くなった。
ずっと側にいたいと思った女性を失って、髃楼は逃がした娘に殺されるためだけに生きようと決めた。
守るものはもう何もない。
一度闇に堕ちた者は、簡単に闇に呑まれる。
髃楼は術具に細工をして、呪具を作った。幽鬼姫の血を使用した呪具は、幽鬼でさえも従えることができた。
「美しく輝ける幽鬼の姫よ。父であるこの私を憎み、恨み、殺すがいい。〈幽鬼姫〉の仇であるこの髃楼の命を奪え!」
そうしてようやく髃楼の魂は解放されるのだ。