第七十五話 遠い若様の記憶
誰も自分を見ていない。見ているのは、その立場だけ。誰も、心を見てはくれなかった。
誰も、心を見せてはくれなかった。生まれた時から、自分は一人ぼっちだった。
「若様、なんと素晴らしいお力でしょう」
名もなきこの地には、千を超える神がいる。
そして、時々生まれるのだ。その神々の力の影響を強く受け、その身に神力を宿す者が。
生まれ落ちたその瞬間から、自分はただの赤子ではなく、神の子として崇められた。
物心つく前から皆がひれ伏し、神の力と救いを求めた。
自分一人のために大きな屋敷が用意された。
そこは自分を閉じ込めるための牢であり、人々が救いを求める神殿だった。
神々は存在していても、人々の前に姿を現さない。
だから、神力を宿す者を神の代理として崇め、祈りを捧げるのだ。
母であった人は、息子が神の代理となったために、世話役として側にいた。
産みの親に「若様」と呼ばれ、必要以上の会話はなく、ただの他人として仕えられた。
そこに、親子の愛情などなかった。
彼女の息子はただの人間ではなく、神の子だったから。
神殿で毎日毎日訪れる人々の祈りを聞き、上辺だけの尊敬を集めた。神力を込めた道具を作れば、おもしろいぐらい人が群がった。
皆が見ているのは神の力だけだ。
その力を宿している器にも感情があり、人間なのだということには気付かない。
誰も、自分の気持ちを聞いてくることはなかったのだ――あの少女が現れるまでは。
「あなたも、独りぼっちなの?」
息抜きのために神殿を抜け出し、近くの森の中で一人座り込んでいた時、そう声をかけられた。
声の主は、容姿は可愛らしいのに、あまりにみすぼらしい格好をしていた。
長い黒髪と白い肌が一番に目に入り、その距離の近さに驚いた。
そして何より、その漆黒の瞳が真っ直ぐに“自分”を見てくれていたことに、心が震えた。
「名前は、何というの?」
名はない。ただ、「若様」とだけ呼ばれていた。
神の子には名を付けられないのだ。
名は力を持つ。神力を持つ者に名を付ければ、人間の国を捨てて神の国へと帰ってしまうかもしれない、という考えがあったのだ。
だから、自分は少女の問いに答えることができなかった。
「私は、蘭華というの」
「……っぐぅ」
せっかく少女が名を教えてくれたというのに、男である自分が名乗らないのは失礼だ。
そう思い、声を発そうとして、喉が詰まった。
「ぐう?」
可愛らしい声で、少女は自分を見つめる。
声がうまく出せなかった羞恥と、「若様」ではない自分を見られている緊張で、表情が固まっていた。
「あの~、ぐうさん?」
自分の名を呼んでくれようとする少女が、本当に輝いて見えた。
しかし、「ぐう」という名は響きがあまり好きではない。
「え、と……ぐろう、と呼んでほしい」
咄嗟に思いついたのは、「ぐろう」だった。
時々、神殿で「若様を愚弄するな」という言葉を聞いたことがあった。
神の力を宿す自分に対しても、不満の声はあるらしい。
それを、自分の前では出さないだけだ。
だからこそ、人間は信用できない。
すべてが偽者で、つくりものだ。
悪意も敵意もすべて隠して、自分に笑いかける。
自分を利用するために、近づいて来る。
誰も自分を前にして愚弄することはできない。
好きなだけ愚弄すればいいのに、といつも思っていた。
だから、自分の名は「ぐろう」。
人々に崇められる立場の自分が、愚弄という名を持つ。
自分で自分を愚弄するのだ。
周囲に力を大事にされるほど、自分の心は自虐的になっていた。
純粋な少女には、そんな自分の心を見て欲しいと思った。
「わたしたち、友達になれるかしら?」
きらきらした瞳で問われれば、断ることなどできはしない。
神殿に囚われている立場であることも忘れて、自分――ぐろうは頷いた。
蘭華は、落ち着いているように見えて、意外と活発的な少女だった。
そして、蘭華にもかすかに神力が感じられた。
独りぼっちだった自分を見つけてくれた彼女に、ますますぐろうは惹かれていった。
自分が神力のために崇められ独りだったこと、誰も自分を見てくれないこと、人間の心は闇ばかりだということ、自分の気持ちを初めて他人に打ち明けた。
蘭華はいつも優しく話を聞いてくれた。そして、いつも希望をくれた。
「たしかに、人は自分勝手だし、きっと闇もあると思う。でもね、わたしたちはその闇に触れて、寄り添うことができると思う。ぐろうとわたしが友達になれたみたいに」
だから、人間は闇ばかりじゃないよ――そう言って笑う蘭華にどれだけ救われただろう。
しかし、自分がたびたび抜け出していることが神殿の者たちにばれ、神の力を宿す者が俗世と関わってはいけない、と完全に自由を奪われた。




